第三章「舌禍啾々」(2)
午後五時が過ぎ――闘技場は盛況の中にあった。
いつも閑散とした中で訓練を行っていたユマは、同じ場所が人で満たされ、自分がその中でもみくちゃになっているのを、どこか夢のような気分で見ていた。
今日の試合は三つ組まれている。最初の二つは闘士戦で、最後に竜機戦がある。クゥが出るのは三つ目だ。
観客席は階段状になっているが、何分人が多く、ユマは後方にいたので、人垣の隙間からしか試合が見えない。最初の試合は普通の剣闘試合だったようで、歓声に混じって、剣のぶつかり合う音と、その際に闘士の放つ声が聞こえた。
やがて、それが止むと同時に、
――殺せ!
と、観衆が声を合わせて叫んだ。ユマが闘士を確認する前に、あたりは歓声で満たされた。
「畜生、見えねぇ!」
どこか、他に観戦しやすい場所はないかと、ユマは周囲を見渡した。すると、一箇所に数人の街娘が固まって試合を見ていた。彼女たちの前には光精の泉があって、普段はその近くも観客が座るのだが、ユマが先のシャナアークスとの戦いで観客席ごと破損してしまったので、びっしりとすし詰めにされた観客席にちょっとした隙間が空いている。
「おい、向こうに移動するぞ」
ユマは、傍らにいるはずのヌルを捜したが、いない。仕方がないので、自分だけでそちらに向かうことにした。
ユマは街娘たちの傍まで歩いてゆくと、
「ちょっと失礼するよ」
と言って、一番端にいる少女の肩を押して無理やり押し入った。
「きゃっ! 何、この人?」
娘は怒るというより、突然割り入ってきた男を警戒した様子だった。黒いマントに身を包んでいて、深々とかぶったフードで目元も見えないのだから警戒されて当然だろう。傍にいた二人の娘が彼女をかばうように引き寄せたが、中心にいた娘は、ユマを一瞥した後、
「かまわなくてよ。それより、次の試合が始まりますわ……」
と、小さなごたごたに興味を示さなかった。
「何だ。ヴォンの娘は、皆、お嬢様みたいな喋り方をするのか?」
ユマがそう言うと、中心にいる娘は一瞬だけ顔色を変えた。だが、すぐに取り澄まし、
「あら、旅の方?」
と、ユマの隣まで近づいてきた。
(蒼いな……)
夜空を吸い込んだような色の髪だ。後ろで団子に纏めていて、よく見ると顔立ちに気品があり、輝くような美しさがある。それは己の容姿に対する自信から来るものだろう。もしかすると、貴族の娘が屋敷を抜け出して来たのかもしれない。それに、どこかで会ったような気がするのは気のせいだろうか。だが、そんなことはどうでもよく、ユマは、
「まあ、そんなところだ……」
と、返すと、再び闘技場に視線を移した。
二人いた闘士は、一人になっていた。残った一人は、胸に突き刺さった剣を抱くように斃れていた。
「野蛮なことをする……」
哀れな――とは、ユマは言わない。殺された側も、相手を殺すつもりで戦ったのだろう。その結果、誰も死なないで済むはずがない。
「あら、あなた闘技は初めて?」
と、いつの間にかユマの傍に肘を寄せていた街娘が言った。といっても、身長差がありすぎて、彼女は大きく胸をそらしてユマを見上げていたのだが。
「初めてじゃあないが……(というより今さっきやってきたばかりだが)」
「人が死ぬのは嫌い?」
ユマは娘の方を見なかったが、小さく頷いた。
「そう。私は好きよ。ここにいる人はみんな大好きみたい」
と、娘が言ったとき、新たな歓声が上がった。次の試合の闘士が入場したのだ。
ユマはそちらを見ずに、じっと娘の顔をみた。少女である。まだ、十五歳にも達していまい。
(歪んでいる……)
ユマは最初にそう思ったが、競技観戦と闘士のそれと、何が違うのかとを突き詰めて考えてみると、さほどの違いがないことに気づいた。ボクシングや、総合格闘技にさほどの興味があるわけではないが、たまたま目にとまった試合に魅入られて、熱中することも多々ある。人が人と、互いに火花を散らすようにしてぶつかり合う様子は、互いの力量が近ければ近いほど、形としては醜悪であっても、血汗が吹き飛ぶ様はどこか美しく、観る者の内に眠る狂騒を呼び覚ます響きを持っている。それは、さわやかなほどに純粋な快楽といってよく、人が夢中になる所以だろう。人の本能は闘争を好んでいる。ユマはそれを否定するつもりはない。ただ、その結果が敗者の死であるというのは、あまりにも凄惨だ。惨い上に、知恵がない――とも思う。
