第一章「原初の声」(4)
「おい」
疲れていたためか体がだるく、湯山は最初、その声に反応できなかった。
「おい、起きろ。風邪をひくぞ」
と、言われて起きたのは、額に何か冷たいものがあたったからであった。
(雨だ……)
ずぶ濡れになって見る見る衰弱してゆく自分を想像した湯山は、跳ね起きた。
「わっ!」
何かに激突した。
額を押さえて目の前を見ると、自分と同じように額をさすっている男がいる。
(人だ……)
あれほど探し回った人間に出会ったというのに、湯山は安心しなかった。というよりも、警戒した。男の身なりが、多少は湯山も想像していたが、自分の衣服とかけ離れていたことと、どうやら一人ではないらしいことに気づいたからだ。
男は、湯山が中国の時代劇で見たような黒い衣をまとっていた。縁が最も黒く、他はやや色が浅い。髪は後ろに長く纏めていて、スーツ姿に短髪である自分が周囲から完全に浮いていた。
既に火が消えた焚き火を囲んで数人がいた。皆、湯山と額を激突した男と同じ身なりだった。
湯山が目ざとく見つけたのは、彼らの主か何かが乗っているらしい馬車だった。湯山はこの光景だけで、この世界の人間が、主と従を厳しく区分する何かから抜け切れていない蒙さを持っているような気がした。この予想が彼を最も警戒させ、しかも後に当たることになる。
「そこな、旅の人」
馬車の窓にたれたカーテンの中から女の声が聞こえた。その声とともに黒衣の男たちが一斉に跪いた。
湯山は奇妙な体験をしている自分に気づいた。
先の男にしろ、車上の女にしろ、喋っている言葉は湯山にとって全く耳慣れないものであるのに、頭の中ではそれが理解できるのだ。
――ようこそ。
妖精のような何かと触れ合っていた時のように、頭に直接意思を穿つ様な何か。それが全く知らない言語を、湯山が理解することを可能にしている。
(原初に言葉ありき……か)
何かで読んだ一説を思い出すと、湯山は妖精から受け取ったものが何であったかにあたりをつけた。
男の一人が馬車の扉を開けると、中から一人の少女が現れた。
(紅い……)
髪がやや紅い。少し小柄で、少女のようだが、思わず口元が緩んでしまうような愛らしい顔をしている。目が大きく、可愛げを損なわない程度にそばかすがあり、鼻はこじんまりとしている。衣服は無骨な男たちが蠅に見えるくらいに整っていて、青をベースにした幾重かの衣を着重ねている。
「見慣れぬ衣服を着ておられるが、どちらのご出身でしょうか?」
湯山は一人では生きていけない自分を痛感している。寝ている間に雨に打たれていれば、三日もたたずに肺炎を起こし、それをこじらせて死んでいたかもしれない。
ひとまずは行儀のよさそうなこの女に身を寄せることを考えるしかない。どこかの集落に紛れ込んだとして、一から生計を立ててゆく自信など湯山にはない。それよりも、このお嬢様じみた娘に寄生することで急場をしのげれば十分とすべきだろう。
(そのためには、なめられない事だ)
最初から、湯山はそういう目で少女を見ていた。少女にすれば単なる好奇心でこの見慣れぬ男に尋ねたのだが、湯山の方は人知れず必死だった。
「俺にとっては貴方の衣服の方がよほど見慣れない。どちらのご出身か、訊いてもよろしいか?」
ぞんざいな口調で湯山が言うと、少女は驚いたようだ。彼女が小さく頷くのを見て、湯山は自分に宿った神秘的な何かが、内から外に向けても作用するものであると確信した。
(言葉が通じた……)
一安心した湯山だったが、周囲の男たちの顔が一瞬だけ強張ったのを見たとき、わずかに後悔した。素直に状況を説明し、助けを請うべきであったのかと。
少女が、小さく笑った。
「これは失礼。わたくしはローファン伯の長女アカアです。この服は我がオロ王国の婦人であれば、誰でもたしなむ程度のものです」
暗に、この程度のことも知らない貴方は誰なのだ――と言われている気がした。だがそこに悪意が感じられないのは、この娘は本当にそれを疑問としているのかもしれないと、湯山は思った。
