第三章「舌禍啾々」(14)
「……エイミー」
ユマは口を開いてそう言ったが、出たのはがらがらに枯れた呻き声だけだった。
エイミーは口元でひとさし指を立てた。
――しっ、そのままで……
と言っているらしい。ユマは目で頷いた。
(何故、エイミーが?)
とは当然の疑問だが、彼の普通とは違う空気に気づいていたユマは、きなくさい何かを感じながらも深くは考えなかった。
エイミーはシェンビィ公と敵対するガオリ侯爵家の家人だ。その彼が眼前にいるということは、ユマにとって悪い予感はしない。もしかすると、ローファン伯がガオリ侯を動かしたのかもしれない。だとすれば、彼の印象を改める必要がある。エイミーのことをただの小間使いくらいに考えていたが、ガオリ侯直属の術士か何かかもしれない――と直感した。
ユマは、ふとエイミーの足元を見た。先ほどまで自分を拷問していた男が倒れている。
(死んだのか?)
失意を覚えた。もっとも、それは憐憫の情などではなく、復讐すべき相手がこの世からいなくなったという喪失感といった方が正しい。ユマは自分の胸の奥底で、未だかつて抱いたことのない険しい炎が沸々と燃えているのを感じた。
「大丈夫、眠ってるだけ。殺しちゃあ、駄目だって……」
ユマの心中を察したかのように、エイミーはぽつりと呟いた。
(前々から思ってたけど、この子は人の心が読めるのか?)
声を発せずに、視線だけでエイミーに問いかけた。銀髪の少年は、牢番の男から奪った鍵で枷を外すのに手間取っていたが、ユマが心の中で問いかけると、首を上げ、小さく頷いた。口の端が可愛げに上がった。気のせいか、どこか喜色があった。
「ねぇ、これユマがやったの?」
エイミーが天井を指差しつつ、妙なことを口にした。
上を見やると、天井に墨で何かを描いたような跡があった。
それは鉄格子の向こうから一直線に伸びていて、ユマの少し手前で止まっている。牢番が「禁呪の霊石」と言っていた、色の違う石の手前で途切れていた。
(何だ、これは?)
と、その先を追っていくと、鉄格子の向こうにある銀燭が目に入った。よく見ると煤でもかぶったように黒ずんでいて、墨のような跡はそこからユマの視界の外まで伸びている。
「ユマがやったんだよね?」
エイミーには確信に近いものがあるらしい。
(いや、俺は……)
と、思った時、拷問に喘ぎながら見た、幻覚にも似た光景が頭に浮かんだ。
――もう少し、もう少し。
あの時、火の粉のような何かが鉄格子の外に集まっていた。この墨のような跡は、それではないのか。
(まさか、俺がやったのか?)
覚えがない――と、ユマの意識はそれを否定する。だが、感覚は体に刻まれていた。何かを手繰り寄せる感覚。「もう少し、もう少し」と、自分は何かをやろうとしていたのだ。
「シャナアークスに教えてもらった?」
先回りにしても行き過ぎたことを、エイミーは口にした。ユマの想像は、彼の言葉に一瞬揺らいだ後、全く同じところに落ち着いた。
「火尖かぁ。かっこいいなー」
エイミーは、どうやら本当にユマのことを羨んでいるようだった。
自由になったユマは、しかし一人で歩けなかった。ユマは自分の足を見なかった。空気が揺らぐだけで絶叫しそうな痛みが襲ってきた。小さな少年の肩を借りて、ユマはようやく牢獄を出た。
(家人がいないな……)
ほとんどの人間が出張っているようだ。ユマがそれを感じたのは最初だけで、屋敷を警備する多数の衛兵が目に入った時、脱出が不可能に思えて絶望した。
「エイミー。何で俺を助けてくれるのかはわからないが、これは無理だ。俺のことはいいから、お前だけでも逃げろ」
庭先の草陰で蹲ったユマは、もう歩こうとはしなかった。だが、エイミーはユマの言葉を理解できないらしく、首をかしげていた。
(秘密の出口でも、あるのかな?)
