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貴く翔べ  作者: 風雷
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第三章「舌禍啾々」(9)

 ユマにハンカチを返そうとした娘は、クララヤーナに追いついたが、自分が常に立っていた位置に他の娘がいて、冷言をあびせられた。


「まあ、あの男と一緒に行かなかったの?」


 仲間の一人が娘に向かって意地悪く言うと、娘は口元の(あざ)を気にもとめぬはきはきとした口調で、


「クゥ様にさっきのことを伝えるべきですわ。あの殿方のおっしゃったことが妄言であるようには思えません」


 と、クララヤーナに向かって言った。もう一度、肘打ちが飛んでくるかもしれないとも思ったが、娘はそれを恐れずに言った。


(妄言じゃない? はっ!)


 クララヤーナは鼻で笑った。先ほど、闘技場であの男が口にしたことがすでに妄言ではないか。この娘は少し優しくされたからといって、あの男を好きになってしまうほどに浅はかな女だったのか。それに、男に布切れ――ユマが持っていたハンカチが上品な青色で染められていたのがクララヤーナには意外だったが――を返しにいった時点で、この娘は先ほどのクララヤーナの行為を批判したことになり、そんな者が自分を指図するという事実が、不快だった。

 だが、それとは裏腹に、クララヤーナは男が、実は凄まじいことを言っている事実に気づいた。道を変えて帰れということは、いつもとる道では駄目だということだ。何故、駄目なのか。問うまでもない。危険だからだ。彼は、クゥの命が今、何者かに狙われているという情報をつかんだのではないか。従者には言わずに――というのは、クゥの身辺に裏切り者がいることを暗に意味しているのではないか。


(馬鹿らしい……)


 男が先の腹いせにクゥをからかおうとしているのだ――と決断したがる自分がいる一方、彼の突き刺すような視線を思い出すと、とても嘘を言っているようには見えない。


「クゥに会いに行くわ。あなたたちは、先に帰ってなさい」


 クララヤーナがそう言うと、娘たちは声を上げて驚いた。頬に痣を浮かべた娘だけが、手に持ったハンカチをきゅっと握り締めた。



 歓声に送られて闘技場から出てきたクゥは、場内とはうってかわって沈鬱な表情をしていた。

 クゥは完勝した。揺れ動く地面に足をとられ、トーラに接近を許すなど、多少は危ない場面もあったが、それでも決定的な不利に陥らずに勝利したことを確信している。

 だが、それを一人の男がぶち壊しにした。

 黒マントに身を包んだ男は、長々と理屈を垂れて、トーラの首を刎ねる非をとなえたが、クゥにしてみれば何てことはない。


(ただの世間知らずだ)


 男は人の死を否定した。闘士は負ければ首を刎ねられる。だが、それは一方的な死ではなく、一流の闘士ならば誰でも従容として迎えられる類のものだ。勿論、例外もある。試合が大いに盛り上がれば、観客はそれに満足し、敗者の死を望まなくなる。それは、試合を行った者にとって誉れであり、高等な術を操る貴族出身の闘士に多く見られる。

 観客がトーラの死を望んだということは、確かにクゥにとっては至らぬ試合をしたという後ろめたさがあるが、闘士は観客の意向に逆らえない。それは、闘技が見世物である以前に、対峙する二人の闘士が民衆に供される供物であるからだ。闘技場は一種の神殿と言ってよい。観客が試合に不満を持ち、勝者にも死を望むことがあれば、勝者であっても死を免れない。

 クゥはトーラを殺すことに何の疑問も持たなかった。だが、黒マントの男が言ったことは、いわゆる試合に難癖をつけたのであり、全力で戦ったクゥにとっては侮辱以外の何ものでもない。


(自分ひとり、涼しいところにいて、何を言うのよ……)


 男は闘技場に立っていない。闘士ではない。自らの命を剣刃の危うさにさらさずに、ぬけぬけと長者ぶったことを言ったのが、クゥには我慢できない。クゥには彼が、自分の命を惜しむだけの卑怯者に見えた。試合に異存があるなら、自ら闘士と同じ位置に立って言うべきではないのか。いつでも竜機に踏み殺される位置に、いつでも首を刎ねられる位置に、自らを置いて、彼は同じ事を言えるのだろうか。そうでなければ、たとえ人命を惜しむという理屈が通っていたとしても、あの男の言ったことは、偽善でしかない。底の浅い偽善が悪よりも憎まれること甚だしいのは、どこの国でも同じだろう。

