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貴く翔べ  作者: 風雷
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第三章「舌禍啾々」(7)

 ユマは、自分という人間が、心の芯から震えるのを感じた。千人もの人間にたった一人で相対している感覚は、恐怖や(たかぶ)りといった言葉では言い表せない、嘔吐感にも似た切羽詰ったものに似ている。

 クゥが、顔を上げた。また、彼女の皮膚からあふれ出るようにして、光の粒が落ちた。


「いや、今のは……」


 ユマの呟きは、やがて闘技場に(さざなみ)を起こした。


――何だ、あいつは?

――旅人か?

――誰に向かって話してるんだ?

――クゥだろう。さもなけりゃあ、狂人さ。


 クゥは、ユマの言ったことが通じなかったのか、しかし首をかしげることもせずに、じっとこちらを見ている。


――闘士の試合に口を出すな!


 どこからか声が上がった。それに続く者は、闘技を愚弄するな――とも言う。

 やがて、クゥが右手にもった剣を降ろすと同時に、周囲のざわめきは止んだ。


「下品とは、これから起こることを言っているのか? では逆に()こう。この者を生かして、どうするのか?」


 クゥの放った言葉は、ユマの心のどこか、柔らかく、和んでいた場所に、深く突き刺さった。ユマは、頭を鈍器で殴られたような気がした。



――闘え!


 ひどく清らかな声が頭の中で響いた。いつの間にかユマの脳内に棲みついたこの声は、人間の闘争を否定しておきながら、しかし今は闘えという。


――あれは豎子(じゅし)の敵じゃ。必ず滅ぼせ!


 頭が痛い。誰かの声は怒号にも近く、心を強く保たなければ卒倒しかねない狂気すら含んでいた。


(クゥが……俺の敵だって?)


「ふざけたことを、抜かしやがって!」


 ユマの突然の叫びに、傍で見ていたクララヤーナが目を見張った。闘技場の花というべきクゥに対して、なんという暴言だろう。下手をすると、会場の観客全員を敵に回しかねない暴挙だ。

 満場に怒気が走った。


(違う。そうじゃない!)


 ユマは弁明したかったが、もはや会場全体がそれを許さない。ならば、覚悟を決めるしかない。


(もう、どうにでもなれ)


 ユマは、頭の中に浮いてきた言葉――それは何者かの声と混ざり合っていて、果たして自分のものであるのかもよくわからなくなっていたが――を慎重に拾いあげながら、声が震えないように、ゆっくりと、しかし強い声で言った。


「何も殺すことはないだろう。人は死ぬ。必ず死ぬ。それは、人は死すべき生き物だからだ。たとえ万病に効く薬があったとしても、人が百年を越えて生きることはほとんどない。人は、(なが)くは生きられない。生きるというのは、死ぬまで生きるということだ。見ろ。闘士トーラは、まだ死んでいない。なのにお前は、たかが闘技(・・・・・)に勝っただけで、彼の命を奪おうとする。素人の俺から見ても、トーラは見事な闘士だ。試合に赴くにあたって死を覚悟していないはずがない。また、トーラはお前の冠が飛ばされた際、既に勝ちを半分手にしていたにもかかわらず、お前を討たなかった。お前が今、トーラに剣を突きつけているのは、戦場の礼につけこんで勝利を得たに過ぎない」


 だが、観衆はユマの言葉を理解しない。


――とぼけたことを言う。


 命の大切さなど、あえて言葉にしなくとも、わかりきったことだ。彼らにとって闘技場はその唯一の例外と言ってよく、あえて言えば、闘士の死は、観る者の心を満たし、生きる原動力となる。人の強さを端的にあらわすのは、闘争が最たるものであり、それは周囲の人間に(ほとばし)るような激しい感情を流し込む。この点、男は履き違えている。


「無知」


 というのが、観衆がユマに対して下した結論だった。

 それらが罵声となってあらわれ始めた頃、一人の男が動いた。

 トーラである。



 突然、立ち上がろうとしたトーラに気づいたクゥは、慌てて剣を彼の首に押し当てた。トーラは反抗の意思がないことをあらわすためか、中腰のまま、ユマを見た。

 一点のよどみもない、澄んだ目がそこにあった。


(ああ、この人は死ぬなぁ……)


