第一章「原初の声」(3)
湯山は過呼吸で意識が飛びそうになる中、辛うじて周囲を確認した。
黒い画板に白い絵の具を撒き散らしたように不自然な光が周囲を漂っている。それもひとつやふたつではない。
――妖精。
という言葉が、湯山の頭に浮かんだ。あるいは幽霊や得体のしれない生き物であるかもしれないが、怪談話が苦手な性格もあってか、よくわからないのなら妖精でもいいだろうとも思った。
妖精なら――と、安心できたならば、湯山の精神はよほど大雑把に出来ているといえたが、たとえ呼称を知っていたとしても、現実にはいないはずのそれが突然目の前に現れた事実は、一個の人間を混乱と恐怖の淵に突き落とすには十分だった。
あるはずの物が無い――あるいは無いはずの物がある時、人は多くの場合、恐怖を覚える。事の大小はあれ、自分の信じる世界の物理法則が砕け散ったような錯覚がするからだ。
湯山が辛うじて意識を保っているのは、彼がこのショックに経験があるからだ。ほんの数時間前に自分が体験した奇怪な出来事に比べたら、妖精の存在など取るには足りなかった。
現状、湯山にとっての一大事は、この妖精達が、自分を害するようなことがあるかどうかだ。
湯山が宙を漂う光のひとつを睨めつけて観察していると、周囲から小さな声が上がった。
――選ばれた。選ばれたよ。
――目が合ったね。
――はやいね。はやいね。
全て子供のような無邪気な声であったが、闇の中でのそれはいかにも怪しかった。
湯山が見ていた光が、小さく揺らめいた。すると、蝋燭の灯を吹くように、その周囲の光たちが一斉にかき消えた。
――ようこそ。
この台詞には聞き覚えがあった。とはいえ、最初に聞いたときは半分パニックに陥ったから良い印象は無い。
「妖精か何かか?」
周囲の光が掻き消えたことは、湯山が精神を安定させるにおいて十分に役に立った。
すぅ――と、光が近寄ってきたので、湯山は思わず振り払ってしまった。光に触れたという実感は無かったが、振り払った手が怖気だった。
――ユマ……
自分の姓を呼ばれた――と感じた時、湯山はこの超常の何かに抗うことへの意味を疑い始めた。
「何で俺の名字を知っている」
湯山の問いには、光は答えなかった。ただ、壊れた機械のように同じ事をつぶやき始めた。つぶやくといっても、湯山の頭の中に直に声に似た何かが響くだけだが。
ふと、湯山はこの光には自我がないのかと思った。あるのは何かの本能だけで、これはそれを行っているだけなのではないか。先に光同士で会話をしていたように感じたのは、湯山がそう思っていただけで、各々が別に湯山の頭に語りかけてきたのかもしれない。
これは、現象なのだ――と、湯山は思うようにした。日が昇れば野一面を朝日が照らすように、この世界では生物という存在以前の何かなのだと思った。
それと符合するわけではないが、湯山は蜻蛉を誘うようにして右手を差し出した。どういうわけか知らないが、そうすべきだと思った。
湯山に振り払われて迷うように宙を漂っていた光が、指の先に止まった。
――荊を……
湯山が脳内でそう訳すしかない何かをつぶやくと、光は死んだ蛍のように消えた。
自分はこの世界における普遍的な何かを今、受け取ったのだと思った。誰に聞かれても説明できる自信はないが。
明くる日の朝、湯山はあてどなく車を走らせた。
幸い、給油直後であるためにしばらくは走れる。だが、起伏の激しい悪路は車自体よりも湯山本人に対する負担が大きく、地形の突起の見づらい草原部を迂回し、禿げた地面の続く荒野を走った。それでも一時間に一回は気分が悪くなり、停車しては車の外でうずくまって吐いた。三回目は吐き出すものは何もなくなっていた。
水が足りない。
小川は見つけた。だが、無用心に川の水を飲むわけにはいかない。
(それはいざという時だ。俺みたいに頑丈でない人間だと一発でアウトだ)
時々、貧相な木に実がなっているのを見かけたが、それが食用に耐えられるかどうかは分からない。
