第三章「舌禍啾々」(13)
夜が明けた。
王都のほとんどに人々にとっては、昨日までと変わらぬ、何の変哲もない朝だったが、ただ一人、ユマだけは違った。
(これで死なないんだから大したものだ)
ユマは思ったより頑丈な自分の体を呪いたくなった。シェンビィ公の家臣も手馴れているらしく、あまりの苦痛にユマが絶命を覚悟すると、拷問の手を休めた。それはユマにとって安堵ではなく、かえってこの苦しみが更に続くという無言の恐怖に他ならない。
舌が、痺れる。
ユマは自分が何らかの呪術に陥ったということに、おぼろげながらも気づいている。それを行ったのがリンであるということも。
(俺は罠にかかったのか。はは、あの地雷女め…)
リンのことを思い出すと、ユマは自分が情けなくなった。同時に、彼女が何を思って自分に呪いをかけたのか、理解できなかった。あの夜まで、リンは紛れもない乙女だった。ユマは戯言でリンを誘い、穢した。これが報いだというのならば、抗うつもりはない。だが、この呪いに詐術の臭いを感じるのは確かである。爪先に焼けた針を捻じ込まれ、脛の骨を削られ、心はとうに暴力に屈しているというのに、体だけがそれを拒絶するというこの苦しみを、何に例えればよいのだろう。そのむこうでローファン伯や、ヌルや、ホルオースが、下卑た笑みを浮かべていることを思うと、焼けた石を孕んだ様に胸の底が沸々と燃えてくる。
これで人を恨まないほうがおかしい。
ユマは、眼前で自分の五体を破壊し続ける男を憎悪した。当然だろう。母に産み落とされ、父に慈しまれ、大病を患わずにここまで生きてきた自分の体を、名も知らぬ男が笑みすら浮かべて、引きちぎるように破壊してゆく。このまま大過なく己が生を全うするはずだった健康な体が、一夜にして奪われたのだ。拷問する側にとっては、相手を殺さないこと以外に留意する点は全くなく、この後のユマが一生足を引きずって生きようが、寒気が降りるたびに古傷の疼きに泣こうが、関係がないと言わんばかりだった。
男が必死になってユマを責める理由は、シェンビィ公の一言にある。ユマの口を割らせない限り、彼は必ず咎を受けるだろう。だが、ユマはこの状況で男に同情するほどお人よしではない。
ふと、キダのことを思い出した。フェペス家の奴隷にされるという不運に見舞われた彼だが、今の自分ほど不幸ではあるまい。ユマが試合に出れなければ、キダは奴隷から解放されることはない。アカアはユマの志を継いで、キダを助けようとしないだろうし、ローファン伯がさせないだろう。ユマがシェンビィ公に捕らえられたと知ったら、キダは悪友を助けるために何かをするだろうか。
ユマは意識を失った。その度に水をかけられ、拷問が再開された。
激痛に耐えかねたユマは、もはや自分を救ってくれるならば誰でもよくなった。眼前の男に命乞いをし、シェンビィ公に無様にも許しを請うた。最後には自分の中で時々聞こえる声にすら頼った。
牢番の男は、ユマがまるでこの場に第三者がいるかのように訴えるのを見て、何かの術を使っているのではないかと疑った。
「術を使って逃れようとしても無駄だ。牢は禁呪の霊石で清められている。貴様ごとき下級術士の術など唱える間もなく掻き消えるわ!」
ユマは鼻で笑いたくなった。では、今、自分の舌に宿っている呪いは何故、生きているのか。本当にこの空間で術が使えないのなら、何故、自らの意思に反して血反吐を吐き続けなければならないのか。
(禁呪が聞いて呆れる……)
そのうち、焼けるほどに熱かった顔から血の気がうせるのを自分でも感じた。あれほど煩く鼓膜を叩いていた心臓の鼓動も聞こえなくなった。そういった静けさが当然のように身体全体に広まったとき、ユマは自分が起きているのか、夢を見ているのかわからなくなった。
火。
蝋燭だろうかと思ったが、やはり違う。
ユマは鉄格子の向こうの壁に、火を見た。小さい。光の粒と言った方がよさそうだが、ユマはそれが確かに火であることを感じ取った。
あまりに小さすぎるためか、牢番の男には見えないらしい。
目を凝らすと、それは空気中で揺れ、鉄格子の前まで来て、消える。
(どこかで見たような……)
ふと、火の粉が音もなく空気中で爆ぜた。よく見ると銀燭に触れたようだ。
瞬間、ユマの頭の中に、轟々と燃える炎をまとった槍が思い浮かんだ。
次の瞬間、牢内が少し暗くなった。蝋燭が一つ消えたのだ。
(もう少し、もう少しだ)
何がもう少しなのだろう。ユマは自分でもよくわからない。寝起きに頭が回らない時に、適当な言葉を口走ってしまう時に似ている。
(もう少しで俺は死ぬのか?)
