第三章「舌禍啾々」(8)
「あなた、馬鹿じゃないの?」
と、背後からユマに声をかけた人物がいた。
ユマは、膝元についた砂を振り払いながら立ち上がると、振り返らずに応えた。気配が一人でないのは、彼女が最初に連れていた娘たちと合流したのだろう。
「クララか……まだいたのか?」
「まだいたのか――じゃねぇよ。あなた、私刑にされてもおかしくなかったのよ。無傷で出られただけでも奇跡だわ。あの場でクゥがもう一言足してれば、確実に死んでたわ。彼女に感謝することね」
ユマは小さく嗤った。
(これで無傷ねぇ……)
ユマの羽織る黒マントは土の上に這いつくばったせいで汚れており、また闘技場を出る際に観客の何人かがどさくさに紛れて殴ってきた――蹴られもしたが――ため、体中に夜気がしみる。
「誰が、感謝なんてするかよ」
ユマは吐き捨てた。声色に怒気は見えず、かえって不気味なほどに静かだったことに、クララヤーナは気圧された。強気な言動が目立つが、彼女はまだ、十三歳の少女なのだ。
「クララ!」
と、突然、ユマが振り向いたとき、クララヤーナは一瞬だけ肩を震わせた。
「な、何よ?」
クララヤーナはこの時、初めてユマの目を見た。まっすぐに自分を見据えているが、覇気がなく、暗く淀んでいる。シェンビィ公も、クララヤーナにとっては義兄にあたる彼の息子たちも、その他の貴族たちも、このような目をすることはない。あえて探せば、奴隷が自分を見上げるときの目に似ているが、ユマのそれには相手に怖気を感じさせるような鋭さがあった。クララヤーナは生まれてからこのかた、このような不気味な眼光にさらされたことはない。ユマの視線は、自分の纏う虚飾を全て剥ぎ取ってしまうかのように乱暴であり、しかしその目はクララヤーナという少女を見ていながら、その像をとらえていない。クララヤーナは自分の裸体を見られているような気分になった。言い換えれば、今のユマが気持ち悪い。気持ち悪いが、目を逸らすことが出来ない。
「クゥに伝えて欲しいことがある」
ユマの目が、実は自分ではなくクゥを見ていたことに気づいたクララヤーナは、小さな安堵を覚えるとともに、何かが虚しくなった。
「負け惜しみを言うつもりなら、自分でしなさい。わたしを使い走ろうなんて、百年早いのよ」
クララヤーナは、自分の声が上ずるのを必死にこらえた。このような下郎に気圧されるなど、公女の誇りが許さない。
「今日は道を変えて帰れ――と、伝えろ。従者には言わずに、必ず本人に伝えろ」
ユマはそれだけ言うと、その場を去ろうとした。
「何よ……何様、あの男……」
有無を言わせぬユマの命令に、クララヤーナは顔を蒼くした。
「クララ様、狂人のいうことなど、信じずとも良いのです……」
連れの一人が、なだめるような口調で言うと、
「そうね……そうよね……」
と、クララヤーナは何度も頷いた。
――ふざけるな、下郎!
彼女がそう叫ぼうとした時、自分の視界の影から、ユマに向かって飛び出した者がいた。先ほど、ユマとクララヤーナの口論の際に、クララヤーナに肘打ちをあびせられた娘だ。
彼女は去ってゆくユマに走りよると、彼から与えられたハンカチを差し出した。
「あの、これ……洗っておきましたから。先ほどは、ありがとうございました」
娘の口元が青く腫れ上がっている。
ユマに走り寄った娘を冷めた目で見ていた者がいる。
自分の意を通さずにユマに走りよった娘を、クララヤーナが許すはずがない。そう思ったもう一人の娘は、クララヤーナの思考を先回りして、裏切り者を責めた。
「貴い血筋は互いを呼び寄せる――とは本当らしいですわ。家格の低い娘は、あのような下賎な男がお似合いでしょう?」
それを聞いたクララヤーナは口元を歪めた。だがすぐに口をへの字に曲げると、無言でユマとは反対の方向に歩き出した。
ユマはハンカチを差し出した娘の頬を見た。
「まだ腫れているな。もう少し冷やしてな……」
ユマはそういうと、ハンカチを受け取らずに、歩き去った。娘はユマの背中に向かって小さく会釈をすると、小走りでクララヤーナの後を追った。
闘技場の南にある表門から放り出されたので、街の北にあるローファン伯爵邸に帰るためには、闘技場を半周しなければならない。ユマは、もうヌルを捜そうともしなかった。あれだけの騒ぎを起こしたのなら、嫌でも自分のことに気づくはずだ。だが、一向にヌルの姿が見えないということは、彼が闘技場にいなかったことに他ならない。前日の、ローファン伯の密談の内容と照らし合わせても、ヌルの動きが怪しいのは確実だ。
(あの餓鬼に任せてよかったのか?)
肝心なことを他人任せにしてしまった自分は、浅はかなことをしたのではないかという問いが心に浮かんだが、考えてみれば、クゥが対戦相手のユマと二人きりになるというのは、周囲に無用の誤解を与えることになりかねない。ともすれば、クゥに近しいクララヤーナに伝言を頼んだことは、あながち間違ってもいまい――と、思い直した。
ふと、眼前に数人の人影があった。まだ、ユマは闘技場の外周を回っている途中だった。
荷車があり、その上に横たわる人があった。暗さの中でもはっきりとわかるほどに、赤い血で染められた死体だ。
(トーラだ……)
そう思ったとき、ユマは、荷車を押す一人の男と目が合った。
キダだ。
(キダに死体掃除をさせたのか……)
ユマは、全身が怒りで震えるのを感じた。キダも、先ほどのユマの姿を見ていたのだろう。彼は黒いマントに身を包んだ男が誰なのか、すぐに気づいたようだった。ユマの名を呼ばなかったのは、周囲をはばかってのことだろう。
「どこへ連れて行くんだ?」
ユマは、キダに問うた。
「向こうに丘がある。闘士の死体はそこに埋められる」
キダは東に淡く見える盛り上がった地形を、顎で指した。
「家族の元には返さないのか?」
ユマが驚いたように問うと、この集団を指揮していたらしい男が口を挟んできた。
「そんなものがある奴は、闘士になんかならんさ。こいつは南から上ってきたらしいが、今となっては、故郷がどこかもわからん」
ユマは黙ったまま、その集団について行った。十分ほど歩いたところで、丘に着いた。もはや炬火なしでは足元が見えない。
(見事な男だったな……)
と、キダに語りかけるつもりでユマが彼を見ると、キダはユマの言葉をかき消すようにして言った。
「黙って死んだ男だ。黙って見送ってやろう」
彼の言うことがもっともだと思ったユマは、喉元まで出かかった言葉を飲み込み、鋤を借りて穴を掘り、トーラに土をかぶせた。
埋葬を終えて、男たちが帰ろうとすると、ユマだけがその場を動かなかった。訝ったキダが、
「どうした。こんなところに一人でいたら、迷子になるぞ」
と、あたりの暗さを気にしたように言うと、ユマはそれには答えず、黙って両手をへの字に合わせた。この国の人間が祈るときにする仕草だ。
他の男たちも、ユマがトーラの魂に祈りをささげているのを見ると、互いに顔をあわせたが、やがてユマの意を察したキダが彼に倣うと、男たちは次々と無言で鋤をおろし、オロ王国流の合掌をした。
夜空に矢が立った。