 黒マントの言うことはクゥをいらだたせたが、彼女をもっと悩ませる男がいた。

 クゥは、勝負が決したとき、自分より数段腕の劣るトーラが、思ったより善戦したことを褒めた。


「良い試合だった」


 クゥは、敗者に情をかける女ではない。彼女が心の底からそう思ったからこそ、彼を賞賛する言葉が純粋に口から出た。卑賤の出であるにもかかわらず、闘士の礼儀を見せたトーラに好意を覚えたのは確かだ。

 だが、トーラはクゥの賛辞を蹴り飛ばすように口を開いた。


「いちいち、騒がしい女だ……」


 トーラは鼻で笑った。

 それを聞いたクゥは耳を疑った。騒がしい――とは何だろう。闘技場に立つクゥは、沈毅そのものであり、このように言われるのは心外だ。確かにクゥを応援する観客の声援は耳を裂くようにうるさいが、それを騒がしいというのは、いささか大人気なくはないか。


――運良く勝ったくらいで、小娘が得意げに喋るな。


 と、トーラに言われた気がしたクゥは、不快になった。では、運悪く小娘に負けたトーラは何なのだと言いたい。

 クゥが迷っているときに、黒マントが声を上げた。彼の言ったことはそれなりに理屈は通っていても、闘技場という場にそぐわないものばかりだったが、


――戦場の礼につけこんで勝利を得たに過ぎない。


 といわれたとき、クゥは心中で叫んだ。


(それは、屁理屈よ!)


 たとえ、あのまま冠を落とさずに戦っていても、クゥは自分が勝っていたという自信がある。だが、黒マントはそう見なかった。

 このことが、試合が終わってからずっと、クゥの頭にもたげている。



 クゥが馬車に乗り込もうとしていたところに、一人の少女が現れた。


「クララ……やっぱり、来てたのね」


 クララヤーナは小さくはにかんだ。だが、クゥは疲れた微笑で返しただけだった。


「あら、ばれてたのかしら?」

「観客席にどこかで見たような顔があったと思ったけど……あまり屋敷を抜け出すと、実家に帰らされるわよ」

「いいわ。あんな家にいても、何も面白くないわ。クゥの傍にいた頃が、一番良かった。それより、送っていってよ」

「何よ。自分の馬車があるでしょう」

「話したいことがあるの。ねぇ、いいでしょう?」


 クゥは、クララヤーナに甘いわけではない。手のつけられない腕白お嬢様に、家格を気にせずに面と向かって説教を出来るのはクゥくらいのものだ。だからというわけでもないが、穴姫とまであだ名されるクララヤーナも、彼女の言うことだけはよくきく。


「クゥ様、そろそろ行きませんと……」


 御者席に座った男が言った。この場にホルオースはいない。


「いいわ、今回だけよ」


 クゥとともに馬車に乗り込んだクララヤーナは、馬車が出るとすぐに、


「クゥ……あなた、狙われてるらしいわよ。だから、先にわたしの家に行って。何人か人数をつけてあげるから、それから帰りなさい」


 と、クゥの耳元で囁いた。

 クゥが驚いた顔をすると、クララヤーナは口元に指を立てて、沈黙を促した。どこか楽しげであるのは、気のせいだろうか。だが、彼女が黒マントの男から伝言をあずかってきたことを知って、クゥはこれがクララヤーナのいたずらである可能性を消した。もとより、クララヤーナはクゥにだけはそのような悪意を向けたことがないから、クゥも初めから彼女を信じなかったわけではない。自分の命が狙われているというのは、それほどに唐突な話だった。


――今夜は道を変えて帰れ。


 クララヤーナは、ユマの伝言をそのままクゥに伝えた。クゥは鈍感な方ではない。すぐさま察し、御者にシェンビィ公爵邸に向かうように指示した。ただし、フェペス、シェンビィの両家は「リ」の街に邸宅があり、途中まで行く道は同じである。そこで待ち伏せをされていたらクララヤーナがここに来た意味がない。


「その前に、精霊台に寄りなさい」


 精霊台に向かえば、闘技場から大きく北に迂回して帰ることになる。それだと時間がかかりすぎることを御者が言うと、


「あぁん?」


 と、クララヤーナは怒気をこめた声を張り上げ、窓から足を出して御者の頭を蹴った。演技であるというよりも、自分に口答えをした御者に怒ったのは半ば本心だった。彼女は幼い頃、クゥと同じ家で育ったが、その家の家臣を平気で(むご)く扱うのは、裏を返せば、それほどにクララヤーナの幼年期が暗く、辛いものであったことを意味している。


「わたしは精霊台に行きたいのよ。何、文句あるの? 行けって言ったら、行け。この役立たず!」


 馬車が大きくよれた。

 転倒して座席に頭をぶつけたクララヤーナは更に怒った。御者が馬車から転げ落ちそうになったが、クゥはそれをとめることもせずに、気だるげに窓の外に広がる景色を見ていた。


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