死ぬ。
そう思った時、ふっ――と全身から力が抜けた。
しばらく経った頃、再びシェンビィ公が顔を見せた。とはいえ、もはや助命の可能性すらないことを理解しているユマは、ありったけの憎悪でもって眼前の貴人と対した。
「見かけによらず、随分と口が堅いな」
驚いたような口ぶりだが、声色は冷めていて怖気すら感じられる。
ユマは声をひねり出そうとしたが、苦痛に絶叫し続けたせいか、喉が潰れかけている。
「ユマとかいったな。よく考えてみよ。ローファン伯は詐術でもってフェペス家を没落させ、さらには一家随一の術士であるクゥを奪うことで、それを完成させようとしている。一体、彼の何処に正義があるのか。流れ者のお前がそこまで忠義を尽くすほどの価値が一体、どこにあるというのだ。お前が全てを明るみに出し、ローファン伯の悪行を正すことがあれば、一体誰がお前のことを憎いと思うだろうか」
シェンビィ公の言葉を、ユマは鼻で笑いたくなった。
(何てことはない。ただの飴と鞭だ。しかも飴には毒が入っている)
甘言きわまりないが、シェンビィ公の誘いに「諾」と言ってしまえば、その時点でユマという人間を生かす理由がなくなる。過激な拷問の果てに正気を失いつつある者ならば、このような幼稚な罠にもかかるだろうが、ユマは呪いによってその自由を奪われている。
それに、シェンビィ公が正義などという言葉を口にしたのが、ユマには滑稽で仕方なかった。心中から笑いがこみ上げて来た時、ユマ自身も自分の正気を疑いたくなったが、どうせ死ぬのだから、ありったけの罵詈をぶつけてやろうとも思った。
「何がおかしい?」
「そりゃあ……おかしいさ。あんたは……自分だけが……悪行とは無縁そうな……顔を……して話しているが……あんただって……フェペス家から……クララ……ヤーナを……奪っただろう?」
シェンビィ公はユマの言うことが的外れだといわんばかりに眉をひそめた。政略結婚や養子縁組などは貴族の世界ではむしろ日常茶飯事で、それに倫理を持ち込む輩などいない。
だが、ユマの指摘はシェンビィ公の想像を超えていた。
「……あの顎伯爵……だけ……じゃない……あんたも……欲しかった……のさ……だから……素質のあるクララを……手元に……置いた……持っているかも……知れないから……」
途切れ途切れ話すために非常に聞き取りにくいはずのユマの声は、どういうわけかシェンビィ公の耳には異常に鮮明に聞こえた。声が魔力を帯びているのかと疑いたいくらいに。
「何のことを言っている?」
「とぼ……けるなよ……その……証拠に……お前はクゥまでも……欲し……がった……ローファン伯……が……自分と同……じような……ことを考えた……と……思ったんだ……だから……試合に……こだわる……もしかすると……クゥが……持っている……かも……知れないから……」
「(この男、正気を失っているのか)先ほどから何の話をしている?」
シェンビィ公が問うと、ユマの目に鈍い光が灯ったようだった。
「魔力の……結晶……人の中にすむ……輝き……フェペスの……宝石……お前は……ただの盗人だ……誰の目にも……見えないだけ……ローファン伯と……変わらない」
まるで会話になっていないように思ったシェンビィ公だったが、ユマの盗人発言は聞き捨てならなかったらしく、手元にあった鞭でユマを打ちつけた。
意識が飛びそうな中、ユマはシェンビィ、フェペス、ローファン(ヤム)、ガオリの四家で繰り広げられる政争が、実は相当に幼稚なものであるのではないかと思った。
(若い娘相手に、大のおとなが見苦しい真似をする…)
去り行くシェンビィ公にそれを声にして出してやろうと思ったが、自分ですらがクゥを利用してキダを救おうとしていることをにわかに思い出したせいで、外界に放たれたのは自嘲の笑いだけだった。
それから何度、意識を失ったのだろうか。
気づけば、目の前に銀髪の少年の姿があった。