第三章「舌禍啾々」(6)
トーラと呼ばれた闘士は、険しい顔つきの、壮年の男だ。頭に冠をつけておらず、冑をかぶっている。紹介された際に、名だけで呼ばれていたので、爵位はないだろう。第一、闘技場という人殺しの場に、貴族がそんなごろごろといるわけがない。クゥや、シャナアークスの様な手合いは特殊なのだろう。
トーラの乗る竜機が動くと、地面がわずかに盛り上がった。
クゥの駆る竜機がそれを踏むと、土が爆ぜた。砂が観客席に飛んだのか、悲鳴が上がった。
「クゥは何術士なんだ?」
ユマは闘技場から目をそらさずに、クララヤーナに訊いた。
「はぁ? そんなことも知らないで、よくクゥの知り合いっていえるわね」
(確かに……)
ここ数日はシャナアークスの訓練に手一杯で、クゥについての情報を得ることを忘れていた。というよりも、術士によって戦法が大きく変わるということを肌で知ったのは、ほんの数時間前であるのだから無理もない。
「空術よ」
とクララヤーナが言ったとき、戦況が動いた。
トーラが動き回るたびに、闘技場の土が形を変えて、波打つように凹凸を作った。動きを制限されたクゥの竜機の速度が落ちた。
(試合の相手がトーラだったら勝ち目がなかったな)
土術闘士が皆、この様な戦い方をするのであれば、機動力が売りのユマの戦法では歯が立たない。この点、ユマにとってはトーラより格上でも、シャナアークスのように直線的な動きをする相手のほうが戦いやすい。
「空術ってのは何だ。風術とは違うのか?」
アカアから聞いた話では、風術は最も初歩の術であるらしく、ただ風を起こして操るものを言うらしい。同じく大気中の精を用いる火術は、風術より上位におかれている。先の二試合目の剣士は風術士らしいが、彼が剣を手放さなかったように、風術のみでは戦闘に耐えられるものではないらしい。
クララヤーナが咳き込んだ。トーラが巻き上げた砂が口に入ったらしい。
「ちっ……くしょう……最悪だわ。髪にかかったじゃないの!」
トーラがクゥの背後に回った。辛うじて旋回したクゥは、トーラの体当たりを正面から受け止めた。竜機がぶつかる際に、耳を割くような音が鳴った。
クゥの持った槍は普通より少し短い。彼女はそれを器用に使いながら、トーラと距離を置いた。二、三度同じ事を繰り返した後、クゥのつけた闘花冠が解けて飛ばされた。
クゥの解けた髪が、一瞬、花開いたようになった。
それを見たトーラはクゥと大きく距離をとった。すると、会場から拍手が上がった。クゥは竜機の上で姿勢をただし、トーラに向かって小さく会釈すると、竜機を降りて落ちた闘花冠を拾ってつけた。
(ここの中でのフェアプレーか)
再び両者が対峙したとき、トーラの魔術なのか、闘技場の中心が大きく盛り上がった。
(接近戦は得意じゃないらしい……)
シャナアークスのような猪突猛進型の闘士と戦ったばかりであるから、ユマにはクゥの動きがやや頼りなさげに見えた。ただ、トーラもクゥを押し切れないところをみると、互いに本領発揮はこれからのようだ。
クゥとトーラは今、にわかに出来た丘を隔てたところにいる。上からは二人の位置が見て取れるが、当の二人は互いに相手の位置をつかんでいるのだろうか。
案の定、クゥの動きが完全に止まった。トーラを迎え撃つつもりらしい。これは、彼女がトーラの位置をつかんでいない証拠だ。
一方、トーラはクゥの位置がわかるようで、丘をゆっくりと登ってゆく。急降下して一気に勝負をつけるつもりらしい。
ユマは、勝負の行方をはかりかねていた。先ほどから術を使用しているのはトーラだけで、クゥのあたりには精の輝きがない。彼女がまだ、術を使っていないということだろう。
トーラの周りの精は、シャナアークスほどに著しくはないが、徐々に力を失っているように見える。彼が丘を登りきったときに、竜機が輝いた。
(やる気だ……)
おびただしい量の魔力(精)が、トーラに集まっている。彼が丘の向こうに消えたとき、凄まじい音がした。
何かが空に飛んだ。
それが、破壊された竜機の破片であると知ったのは、破片が眼前にまで飛んできたからだ。
「危ねぇ!」
ユマはとっさにクララヤーナをかばうようにして横に倒れ込んだ。耳元を掠めるように、竜機の破片が落ちた。
「クララ、大丈夫か?」
クララヤーナの安否を確認すると、彼女は随分と興奮した様子で、
「気安くクララって呼ぶんじゃないわよ! あんたなんかに愛称で呼ばれると蕁麻疹がでるわ」
と、悪態をついた。よほど怖かったらしい――とユマは苦笑した。
「じゃあ、本名で呼んでいいのか? 正体がばれるぞ」
「せめてクララ様にしなさい。それなら許してあげるわ……っていうか、いつまで人の上に乗ってんのよ。手! どけなさい。手を――!」
クララヤーナが悲鳴を上げたので、ユマは驚いて自分の手元を見た。彼女の胸元を押し付けていたそれを見て、思わず手を引っ込めた。
全くといってよいほどふくよかさとは無縁なそれは、クララヤーナの歳を考えれば当然だろう。だが、事情とはいえ少女が押し倒されて驚かないはずがなく、それを詫びようと口を開いたところで、鳩尾にクララヤーナの足が飛んできた。