エイミーが脱出に関して全く心配する様子がないので、ユマは、あるいは衛兵の中にガオリ侯と通じている者がいるのでは――と、想像した。
「話せる?」
「大丈夫だ。声はがらがらだけどな……」
ユマは無理やり笑ってみせた。敵中に単独で忍び込むとは、エイミーはこうみえても中々肝が据わっているらしい。彼が正式にシェンビィ公爵邸に招待されたわけではないことは、あえて人目を避けていることからも、十分にわかる。
「違うよ。ユマの中の人と話せる? 牢の中は、無理だったから」
エイミーがかぶりを振るので、今度はユマが首を傾げた。
「誰のことだ?」
「伝説の魔導師……」
とエイミーが言ったとき、ユマの中で怒涛のように流れ行く情景が浮かび上がった。その中の刹那、泉のほとりで白い髪を洗う老婆の姿を思い出したとき、
「うん、そう。お婆……ちゃん?」
エイミーが嬉しそうに声を上げた。
ユマは、時折、自分の中で響く女性の声を思い出した。エイミーはそれが何者であるのか知っているのだろうか。
「ううん。知らない。知らない人……」
といった時、草間の騒がしさに気づいた衛兵が「誰だ!」と、声を上げた。
(ばれた!)
ユマの表情が一気に張り詰めた。彼はエイミーの頭をわしづかみにすると、草間に押し込めた。
「ありがとう。だが、ここまでだ。もし、お前に貸した金貨をまだ賭けていないんだったら(……っつか俺がここにいる以上、賭けはお流れになってるだろうが)、キダという男に返してくれ」
ユマは死を覚悟したが、衛兵の反応は彼の想像の斜め上を飛んでいた。
「あっ」
衛兵は草間からふらりと立ち上がったユマの姿を見て取るなり、小走りで駆け寄り、ユマの足元で跪いた。
「御館様とは知らず、無礼な真似をいたしました。お許しくださいませ」
当然ながら、ユマは唖然となった。御館様――といえば、この屋敷の主であるから、それはシェンビィ公のことに他ならない。自分のどこがシェンビィ公に見えるのだろうか。
何かが、ユマの裾を引っ張った。ユマが振り返ると、頭に草切れをのせたエイミーがむっつりと裾をつかんでいる。むっつり――というのは、ユマが辛うじてそう感じ取っただけで、よく見ると表情が怒っているわけではない。
「あっ、クララヤーナ様……」
エイミーを見てそう言った衛兵は大声で給仕の者を呼んだ。女の使用人が二人ほど小走りで現れては、エイミーの手をつかむと、
「さ、お嬢様。お屋敷に戻りましょう」
と、エイミーを連れてゆこうとした。
「お、おい!」
ユマは思わず声を上げたが、衛兵はそれに気づかなかったらしく、今度は先ほどより大きい声で馬車を用意するように言った。
(馬車? どこへ? 何が起こってるんだ?)
ふと、ユマは目の前の池に映った自分の姿を見た。
だぶだぶの官衣に神々しいほどの一位冠が映った。それを纏う男の涼やかな鼻立ちと威厳のある目元は紛れもなくシェンビィ公だった。
ユマはもう一度、エイミーの姿を見た。だが、そこにいるのはクララヤーナではなく、確かにエイミーだ。それに自分の纏うぼろぼろの黒マントは、確かに自身がユマであることを示している。それが、水面に映るとシェンビィ公に変わる。
ユマは、目を凝らして水面を見た。これが何らかの魔術ならば、精霊の輝く様が見えるはずだが、どこを捜してもそんな気配すらない。
いつの間にか、シェンビィ公の側近と思しき老家人がいる。
「はて、御館様は先ほど、闘技場へ行かれたと思っておりましたが……」
「……闘技場?」
「はい、今日は王覧試合がありますので。お忘れですか?」
ユマは、声を上げそうになった。
(しまった。二日も経ってたのか!)
