第三章「舌禍啾々」(15)
奇妙といえば、ホルオースほど奇妙な人間はいない。彼はフェペス家の家臣であるにも関わらず、敵対するローファン伯と密談し、ローファン伯爵家の客人であるユマが捕らえられたと知っても、助けようともしない。さらにはこの時、闘技場の客席からやや離れた場所で、シェンビィ公の家臣とホルオースが影に隠れるようにしてひそひそと言葉を交わしているのはどういうことだろう。
「よろしいので?」
闘技場を支える柱の一角に話しかけたのがホルオース、その側面に軽く背を持たれかけているのは、シェンビィ公の家臣だ。
「よい。いずれ口を割るだろう。それからでも十分に間に合う」
「光王がユマを召喚した場合はどうなりますか? ガオリ侯ならば既に打診していてもおかしくありませんが……」
「キダとかいう奴隷が一人でも試合を行うとぬかしておる。試合が成立するのであれば光王もとやかくは言うまい」
歓声が上がった。既に前座の試合が始まっている。
ホルオースは試合の様子をみながら心中で時を数えた。
「いささか進行が遅くありませんか?」
ホルオースとしては一刻も早くクゥの試合を終えたいようだが、シェンビィ公の家臣は目の前のあまりぱっとしない男の懸念を嘲笑った。
「なに、蛮侯が嫌がらせをしておるのよ。逆に奴にはそれくらいしかすることが無いのだ」
ホルオースは柱の影から顔を出し、舐めるように観客席を見渡した。
客席の中心に御簾の張られた空間がある。名目上、闘技場の主催者である光王の席だ。その近くに涼やかな顔をした背の高い人物がいる。
耳を覆う程度の長さの髪は黒く、鼻筋に気品がある。目元の涼やかさは南蛮の田舎者とは思えず、学問で自らを鍛えた強さが見える。優雅という一語でかたつかぬ容姿は、彼が威を持っている証拠であり、それでありながらどこか線の細い美男子でもあった。
(蛮侯とはなんと似合わぬあだ名か……)
と、ホルオースは嘆息した。ガオリ侯爵家は先代まで南蛮の小部族に過ぎなかったことから、蛮侯とも呼ばれる。田舎侍が才徳でもって昇進を続けるのが、他の貴族連中には我慢がならないらしく、このあだ名は彼らが放つ負け犬の遠吠えに近い。
ガオリ侯は光王からみてやや離れた右側の席に着いているが、王の左横にまだ姿を現してはいないシェンビィ公の席がある。オロ王国の貴族の最高位である公爵は、シェンビィ、ファルケオロ、トグスの三家だけだ。ガオリ侯が台頭するまでは、シェンビィ公爵家が最高の権勢を誇っていたが、それを危険視したトグス家がガオリ侯に接近したことにより、王宮の勢力図は三家鼎立に近い状態になっている。ファルケオロ家は隣国のペイル共和国が王政だった頃の王族が本流であり、もとよりオロ王国に根が深いわけではなく、血筋の尊貴さもあって代々の光王からも敬意を払われており、二者の対立を傍観しているに近い。また、トグス家の当主は幼年であり、事実上、シェンビィ公爵家とガオリ侯爵家は真っ向から対立していることになる。ただし、勢力としてはシェンビィ公爵家の方が遥かに大きい。ガオリ侯の強みは、現光王の擁立に尽力したことで王の信頼があついということだ。
宮廷では爵位に見合わぬ権勢を誇る彼を
――虎の威を借る狐よ。今はいきおい盛んだが、すぐにシェンビィ公に叩き潰されるだろう。
と悪評する者もいれば、
――あの悪狐は思わぬところで人を出し抜く。誼を通じぬのなら触れぬに越したことはない。
と、危険視する者もいる。シェンビィ公の家臣を見る限り、ホルオースにはシェンビィ公自身も前者であるように思えてならない。
(甘くみてよい相手ではない)
ホルオースはシェンビィ公の家臣と話すうちに芽生え始めた楽観を戒めた。とはいえ、フェペス家の者を使ってガオリ侯を探ることは出来ない。
(主を説こう……)
