第四章「怒発」(3)
ローファン伯爵邸に着いたユマは、目を丸くして彼を迎えた家臣を突き飛ばすようにして邸内に入った。
「何をする!」
ヌルの配下と思われる者が飛び出してきた。ユマは彼らをかっとにらみつけると、
「何をするだって? それは俺の台詞だ。ローファン伯の身を案ずるなら黙って通せ。ボケども!」
と、叫んだ。
驚いて邸内から出てきた人物がいる。ホウだ。片足が折れているため、杖をついている。
「先生、ご無事でしたか」
ホウはユマの姿を見ただけで目を潤ませた。リュウはどうやらヌルと同行して闘技場にいるらしい。それにしてもホウの泣くような笑うような表情はどうだろう。ユマの身に危険が及んだことを心の底から案じてくれたのだ。
「これが無事に見えるか?」
ユマは顔を傾かせて左頬を見せた。鞭で激しく打たれて蚯蚓腫れが出来ている。
ホウに続いてユマの視界に入ってきた者たちがいた。アカアとリンだ。
「ああ、先生……」
アカアはかすれそうな声を上げてユマに走りよった。普段からおっとりした雰囲気を崩さない彼女に抱きつかれたときは、さすがに驚いた。
「先生、先生。ああ、生きておられた……」
語尾で声が躍り上がるようになった。アカアは目に涙を溜めて嘆願した。
「お父様が、お父様が危ういのです。このままでは我が家はシェンビィ公の家臣を殺した罪に問われます。お父様はガオリ侯を信用していらっしゃるようですが、私にはとても……それにお父様は陰険な暗殺を企むような方ではありません。先生、お願いです。お父様を救ってくださいまし……」
アカアなりに危機感を感じていたようだ。王国最高の貴族に敵視されたのだから、当然だろう。ユマがうれしかったのは、暗殺がユマの仕業であるという誤報にアカアが騙されなかったことだ。彼女がユマのことを先生と呼ぶのは、どうやら遊びではないらしい。
「わかっているよ、アカア。今から闘技場に行く。その前に、最初に会ったときに俺が着ていた服を出して欲しい」
「ああ、正装されるのですね。わかりました。リン……」
ユマが正装するということは、彼が己が無実を訴えるために闘技場に赴くのだとアカアは解釈した。闘技が大好きなアカアであるのに、おとなしく邸内にいるということは、ローファン伯が危地に立たされているという話が真実味を帯びてくる。ただ単にアカアを闘技狂にしたくないだけかもしれないが。
アカアが呼ぶと、リンはすぐに心得てユマを邸内に導きいれた。その間、両者とも無言だった。
一室に通されたユマは裾の破けたスーツに着替えながら、ローファン伯のことを考えていた。
(アカアはああ言ったが、どう考えてもローファン伯の自業自得だろう)
ローファン伯が何者かの暗殺を企んでいたのは確かだ。ユマはクゥのことだと思っていたが、どうやらそれがシェンビィ公の家臣だったらしい。だとすれば事件現場の近くにホルオースがいた事実も納得できる。ただし、彼がローファン伯に助力する理由は、ユマにはわからない。
それに、エイミーである。
厳重な警備を抜けてシェンビィ公爵邸に忍び込んだり、シャナアークスが言うところ相当に難易度の高い術を使いこなしたりと、彼も只者ではなさそうだ。気にかかったのは、クゥやシャナアークスのような術士に対しては、ユマには術の起こるさまが手に取るようにわかるのだが、エイミーのそれだけは片鱗すら見て取れなかった。
(シェンビィ公の家臣を殺したのはエイミーじゃないのか?)
と、ユマは想像力を働かせた。ユマの中で時々聞こえる声が、警告じみた台詞を吐く時、必ずエイミーが現れるのも気になる。
「それよりも、キダが先だ」
ユマが着替え終わるのを見計らって、リンが部屋に入ってきた。
ユマはそれでも黙っていた。特に話すことはないとも思っている。別に怒っているわけではなく、本当に彼女に告げるような言葉が浮かんでこないのだ。
だが、リンは沈黙に耐えられないらしく、すれ違い間際に口を開こうとした。
リンの小さな顎が動くのを見て、ユマは急にこの女が煩わしくなった。彼女が何かを喋ろうとするのを上から押しつぶすようにして、ユマは言った。
「俺はお前に何もしない。それでもいいと思っている」
肩に重みを感じた。上着の端をリンの手がつかんでいる。
「それでは、貴方の無実を証明することが出来ません!」
状況証拠でいえば、ユマが圧倒的に不利だと彼女は言ったのだ。それよりもローファン伯の悪事を全てばらせば良いではないか――と暗に言ったことになる。普通に考えればユマは理不尽な悪事の犠牲になったのであり、たとえアカアに拾われたことに恩を感じていたとしても、この状況でローファン伯を救おうとするのは愚行といわれても仕方がない。
――何を今さら……
とはユマは思わなかった。
「リン、舌が痺れないか?」
上着の端をつかんでいたリンの手がきゅっとかたまった。
(やはりな……)