空を見上げた。もう日が傾きかけている。
ユマは給仕に連れられてゆくエイミーを見た。エイミーには、ユマの考えていることはわかる。
「もうっ。あと五分もあれば屋敷を抜け出せましたのに! いいですわ。わたくしのことなど放っておいて、お父様だけで楽しんでいらして!」
エイミーは意味ありげに目配せをした。
(五分以内に脱出しろということか……)
わたくしのことなど放っておいて――というのは、自分の身にかまうなということだろう。それにしても――と、ユマは苦笑したくなった。エイミーの演技のことだ。お嬢様のような言葉使いがクララヤーナよりも似合っていると思うのは気のせいだろうか。気性の荒いクララヤーナならば、このような時、養父に罵声を浴びせかけることもしかねない。
「やれやれ、やはり抜け出そうとしておったわ」
ユマは話を合わせた。
「それで、わざわざ戻ってこられたのですか。いやはや、お嬢様には引き続き邸内を見張っていただきます」
老臣が妙なことを言うので、ユマの眉が小さくあがった。邸内の見張りなど、衛兵がするものなのに、老臣はクララヤーナにそれを行わせるという。ユマは、シェンビィ家が代々高名な術士を輩出した家系であることを思い出した。クララヤーナが身分に合わぬ仕事をするのは、それに関係あるのだろう。ユマは想像だにしないが、もしこの場に本物のクララヤーナがいたとすれば、彼の変装は看破され、たちまちに捕えられていただろう。
ユマが歩き出すと、老臣が近くの数人を護衛につけようとした。ユマは振り払うようにしてそれを拒んだ。
「よい。次にクララヤーナがぐずった時は、仕方がないから外出を許可すると伝えよ」
「いささか甘過ぎるのではありませんか。地下のあれが逃げ出したらどうなさいます?」
「あれは既に虫の息よ。それとも、わたしに指図するのか?」
ユマは老臣を睨んだ。なるべく触れたくない話題であるし、何しろ満身創痍だ。五分以内にできるだけ屋敷から離れなければならないというのに、ここでつまらぬ問答をしている時間はない。
「……め、滅相もないことです」
老臣は怖気づいたように口を閉ざした。彼は近くの者に目配せだけすると、機嫌の悪い主をさっさと馬車に乗せてしまった。
(この糞広い屋敷を五分で脱出とか、無茶があるだろう……)
ユマは、心の中で秒数を数えた。馬車に乗っている最中に術が解けてはかなわない。
屋敷を出て、大きな角に差し掛かったとき、既に三分を越えていた。
ユマはそこで馬車を止めさせると、
「迎えの馬車を待たせてある。お前たちは屋敷へ戻れ」
と、上から投げつけるように言った。
御者が首を傾げた。貴族が一人で出歩くなど万に一つもありえない。下級貴族のクゥですらが、常に近侍を侍らせているというのに、シェンビィ公が一人で行動するというのは異常といってもよい。
「わたしの言うことが聞けぬか!」
主人の機嫌が相当に悪いので、御者は逃げるように馬車を反転させた。
ユマはそこまで見届けると、角を曲がったところで屋敷の塀に寄りかかった。後一分もない内に、できるだけ遠くに行かねばならぬのに、足が思うように動かない。
(いっそ街まで行けばよかった)
人ごみの中で降りて、そのまま術が解けたとすれば、うまく逃れられたかもしれないが、五分という時間制限がそれを不可能にした。ローファン伯爵邸に直行すればどうにかなるかと思ったが、その最中に車外の者に怪しまれれば全てが終わる危険があった。
ユマが今いる場所は貴族街ともいうべき場所で、日が明るいというのにどこか気取ったように閑散としている。
一歩を踏みしめる度に悲鳴を上げたくなるような激痛に襲われた。
(気を失うなよ、間抜け! もう少し、歩けよ……)
意識が朦朧としていて、ユマは自分の前で慌しく止まった馬車の存在に気づかなかった。
「ご機嫌麗しゅう、シェンビィ公。不躾で申し訳ないが、卿に問いたいことがあります」
ユマは上半身を折ったまま、息をきらしていた。もはや顔を上げるのすら苦痛を伴う。だが、自分の足元に伸びた影と、眼前から放たれる声に、どこか覚えがあった。
「シャナ……アークス?」
顔を上げたユマの目が捉えたのは、高慢な女闘士の姿ではなく、目が痛むほどに眩しい太陽だった。
(奇妙だな。あの糞女の声がしたと思ったんだが……)
目が眩むと同時に、ユマは意識を失った。