「黙れ。喋ったら殺す!」
ユマが立ち上がり、クララヤーナが落ち着きを取り戻した頃、闘技場では、どうやら決着がついたようだ。トーラの竜機に乗り込んだクゥが、彼の首元に剣を当てていた。
「……『弩発』ね。相変わらずえぐい術だわ。でもトーラも運がいいわね。この前の相手なんか、ばらばらになっちゃったのに……」
クララヤーナが凄まじいことを言ったので、ユマは言葉を失った。
(確かに、強烈な術だな)
シャナアークスの火尖は確かに恐ろしかったが、クゥの弩発は異質の怖さがある。ユマは、丘を急降下したトーラに対して、クゥのとった行動が魔力の流れとともによく見えた。
それは瞬時に行われた。
クゥを中心に集められた風精――だとユマは思っている――が、竜機の口に蓄積され、凄まじい勢いで発射された。あるいは、何かの物質が放たれた可能性も高いが、とにかく、彼女の術はシャナアークスと違って離れた相手を狙い撃つという性質の悪さがある。しかも、火尖と比べて、威力が隔絶している。シャナアークスが、クゥを自分より下に見ているのは、弩発の的にならないという自信があるからだろう。
(それでも、全く勝てないわけじゃない)
弩発は確かにやっかいだが、近づいてさえしまえば、格闘戦において火尖ほどの脅威ではない。あんな強烈な術を至近距離で放てば、クゥ自身も無事ではいられないはずだろうから、ユマは、先のシャナアークス戦で試した秘策がクゥにも通じるだろうという結論に達した。それにしても、可愛い顔をして、人間を木っ端微塵に吹き飛ばしたことがあるとは、クゥに対して特に悪い印象を持っていなかったユマは、どこか期待を裏切られたように感じた。
ユマは、トーラに剣を突きつけているクゥを見た。
(光が散った……)
クゥの左手が、目元にかかった前髪をかきあげた時、輝かしい粒が散った。それが汗であるのか、風精であるのか、ユマには判断がつかなかったが、クゥが肩で息をしながらどこか遠くを見るような目で剣先を見つめている姿は、えもしれぬ恍惚感をユマに与えた。
観衆の熱気に包まれた会場の煩さは、鼓膜を破らんばかりであるのに、ユマにはクゥの息遣いが耳元で聞こえてくるようだった。
クゥの肩があがるたびに、ユマは彼女と同じように呼吸をした。幻覚だと言い切ってもよいが、ユマはこのとき確かに、クゥの匂いを嗅いだ。ユマの脳裏に、無限の空が広がった。
(虚しい……のか?)
今、自分が抱いている感情を、ユマは量りかねた。何が虚しいのか。それがわからないから、虚しいのだろう。あえて言えば、今、目に飛び込んでくるクゥという女そのものが、虚しい。周囲の人間から賞賛の言葉を投げかけられる彼女が、ユマにはこの世のどことも繋がっていない、人智の蒙さを突き抜けた先にいるように見えた。
クゥという女が空気にも似た虚に感じられた時、ユマの瞳の中の彼女は、眩い光に包まれた。
淡い青――母の胸の中にいるような安心を覚えるそれは、時々、他者を拒絶するような冷たく深い彩りに変わる。
(まるで宝石だな……)
ここでユマはひとつの想像をした。
クララヤーナの言ったフェペス家の家宝とは、今のクゥのようなものを言うのではないか。魔術の奥義だとかではなく、今目にしている輝きそのもの。これは、魔力そのものであることは明白だが、あるいはそれを形に残す術がフェペス家にあったのではないか。ローファン伯はそれを奪おうとした。そしてフェペス家はローファン伯と戦って敗北した結果、家宝と領地を失った。
「なぁ、クララ。さっきのフェペス家の家宝の話だけど……」
「何よ」
クララヤーナはユマの方を見ない。ユマもまた、クゥから視線を外してはいない。
「『盲のエメラルド』っていうのは、失われたのか。ローファン伯に奪われたんじゃなくて?」
「そうよ」
少女の答えはそっけなかった。先に意地悪をして会話を切った事すら忘れているようだ。それもそのはずだ。前の試合と同じであれば、これからがクララヤーナや他の観客にとっての娯楽の時間なのだから。
――こっ!ろっ!せっ!
またか――と、ユマは舌打ちした。ここの連中はよほど刺激に餓えているらしい。
トーラは、既に諦めたように頭を垂れている。
クゥが剣を振り上げると、観客席の声が止まった。
ユマは、クララヤーナの顔を見た。彼女の視線も他と同じように、トーラに釘付けになっている。心なしか、小さく笑みを浮かべているようでもある。
クゥはしばらくそのままでいたが、やがて小さく口を開いた。遺言でも聞いているのだろうか。トーラと数語を交えた後、彼女は剣を持った右手に力を込めた。
だが、クゥは中々止めを刺そうとしない。不意に誰かの言葉が漏れた。
「下品な試合だ」
うるさいほどの静寂を壊すようにして、声が上がった。
「馬鹿! ちょっと……何してるのよ」
クララヤーナが焦って口走った言葉ですらが、会場に響いた。
千人にも及ぶ人間の視線が一箇所に集まった。
(しまった……)
ユマは、自分の中の何かが逆立つのを感じた。