クゥの異腹の兄でもあるフェペス家の当主は、庸主としか言いようのない男で、既に少壮であるにもかかわらず、いつもどこかおどおどしている。
ホルオースはキダとともに竜機の訓練を行うユマを見ながら、
――主に似ている。
と多少の親近感を覚えたことがある。ユマも普段は視線が泳ぎ気味で、小心な上に周囲から甘やかされて育ったことが一目でわかる。それだけに彼を過小評価しがちな自分を戒める必要があるだろう。ユマは暗愚でも、彼の庇護者であるローファン伯や、まして確実にその背後にいるガオリ侯はわずかな油断も許されぬ危険な人物だ。
ホルオースの懸念は、フェペス家当主に対して、シェンビィ公に釘を刺すように注進しても、公の機嫌を損ねることを恐れて取り下げるかもしれないということだ。その場合は強諫するしかない。
頭のどこかが重くなるのを感じながら、ホルオースはフェペス家当主の席に向かった。
だが、意外なことに彼は快諾した。ホルオースの主人に対する気苦労は、ユマに対するキダのそれと多分に似ている。
「ユマがいなければ予定通りの試合にならず、ローファン伯が領地を出し渋るかも知れぬ。公がいらっしゃれば言上してみよう」
どうしようもないほどに浅慮なのは、フェペス家当主の人の好さだろう。少し考えれば、ローファン伯が領地を出し渋るはずが無いことがわかる。これは王覧試合であり、フェペス家とローファン伯爵家との間で交わされた約束が、そのまま王の掌中に納められる。それを反故にすることは光王をないがしろにすることと同じであり、ローファン伯がいかに吝嗇であっても、そのような愚をおかすはずがない。
また、ユマが欠場となれば代人をたてればよく、恐らくローファン伯はユマよりも遥かに武技に優れたヌルを出してくる。竜機ではクゥが有利だが、剣闘ともなればヌルの技量は侮りがたく、たとえ彼が出てこなくともキダが剣技にすぐれていることはフェペス家の者なら誰でも知っている。
クゥとユマの代理とで闘技を行い、クゥが勝つ。その上でユマが暗殺事件の実行犯であることを自白するのが、フェペス家にとって最上であることには違いない。だが、疑心暗鬼と言われれば確かにそうなのだが、ここ数日のキダの様子がおかしい。彼から猜疑の視線を向けられる覚えはない。
(ユマが何かをつかんだか……)
暗殺の現場にユマが居合わせたこと。同じ日に何者かがクゥに暗殺の危険があるとほのめかしたこと。これらを考えると、ユマがローファン伯とフェペス家(実際はホルオース個人)の共謀に感づいている可能性が無いとも言い切れない。それはホルオースにとって破滅を意味するが、シェンビィ公の動きを見るに、今のところはその様子がないのは不思議である。ともあれ懸念であることには違いなく、ホルオースにとって、ユマは自白するよりもシェンビィ公によって獄死する方が好ましい。この場合、シェンビィ公が闘士の身の安全を保障する光王をないがしろにすることになるが、フェペス家にとっては直接の打撃にはならない。ユマがシェンビィ公に捕えられたのは最初、ふってわいたような幸運と思っていたが、こうまで事態をこじれさせるとなると、この件で最も迷惑を被ったのはホルオースに違いない。
そこまで考えれば、フェペス家が真に用心すべきは、沈黙を保っているガオリ侯が何らかの手段を用いてユマを救出するかどうかということ以外にない。内通している手前、ローファン伯の動向は手に取るようにわかる。だからこそ、彼らが何らかの解決策を見出したように見えないのが訝しい。かつてガオリ侯は中級貴族に過ぎない身分でありながら、王位継承において見事に今の光王を即位させたように、策略に優れている。味方であるローファン伯にすら気づかれずに、魔手をうつくらいのことは平然とやってのけるだろう。
――動くとすれば、ガオリ侯以外にありません!
