第三章「舌禍啾々」(10)
ヌルとはぐれてしまったユマは、王都の夜道を歩くのが初めてであるものの、これまで闘技場とローファン伯爵邸の間を何度も往復しており、特に道に迷うこともなく帰途に着いた。
やがて、見覚えのある景色が広がった。
閑散とした住居は、わずかに人の営みを感じさせるが、昼には市の立っている場所だ。
(エイミーは箒を買えたかな?)
と、ユマは銀髪の美少年のことを思い出した。この場で彼と出会ったからだ。
よくよく考えてみると、エイミーがガオリ侯爵家の者であるという証拠はない。それにも関わらず、ユマは彼に大金を貸し与えた。ユマはあの時、無条件でエイミーを信じたが、後から思い返してみると、自分の軽薄さは異常であることに気づいた。まるでエイミーに魅せられたようで、今になって自分の正気を疑った。
ユマの目が、小走りする男を捉えた。
特に何も考えずにその者を目で追ってみたところ、ユマは思わず声を上げそうになった。
ホルオースだ。ユマのように黒マントを羽織っていて、フードをかぶっているが、口元の髭がユマのよく知るものだった。
急いでいるようにも見えず、とはいえ何やら口元から張り詰めた空気が漂ってくる。
ユマがホルオースを追おうと一歩を踏み出したとき、
――やめよ、豎子。
と、心中で声が響いた。
ユマはその声を無視した。クゥの傍にいるべきであるホルオースが、今ここで何をしているのか。ユマが不吉を感じたのは、彼が既にクゥを殺したのではないかという予感からだった。
ふと、街道を行く馬車に気が付いた。護衛の者が小走りで寄って来て、
「無礼だぞ。道をあけよ!」
と、高慢な口調で言い放った。ユマはホルオースを目で追いつつ、馬車に道を譲った。馬車が通り過ぎると、ユマは小走りでホルオースの後を追った。
ユマが見失う寸前のところで、ホルオースは人気の少ない路地に入った。ユマは彼に五十歩ほど遅れてそこに入った。
暗い、何やら湿り気さえ漂う裏道だ。
尾行する内に、ユマはホルオースの影を見失った。曲がりくねった道だから、当然と言えばそうだろう。
ホルオースを捜して小道をさまよう内に、ふと夜光をはじく様な銀色が目に飛び込んできた。
「エイミー!」
ユマは、思わず、突然視界に入ってきた人影に声をかけた。エイミーは驚いたように立ち止まり、首を傾げつつ、じっとユマを見ていた。
(そんなに、おぼえにくい顔か……)
と、ユマは苦笑した。エイミーは、よほど他人に興味をもてない性質なのだろう。
「あっ!」
自分を呼び止めた人物が誰であるのか、ようやく理解したらしい。エイミーは走り寄ると、いきなりユマの手をつかみ、
「箒……買えた」
と、はしゃぐように言った。こぼれるような笑顔とはこのことを言うのだろう。無表情なエイミーしか知らないユマは、エイミーが弾ける様に喜んでいるのを見て、驚きとともに、自分のやったことへの多少の満足を覚えた。いきさつはよくわからないが、箒を買い付けることはエイミーにとって死活問題だったらしい。
「それは良かった」
何故、エイミーがこんなところにいるのか、その疑問を口にするのを避けるようにして、
「じゃあね……」
と、エイミーは一言だけ置き捨てると、すぐさまこの場から走り去った。
「あっ!お……おい」
ユマが振り返ると、長い路地であるのに既にエイミーの姿がなかった。エイミーの代わりに、鼻を鈍く突くような臭いだけがその場に残った。
(何だ。これは?)
不愉快な臭い――エイミーのものとは到底思えない殺伐とした空気だ。
(嫌な予感がする……)
ユマの直感はそう言っていた。ホルオースを追おうとしたときも、心中の声はユマを止めた。予感というのは時に、人の行動に干渉するほどの力を持つものだが、今のユマは予感より理性が勝った。
突然現れ、突然消えたエイミーに多少混乱したユマだったが、ホルオースを尾行するという本来の目的を思い出し、再び歩み始めた。
歩き続けるうちに、周囲が突然騒がしくなった。やがて、道の向こう側にいくつかの灯りが見えた。何やら怒号のようなものさえ聞こえてきて、尋常な空気ではない。
ユマは、胸騒ぎがした。これは予感の類ではなく、現実に起こっていることから推測したものだから、遅すぎると言うべきだろう。ユマは、自分の尾行がホルオースにばれたのだと思った。
彼は灯りを避けるようにして、大きな道に出た。人ごみに紛れればそれほど安全な場所はない。だが、日が落ちれば家の外を出歩くものは多くなく、ユマはより広い暗黒の中に飛び出たに過ぎなかった。
灯りが近づいてくる。ユマは走り出した。
何度も振り返りながら走ったため、足元がおぼつかず、何かの拍子に躓いて転倒した。
「痛っ!」
すりむいた肘から、血が滲んでこないか心配だったが、ユマが足元に転がっている何かに目を移したとき、体が凍ったように動かなくなった。
死体である。
一瞬、クゥのそれを想像したユマだったが、死体をよく見てみると、男であり、高価そうな衣服を着ている。更には頭に冠をつけていることから、この死体は貴族であることがわかる。胸元に血が滲んでおり、恐らく刺殺されたのだろう。
ユマは、自分の予想が大きく外れたことを心のどこかで喜んだ。ホルオースはクゥを殺そうとしていたわけではなさそうだ。となると、表ではヤム家と対立するフェペス家が、外から見えないところで関係を持とうとしていることになる。そこがユマにはわかりにくい。
「ホルオースめ……」
彼は一体何をしているのか――と、ユマが混乱した頭を整理しようとし始めたところで、眼前の道からおびただしい炬火があらわれた。ユマはたちまちにその者たちに囲まれた。よくみると、先ほどすれ違った馬車の護衛たちだ。
(これは、もしかすると最悪なんじゃないか?)
ユマは心中でとぼけた台詞を吐いた。