ユマは今更リンを憎もうとは思わない。キダがそうだった。彼はシャナアークスに罵声を浴びせかけられ、鞭で叩かれても彼女の美点から目を逸らさなかった。ユマはキダほどにまっすぐになれる自信はないが、自分の思ったようにリンを信じればよい。彼女はローファン伯の低劣な陰謀に利用されたのであり、ユマが呪いを解けば自分の命を失う。
「アカアは善い子だよ……」
ユマはそれだけ言うと、無理矢理リンの手を振りほどいた。ユマが煩わしいと思ったのは、今更ユマに泣きつこうとする彼女ではなく、それを受け止めてしまいそうな危うさを秘めた自分自身だった。リンを救うためには、ユマは彼女とともに王都から逃げるか、ローファン伯を滅ぼさなければならない。
気づけば、アカアの前にいた。
ユマは目を赤くして父の身を案じる彼女の頭にぽんと手を乗せると、
「じゃあ、行って来るよ。先生に任せておきなさい」
と軽口をたたいた。だがその声はどこかくぐもっていて、お世辞にも力強いとはいえない。
スーツ姿のユマを初めて見たシャナアークスは、少し驚いたようだったが、何も言わずに馬車を走らせた。
やがて、闘技場が見えたとき、日が暮れかけていた。
馬車を下りようとしたユマに向かって御者席から声が落ちてきた。
「どうするつもりだ?」
ユマは黒マントに身を包んだ。誰かに顔を見られるとつまらぬことになる。
「どうするも何も、目的は最初から変わっていない。クゥに勝ってキダを取り戻す。それだけだ」
世間的に見ればユマはもう罪人である。この時点でクゥとの試合がまだ有効であるかどうかは、フェペス家とローファン伯爵家との間で話し合うことであり、シャナアークスには判断できない。先ほどのアカアの反応を見る限りでは、もしかすると闘技場で行われているのはクゥとキダの試合ではなく、ローファン伯の弾劾裁判ではないかという懸念を覚えた。そんな中にユマが飛び込んでゆくのなら、それはそれで面白いことになりそうだが、
(呪いのこともある……)
と、シャナアークスはユマの身を案じた。シェンビィ公――とシャナアークスは思っている――がどのような呪いをユマにかけたかはわからないが、ユマが裁判の場に引きずり出された際に、ローファン伯に有利な発言を行えないように口封じをされる可能性がある。人を死に追いやるほどに強力な呪術はオロ王国には存在しないが、シェンビィ公爵家はファルケオロ家とならぶ王国最高の術士の家系であるから、ないとは言い切れない。
それでもユマは行くつもりらしく、すぐに身を翻して闘技場に向かった。彼が何のためらいも見せないので、シャナアークスはかえっておかしみを覚えた。
(光王が私と同じものをユマから感じたとすれば、どうだろう……)
と、シャナアークスは行き過ぎとも思える想像をした。
「ユマ!」
呼ばれたユマが振り返ると、長細い何かが目の前に飛んできた。思わずそれを受け止めるとずっしりとした重みが腕にかかった。
剣である。シャナアークスが訓練の際にいつも身につけていたものだ。
「我がオルベル家の宝剣だ。お前にやろう」
「いいのか?」
「闘士に二言はない」
ユマは小さく笑った。シャナアークスは闘士賞冠を王宮に返上したばかりだからだ。ここは「騎士に……」と言うべきだろう。
「確かに、受け取った」
ユマはマントの中に宝剣をしまいこむと、先ほどから絶えず歓声の響く闘技場を見た。
(キダ、まだ生きてるよな?)
シャナアークスが馬車から降りたところで、黒服と黒覆面で身を包んだ者たちが二人を囲んだ。
五、六人といったところか。闘技場が視界に入っているとはいえ、人通りの少ない脇の小道にユマたちはいる。
黒服たちは有無を言わさずにユマに襲い掛かってきた。
ユマは剣を抜こうとしたが、シャナアークスが眼前に躍り出たことで、妨げられた。
「やすい相手に剣を抜くなよ!」
シャナアークスは素手で黒服の一人を殴り飛ばした。相手は武装しているのに、彼女は素手で戦おうとしている。
「無茶なことを言うな……」
と言ってみたが、シャナアークスの膂力は並外れている、ユマが目を凝らしてみると、彼女の両肩から光が漏れ出ている。これも一種の術なのではないかと、ユマは思った。でなければ人間ひとりを軽々と投げ飛ばす彼女の怪力に説明がつかない。
「うあぁぁ!」
シャナアークスが咆哮を上げると、それだけで賊が吹き飛んだ。
彼女は棒立ちのままのユマをしかりつけるようにして、
「さあ、行けよ!」
と、叫んだ。
ユマは無言で頷くと、倒れた賊をまたいで走り出した。傷が痛むので長くは走れそうにないが、闘技場までなら無難に行けそうだ。
賊はシャナアークスに全く太刀打ちできない。それがユマの心に余裕を生んだ。
走り間際に振り返ったユマは、地面に投げ飛ばされた賊の頭目と思われる男に近づき、シャナアークスには聞こえないよう、小声で呟いた。
「そんなに俺に死んで欲しいか。ホルオース!」
ユマは走った。後ろからぎりりと歯噛みする音が聞こえたような気がした。
闘技場にたどり着いたとき、ユマはその静けさに不安を覚えた。西の空を見た。日が沈みかけている。
(予定では日没前に開始だったな。どうにか間に合ったか?)
ユマは楽観したが、この頃、闘技場からキダの姿が消えていた。