第三章「舌禍啾々」(12)
さて、ローファン伯である。
伯爵邸の一室で、彼はヌルの報告に耳を傾けていた。
「ユマがクララヤーナと接触したのは間違いありません。やはり彼は、シェンビィ公の手下に違いないでしょう」
と、ヌルは結んだ。ユマは彼を発見できなかったが、実は遠くで観察されていたのだ。
「闘技場でクゥを非難したというのは、どういうことだ?」
ローファン伯が大きな目でヌルを見据えて言った。彼とて臣下に甘い庸主ではない。虚偽の報告を行った者には、たとえ腹心であったとしても断固として処分する気構えくらいはある。
「クゥとユマの対立を劇的に見せるため――というのが、理由でしょう」
「衆目に顔を見せなかったのは訝しいが?」
「あれは、ただの小心者です。いざとなって、顔を晒すのが恐ろしくなったのでしょう」
「ふむ、まあよい。穴姫は確かに見落としていた。まさかあんな小娘まで利用してくるとは、シェンビィ公も侮れぬわ……」
「危うく先手を打たれるところでした」
ヌルは、一瞬だけ勝ち誇ったような笑みを浮かべたが、すぐにいつもの険しい顔つきに戻った。
「とにかく、間に合ってよかった。これで侯に良い報告が出来る」
言葉ほどには満足そうな表情をしていないローファン伯に、ヌルは探るような口ぶりで言う。
「監視を怠らなかったとはいえ、ユマは屋敷で起居していました。こちらの情報が漏らされるということはありませんでしょうか?」
ヌルの言葉を鼻で笑うように、ローファン伯は鈍い笑みを浮かべた。いつもの豪快さからは程遠い、陰湿な笑みだ。
「案ずるな。あの男、見かけによらず好色らしい。昨晩はリンを抱いたそうだ」
「リンを?」
ヌルの目元に不愉快な光が灯った。それに気づいたのかどうか、ローファン伯は話を続ける。
「ヌルよ。女色は慎めよ。女は男に幸福をもたらすが、同時に災厄をも運んでくる。身の程を越えた美女に手を出せば、必ず憂き目に遭う。今頃は先生も己が軽挙を嘆いておられる頃だろう」
ローファン伯の言っていることが理解できないヌルは、わずかに首を傾げた。その時、扉を叩く音が鳴った。ヌルがローファン伯を見ると、彼は目で頷いた。
「入れ」
ヌルの声の後で、リンが茶器を持って入ってきた。
「ちょうど良い。リン、近う寄れ」
ローファン伯が机の上で組んでいた手を解き、わずかに手招きすると、
「はい……」
と、リンは小さな声で答え、ローファン伯に傍立った。
「これよ!」
ローファン伯はいきなりリンの腕をつかむと、彼女を無造作に引っ張り、自分の胸元に引き寄せた。そのまま右手でリンの口をこじ開けると、中から赤い舌が顔をのぞかせた。
リンの口を覗き込んだヌルは、声を失った。舌腹にくっきりと火傷の痕がある。それは鳥が射殺される姿に似ていて、確かに呪術に使う刻印を形作っている。
「主よ、これは……」
ヌルは術士ではないが、これは問わずともわかる。呪いの刻印だ。人の皮膚に刻み込むほどの呪術であるから、よほど強力なものに違いない。
だがローファン伯の勝ち誇った笑みは、夜明けにもたらされた報とともに凍りつくことになる。
キダはいつもと同じように闘技場に向かった。昨日、ユマと二人でシャナアークスとの決闘に勝ったが、彼女から学ぶべきことは、まだいくらでもある。
昨夜の盛況の名残が観客席の空気に染み付いているような気がした。だが、キダの感じた騒がしさは、感慨とは程遠い現実を運んできた。
この日、シャナークスは現れた。ただし、彼女が現れたのは日が中天に達する頃だった。
驚くべきことに、彼女はキダの前に跪き、己が非礼を詫びたのだ。
「私は、王宮名誉闘士という己が肩書きに浮かれ、人を見る目を失っていた。礼を尽くし、武技に尽くすのが騎士としての私の役目であるのに、それを忘れていた。クゥを憎み、貴方たちを侮ることで、私は己の虚しさを埋めていた。闘士として剣を握る資格はない。今朝、王宮に闘士賞冠を返上してきた。今の私は闘士ではない。貴方に闘技を教える資格はない。無責任と言われるかもしれないが、私はそれを貴方たちに伝えに来た」
あの高慢を絵に描いたようなシャナアークスが、驚くべき慇懃さで言うので、キダは言葉に詰まった。だが、己が自惚れによってクゥを襲い、自らを辱めた経験からか、キダはシャナアークスの手をとって言った。急にしおらしくなったシャナアークスに、心動かされたのは確かだろう。
「今の俺がこうしているのは、ひとえに貴女の教えがあったからだ。幸運にも貴女に一度勝っただけで、俺は自分が貴女より優れているとは思わない。クゥには必ず勝つ。それは貴女に教わった全てをクゥにぶつけるということだ。どうか不出来な教え子を捨てないでもらいたい」
目を上げたシャナアークスは、眩しそうにキダを見たが、かえってキダの方がシャナアークスの視線を避けるようにして目を逸らした。
「ユマが来るまで、剣の稽古でも頼む」
キダは歯切れ悪そうに言った。
最後の訓練であるというのに、ユマは姿を見せなかった。訝ったシャナアークスが、
「ローファン伯から何の通知もないのはおかしい。人をやって調べてくる」
といって、下僕をローファン伯爵邸に走らせた。下僕が持って帰ってきた答えは、
「ユマ殿は体調がよろしくなく、今日は欠席されるとのことです……」
という歯切れの悪いものであった。
(おいおい、試合は明日だぞ。大丈夫かよ?)