(正直に言うか。信じられるようには工夫するとして……)
相手にあまりにも毒気がないので、湯山のほうが馬鹿らしくなってしまった。
伯爵の娘と聞いて多少は気圧された湯山だったが、顔には出さないように努めた。本来ならば表情に出てしまうところだったが、何分顔色が悪く、今の湯山は何を話しても不機嫌そうに映る。
「俺の名は湯山翔。どうやら見も知らぬ土地に放り出されたようだ。乗り物に乗っていたんだが、途中で壊れたので今こうして人里をさがして歩いている」
こういうことを話すとき、湯山はなぜか知らない他人のことを話すように淡白になる。このせいで聞き手に事の逼迫が伝わらずに損をしたことが何度かあるが、本人はその原因が自分にあることにすら気づいていない。
だが、今ばかりはこれが幸いした。少女アカアの関心をひいたのだ。
それに、湯山が思わずやってしまった動作が契機となった。
突然、耳をつく高音がユマの懐で鳴った。彼はおもむろにポケットから携帯電話を取り出すと、前日に目覚まし代わりに設定していたことを思い出しながら、音を消した。
「ああ、気にしないで。ただの目覚ましだから」
湯山翔という人物を強烈な印象とともに相手に焼き付ける効果が――本人ははからずとも――この行為にはあった。
他にも、ユマが煙草を吸う際に使うライターなどは、大いにアカアの好奇心を刺激した。
「ユマカケル殿は術士であられたか……」
そこからは飛ぶように事態が好転した。車上に誘われたのである。湯山が術士とかいうもの――大体想像は付くが――に間違われた上、その後の問答に決定打があった。
「湯山が氏で、翔が名だ」
氏名で呼ばれると、どこか冷たい感じがして嫌な気分になったために、湯山が意味もなくそういったのだが、どうやら氏を持つというのは特別な意味があるらしく、先の携帯の件も合わさって、ユマという男が妙な存在感を持つようになった。
湯山はアカアと臨席した。
お嬢様の気まぐれで道連れになるということが、何を意味するのか、湯山はこの時大した予想を立てなかった。
香を焚いてあるのか、馬車の中の香気にむせ返りそうになった。
「ユマ先生、ユマ先生」
道中、アカアは湯山のことをこう呼ぶ。もうこれ以降は湯山という漢字は必要ないだろうから、彼のことを単にユマと呼ぶことにする。
車上の旅が快適とは言いがたいが、ユマのように歩きなれない人間にとっては天からの恵みに匹敵した。
「このあたりのことが知りたい」
そう言いながら、ユマはアカアにこの世界のことをさりげなく尋ねた。彼女と接してみて気づいたことだが、ユマはアカアが持つ本に書かれた文字を読むことが出来なかった。
「なるほど、言葉ありきだ」
妙なところで感心してしまったが、とにかく、彼女の言ったことで重要そうなものをメモ帳に書き留めた。アカアにはユマの持つものや仕草の全てが新鮮らしく、目を爛々と輝かせていた。
アカアの馬車に乗るのは一日のうち、ほんの二、三時間ほどで、他はアカアの乗る馬車の後に続く荷馬車の一角をあてがわれた。換え用の馬に乗ればどうかとも言われたが、振り落とされるのが目に見えているので断った。時々、黒服の男たちにまぎれて歩いたりしたが、彼らはユマのことを快く思っていないらしく、ろくに会話もせずに荷馬車に戻った。
「どこへ行くんだ?」
ユマが聞くと、アカアは周囲の景色を確かめるように幌をめくってから言った。
「王都ですわ。実家に帰るんですの」
「君の父はローファンとかいう土地の主じゃあなかったのか?」
「確かにローファンに封じられましたが、王宮勤めであるために王都に居をかまえていらっしゃいます」
ユマは、アカアの父が彼女に似ていることを心底願った。得体の知れない術士が、実はただの難民――というべきだろう――であることがばれればどうなるか。
(とにかく、食いつなぐことだ……)
そう思いながら、夜天の星を数えた。知っている星座はひとつもなかったが、やや欠けた月だけが、故郷のそれを生き映したように浮かんでいた。