 トーラと目が合ったとき、ユマは巨大な岩壁を思い浮かべた。限りなく大きいのに、触れれば崩れ去ってしまうほどに薄い。それは、トーラの肉体は確かにまだ生きているが、彼の中では、既にトーラという闘士が死んでいることを意味していた。

 風が吹いた。いや、闘士が入場する門にかけられた旗は、揺れていないから、風が吹いたとしても、微風だろう。だが、人々を頬を刺す様な何かが、確かにその場を駆け抜けていった。

 トーラは眼前に突き出された剣に体重をあずけ、自らの首をかき斬った。花火のように散った鮮血が、クゥの太腿を濡らした。


(見事だ……)


 トーラは無言で死んだ。ユマに対して、一切の言葉を捨てた彼の視線に全てがこもっていた。

 ユマの目から見れば、今の試合には不公平があった。トーラにとって最大の勝機は、クゥが弩発を使う前に接近した時しかなく、彼女が闘花冠(リボン)を落としたがために、トーラは身を引き、みすみすそれを逃した。だが、クゥはトーラの礼に対して一切を報いることなく、再び彼を近づける前に勝利をもぎ取った。クゥが本当に誇り高い闘士ならば、あえてトーラを接近させて、冠を正す(正確にはリボンをつける)機会をくれた彼に報いるべきではないのか。クゥにそこまでの余裕がなかったといえば、それは言い訳だろう。もっと言えば、クゥは試合には勝ったが、トーラには負けた――ともユマは思った。彼を殺さなければ、クゥは借りを返したことになったのではないか。

 それだけに、トーラが一切の不満を口にせず、自らの命を散らしたところに、ユマは彼の寂しさと、気高さを感じた。トーラが無言で死んだということは、実はこの試合の本当の勝者は自分であるという、クゥに対する痛烈な非難であることに、何故、他の者は気づかないのか。

 だが、ユマは同時に、トーラの死を美しいと感じた自分を嫌悪した。人を殺すなと言っておきながら、自刎(じふん)したトーラに敬意を覚える資格が、自分にあるのか――と。


「闘技を穢す者よ。去れ!」


 クゥの一言で、全てが終わった。

 ユマは力なくその場に立ち尽くした。腹の底から沸々と怒りが湧いてきたが、それを言葉に出せば、トーラの死が穢れる。

 ユマの口出しに腹立ちを覚えた観衆の何人かは、罵声を浴びせてかけてきた。だが、それは彼の耳に届かない。

 目頭が熱くなった。


(何故、泣く?)


 自分自身に問うた。全く知らぬといってよいトーラの死に泣くほど、自分は情け深い人間なのか。そんなわけがない。悔しいのだ。クゥに言い負かされたことより、トーラがユマの思想を拒んだことより、当然なことを言っている自分が滑稽であるという事実が、何よりも悔しい。


「はは、こいつ。泣いてやがる」


 観衆の一人がユマをあざ笑った。ユマは、傍にいるはずのクララヤーナを捜したが、既にいなかった。


(この期に及んで、あんな餓鬼にまですがるか……)


 ふっ――と、力のない笑いが出た。アカアが今の自分を見れば失望するだろう。一瞬、リンの顔が浮かんだが、すぐに打ち消した。


――去れ。去れ!


 場内がユマを締め出そうとする意思を持った。観衆はユマの背を叩き、腕を引っ張り、彼を闘技場の外に放り出した。


(俺は、何をしたかったのか!)


 闘技場の鉄の掟は、人間の欲望にそっているだけに、ユマの言葉よりも遥かに人々を説得する力を持っている。ユマは、自分が浅はかな人間であると決め付けられた悔しさを拭えない。間違ったことをしたとは思っていないからこそ、己の卑小さが何よりも悔しい。

 また、闘技場で歓声が上がった。ユマはそれを背で聞いていたが、観衆がクゥを呼ぶ声を聞いたとき、


(クゥに、会わなきゃ……)


 と、彼女に身の危険を伝えるという、当初の目的を思い出した。だが同時に、今起こったことから立ち直れないまま、どの面を下げて彼女に会いに行けるのだろうと、気が重くなるのを感じた。


(会いたくない……会えない)


 まるで地面に()いつくばったユマを圧殺するかのように、空は淀んだ泉のような色で広がった。


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