キダは、特に疑うわけでもなく下僕の言うことを信じたが、シャナアークスは引っかかるものがあったらしく、更に人をやって情報を集めた。途中で日が傾いてきたので、キダはフェペス家に戻ったが、夜になって突然、シャナアークスの来訪を受けた。
シャナアークスは人払いをすると、一室にクゥとキダ、それにホルオースの三人を集めて、
「凶報だ。昨夜、都内でシェンビィ公爵家の家臣が何者かに殺された。その犯人がユマということらしい。彼はシェンビィ公爵家に捕えられている」
と、キダを驚愕させた。
「嘘だ!」
声を上げたキダの方をみたシャナアークスは、静かに頷き、
「私もそう思う。だが、このままでは明日の試合が中止となってしまうばかりか、ユマが処刑される。そこで、当主殿に口ぞえをお願いしたい。シェンビィ公は犯人と思しき者を官憲に引き渡さずに、自邸に監禁している。これは私刑であり、闘士に試合当日までの生命の安全を保障している光王を愚弄する行為だ。ユマを公の場所に据えて、裁判を行うことをシェンビィ公に勧めて欲しい。すでにローファン伯はシェンビィ公に使者をやったらしい」
クゥもまた、ユマが殺人容疑で捕えられたということに驚いていた。すぐさまフェペス家の当主である兄に知らせようと、腰を上げようとしたところ、ホルオースに遮られた。
「シャナアークス殿のおっしゃることはもっともですが、シェンビィ公がユマを私刑に処すというのはいささか悪意に取りすぎではないでしょうか。恐らく、明日には官憲に引渡し、裁判を行うでしょう。ユマ殿は既にローファン伯の客人であり、無闇に処罰すれば、波風が立ちます。シェンビィ公がそこまで軽薄なことをなさるとは思えません」
ホルオースの言い分にも理はある。フェペス家は騎士爵であり、シェンビィ公爵に物言いできる身分ではない。彼らはシェンビィ公の勢力下で自家を存続している限り、無闇なことを言うべきではない。
(このままだと、ローファン伯にまで罪が及ぶかもしれない……)
シャナアークスはこの予想を口にしなかった。ローファン伯爵家と対立しているフェペス家にしてみれば、これは対岸の火事であり、ローファン伯が滅べばそれに勝る吉事はない。
(直接、シェンビィ公を説くか……)
シャナアークスはこの家の冷たさに嫌気がさしてきた。もっと言えば、クゥに対して失望した。もともと、シャナアークスがローファン伯のためにユマを助ける義理はない。ただ、このまま試合が取り消しになれば、キダは奴隷の身分から脱することが出来ない。シャナアークスは今日になってキダを見直した。彼を、一生他人に顎で使われるだけの男にしておくのはもったいないとも思った。
シャナアークスは、クゥが沈黙する理由を、別な意味で捉えた。ユマの捕縛は、実はクゥの望むところであるように思える。シェンビィ公とフェペス家が共謀して、ローファン伯爵家の客人であるユマに罪を着せ、その罪をローファン伯にまで及ぼそうとしているのではないか。ローファン伯は、シェンビィ公爵家と対立するガオリ侯爵家の輔翼であり、それが滅べばシェンビィ公爵家は王国で最高の勢力を築くことになる。だが、この手段は強引かつ幼稚であり、あの思慮深いシェンビィ公がこのような稚策を行うとは思えない。むしろこれは――穿って考えればだが――フェペス家が仇敵であるローファン伯爵家を覆滅するために、シェンビィ公を利用したのではないか。だとすると、シェンビィ公の家臣を殺した真犯人の意図が全くわからなくなる。
クゥはシャナアークスの強い眼光を避けようともせず、じっと座っている。じりじりと火が蝋燭の芯を燃やすような、静けさの中で、キダが声を上げた。
「明日の試合ですが、中止はしません。ユマが帰らなかったときは、俺だけで戦います」
シャナアークスは嫌な顔をした。確かにキダにとって、自由を手にする機会はこの試合をおいて他にない。だが、今はどう考えてもユマの問題を片つけることが先だろう。そもそも試合自体、ユマがキダを奴隷の身分から救うために組んだものであるのに、今のキダはユマの身を案じているようには見えない。
(見込み違いだったか……)
先の、闘技場でのキダの態度があまりにも見事だったので、シャナアークスの失望は大きかったが、キダの目が異常な光をともしているのに気づき、心中で声を上げた。
(もしかすると、明日の試合に勝ってユマの釈放を訴えるつもりか?)
自分の自由を犠牲にして、ユマを救おうとしているのなら、キダは侠士といえる。ただ、本人はそれをおくびにも出さない。我が居住まいを見て察せよ――といわんばかりに強気な気風を漂わせている。
シャナアークスはキダの気持ちを汲んだ。彼女は、クゥとの勝負は別として、キダとユマの両方を助けたくなった。
だが、彼女はキダの瞳の奥底まで見抜くことは出来なかった。
――貴族とやらも、案外人が良い。
もし、キダと付き合いの長いユマがこの場にいれば、シャナアークスに対してこう言っただろう。あるいは、これはキダが心中で放った声かもしれない。