と、ホルオースは声を大にして叫びたかった。
フェペス家当主もそこまで鈍重な性質ではないらしく、ホルオースの険しい空気に圧倒されたように、
「では、調べて参れ」
と、許可を与えた。何を調べるのか、当主自身は理解していなかった。クゥや家臣の多くがこの試合に勝てば故地を取り戻せるという興奮の中にいるというのに、彼だけは沈鬱な表情を隠さずに、
――この試合に勝てば、ガオリ侯に目をつけられる。
と頭を抱えていた。では負ければどうか。大事な妹であるクゥがローファン伯爵家の奴隷にされる。だが、彼は妾腹の妹であるクゥの身よりも、一家の未来を案じなければならぬ立場にある。
――負ければ我が家の血筋から奴隷を出すことになる。
それにクゥとシェンビィ公爵家の三男との婚約も自動的に解消されるというのが、彼の懸念といえばそうだった。クゥは当主である兄に直言をはばからないところがあり、この言葉を聞けば猛然と抗議しただろう。フェペス家当主が弱気な発言ばかりを繰り返すので、いつも愚痴を聞かされるホルオースは、さすがに当主の口を塞ぎたくなった。
(兄妹で、何故にこうも違うのか……)
と、頭を抱えたくなった。クゥは女だから当主になれないということはない。三大貴族のうちのひとつであるトグス家の当主はクゥの従姉妹のクララヤーナとさほど年の違わぬ少女だ。
思い返せば、この度の一件はクゥが発端であり、彼女が無用の災いをフェペス家にもたらしたともいえる。先代はクゥが幼い頃に死んだので一家の跡取りとしての器量を試す機会を持たなかったが、彼が生きていたとしても、このような危うさを一家の当主として不適任とみただろう。今の当主も、美点がないわけではない。家臣に優しく、花や詩を愛でる穏やかな心の持ち主である。一家が衰運に向かっているということが、彼を無能に見せているのかも知れず、その責任は当主にあるというより、当主を補佐する家臣にあると思えば、ホルオースは独断で危険なかけ引きを行っている自分をあざ笑うしかない。
調べて来い――と当主に命じられたホルオースは、その足で馬車に乗り、シェンビィ公爵邸に向かった。
自ら手綱を取って風のように飛んだ。
リの街の高台にある貴族街にたどり着いたとき、ホルオースは一乗の馬車とすれ違った。
(ちっ、嫌な奴に見られたな……)
貴族の馬車には、御者台の横に家紋の刻まれた旗がかけられている。ホルオースが見たのは騎士にして王宮名誉闘士であるシャナアークスの属するオルベル家の家紋だった。
すれ違い間際、ホルオースは小さく会釈した。相手の御者もそれを返すと、互いに何事もなかったかのように馬車を走らせた。
オルベル家の邸宅はリの街にあるのだから、ホルオースはこれに疑問を持たなかった。まさか、誇り高い王宮名誉闘士がユマに肩入れするなどとは露ほどにも思わなかったのだ。だが昨夜、シャナアークスがフェペス家を訪れたことを思い出し、
(まさかとは思うが、万が一ということもある)
と、馬車を止めた。ホルオースは車外に出ると、シャナアークスの馬車に走りより、車内に声をかけた。
「シャナアークス様、お話があります」
「止めよ」
車中から力強い女の声が響くと、馬車が止まった。
「何だ?」
シャナアークスは幌をめくって顔を見せた。車外に下りないのは身分の違いもあるからだ。
「その後、いかようでしょうか?」
「いかよう……とは?」
「ユマのことです」
ホルオースは歯に絹を着せない。彼は心のどこかで焦りを覚えている。その向こうに不敵な笑みを浮かべるガオリ侯の巨大な影がある。
「試合については、代人が立てられるかもしれない。だが、ユマがいなければつまらぬ。話はそれだけか?」
これ以上の会話は面倒だといわんばかりにシャナアークスは横を向いた。
ホルオースはシャナアークスがシェンビィ公に使者を立てたがはかばかしい答えを得られなかったことを知っている。
そういえば――とホルオースはシャナアークスが王宮名誉闘士を辞したことを思い出した。ユマとキダがクゥより上位の闘士であるシャナアークスを破ったということは信じられないが、事実のようだ。闘士として引退同然となった彼女がシェンビィ公とガオリ侯の党争に首を突っ込むことは考えにくい。自尊心の強い彼女のことだから自分を負かしたユマを憎んでいるに違いない。この時点で、ホルオースの計算からシャナアークスという女は消えた。
「いえ……つまらぬ事でお止めしました」
ホルオースを置き去るようにして、シャナアークスの馬車が動き出した。
すぐさま車上の人となったホルオースは気づかなかったが、シャナアークスの乗る馬車の中に、ユマが横たわっていた。
三章「舌禍啾々」了
四章「怒発」へ続く