(つくづく、食い物が向こうからやってくる暮らしをしてきたんだな……)
対価さえ払えばすぐさま食事にありつける世界が、実は途方もないものであったのではないかと、湯山は思うようになった。
「とにかく、人だ」
人間を見つけなければ話にならない。湯山はこの世界で生きる術を知らないのだから。まずは模範というべきこの地の住人を捜すことが、彼の第一の目標だった。それ以上に、自分という存在を保護してくれる何かを探していた。そもそもこの地に人がいるのかどうかという疑問は捨てた。必ずいる。そう思わなければ正気を保てそうにない。
半日も走らないうちに、車の方が先に音をあげた。燃料が尽きたのではなく、車体が歪むような悪路を走り続けたことによる。
「お上品な道しか走ってこなかったもんな。中古ワゴンだとこんなものか……」
皮肉めいた台詞を吐いても、虚しいだけだった。自分を外界から守ってくれる強力な夜具も兼ねていたから、これから徒歩で行くことを考えると、途方に暮れた。
(人じゃなくて、食い物を捜すべきだった)
川辺で魚釣りでもして、急場をしのぐくらいの事すら考えつかなかった。第一、食用でないものを体が受け付けないだろうということは、湯山にとっての大前提であった。とはいえ、そこいらに見知った果実がなっていたり、調理された肉が落ちていたりするわけがない。
このような危機時であるのに、そういった甘えの中にあるということは、湯山でなくとも自覚しづらい。
まずは野垂れ死にを回避する方法として、日が暮れるまでにやるべきことを決めた。
(火を焚こう)
どうにもやめられない煙草の習慣というものが疎ましくなったこともあったが、今ばかりは感謝した。ライターさえ持っていなければ、火打石以前の旧態で火を熾す羽目になっていたかもしれない。
既に茫々たる荒野は抜け、遠くに山霞が見える。近くに小川もあり、所々木々が茂っていた。
枯れた枝葉をたんまりと拾ってきて、湯山は小さな焚き火を熾すと、寒くもないのにそれに手を当てながらしばし考えた。
(人間は何故、山から下りたんだろう……)
短時間であれ平野をさまよった感想といえば、途方もなく広い場所には食料もなく、水もなく、それに比べれば山など貯蔵庫のごとく禽獣がいて、木の実や水もあるだろう。それを捨ててまで、人は何を求めて平野へ下りたのだろう。
(きっと増えすぎたんだ)
あるとき、山という空間では増えすぎた人種を賄えなくなったのかもしれない。人は自ら進んで平野に下りたのではなく、追い出されたということになる。湯山のこの想像は無論、何かの書物に立脚したものではなく、彼の勝手な想像である。
煙草に火をつけた時、湯山は車に鍋でも積んでおけばよかったと思った。軽装でないと歩けないと思って、気が付いたものしか持ってこなかったから、食事の役に立つものといえば空のペットボトルだけだ。これでは湯を沸かすことも出来ない。
(いっそ、解体して鍋でも作りゃよかったんだ……)
本気でそう思った。今でも生の水を飲むことは怖い。
流石に空腹には勝てず、河で魚を獲ることにした。水を怖がったユマであるから普通に考えれば魚を敬遠しそうなものだが、ここは意を決したと言うべきだろう。知識がない以上、木の実は危ない。
ちょうどいい小川を見つけて、枝と石で堤を作った。子一時間ほど待つと、小魚が堤に入ってきたのでそれを焼いて食った。水藻の臭いがひどく、味も何もなかったが、腹だけは膨れた。
(便所も作らんとな)
木の棒を拾ってきて地面を掘った。出来るだけ深く掘りたかったが、土が固く、途中で諦めた。
そうこうしているうちに日が暮れた。次第に寒気が下りてきて、湯山は車に積んであった毛布に包まったが、ここにきて車を捨ててきたことを後悔した。
(火を絶やさないことだ……)
野天の下で熟睡できるはずもないから、目が醒める度に焚き火に枯れ枝を足した。
(雨が降ったらどうする)
なども考えたが、それ以上に押しつぶされそうな疲労感に襲われて、ついには気絶するようにして寝入った。