「勝負を観て楽しむのはわかる。だけど、人が死ぬ様を観て楽しむのは、下衆のやることだ」
ユマの呟きを、娘は確かに聞き取ったらしく、
「へぇ……」
と、ユマの顔を覗き込んできたが、フードを深々とかぶっているせいで、目元が見えない。だが、ユマからは娘の顔がよく見える。大人しめの鼻は少女のものだが、目や口元の艶は女そのものだ。
「旅人さん。あなた、誰かに死んで欲しいって思ったことはない?」
娘の言葉は、源精を介してユマに伝えられるが、生の声も耳に飛び込んでくる。ユマはそれに一種の心地よさを感じた。
「……あるにはあるけど、それとこれとは違うだろう」
ユマはキダのことを思い出した。彼に追い回されたとき、殺意を感じたことは確かだ。だが、闘技場で誰かの死を見ることで、自分の憤りを宥め、慰めるとしたら、人としてあまりに情けない。
「確かにね。あなたの言うとおりだわ。でもね、ここの人たちはそうじゃないの。自分で誰かの命を左右できる人たちじゃないのよ。だから、自分が望んだ分だけ人が死ぬこの場所が好きなのよ。あなたにはある? 誰かの命を手のひらの上に乗せたことが……それはね。どんな人間にとっても、至高の快楽なのよ」
娘が思った以上に穿ったようなことを言ったので、ユマは驚いた。だが、すぐに反発した。
「ああ、あるさ。俺が手をこまねいていると、確実に死ぬ奴がいる。だけどな、それの何が楽しいってんだ。それに、誰かの命を手中にするだって? 大きな手のひらの上でコロコロ転がっているのが、自分自身だって事を何で忘れられるんだ。そういうのはな、世間知らずな餓鬼の言うことだ。いいか? ここの連中はな。自分の周りから危機が排除された空間を楽しみに来たんだ。闘士は死ぬ。でも自分は死なない。剣闘もしない。ただ見てるだけだ。勝敗もない。ここには観客にとって、賭け以外の一切の競争がない。それは、仕事終わりに酒を飲むのと同じことだ。彼らは休みたいんだよ。安心したいんだ。毎日、仕事に追われるような苦労を背負ったこともない奴が、賢しいことを口にするな!」
最後の方は観客を擁護するような口ぶりだったが、ユマは目の前の陰惨な光景を許したわけではない。彼が感じたのは、
(娯楽の質が悪い)
ということだった。だが、闘技を見に来るのは何も一般人だけではなく、貴族が臨席することもある。この場合は、娘の言ったことのほうが当てはまるかもしれない――とも考えたが、歳若い少女が下卑た遊びを楽しんでいるのは、ユマのような男にとっては不愉快でしかない。
娘は自分が罵られたことを知って、かっと顔が赤くなった。後ろにいた娘にも、二人の会話が聞こえたらしく、
「何て事を……クララ様、大丈夫?」
と、娘の肩に手をかけた。
(クララ……どこかで聞いたような――)
ユマが娘の名に違和感を覚えたと同時に、娘は自分を慰めようとした仲間を振り払った。肘が顔面に当たり、仲間の娘は倒れた。
クララと呼ばれた娘が激昂していることを知ったユマだったが、肘うちを食らった娘が口元から血を流しているのを見て、心中穏やかではなかった。よく見ると、クララとともにいた娘たちの表情が恐怖でひきつっている。
「てめぇ!」
と、叫んだのは、ユマではなく、クララだった。天女のように潤った声が怒気を帯びるとこうなるのか――と、ユマは間の抜けたことを考えた。
クララはユマに向かってくると、力いっぱい拳を突き出した。だが、それは届かない。ユマがクララの頭を抑えたからだ。
「この! このぉ! ぶっ殺す! ぶっ殺す――!」
罵声を放ちながら、クララは殴りかかるが、その尽くが失敗に終わった。
「おや、こっちでも拳闘をやってるぞ」
観衆の一人がこの騒ぎに気づいて、野次を飛ばしてきた。ユマに向かって本気で殴りかかってくるクララの道化振りがうけたらしく、あたりは哄笑で満たされた。
彼女の目に涙が溜まってきたので、ユマは何やら弱いものいじめをしているような――実際にそうだろう――気分になり、クララの頭を押しのけるようにして手を離した。少女は見事に仰向けにこけた。
蹲って頬を押さえている娘の方を見たユマは、屈んで娘の頬を見ると、ばつの悪そうな顔で言った。
「悪いな。俺があんたのお友達をからかったせいで、美人が台無しだ」
袖からハンカチ――勿論、ユマがこの世界に持ち込んだものだ――を取り出したユマは、それで娘の口元を拭った。
「歯は……折れてないようだな。これを水に濡らして、当てておくんだ。そこの泉は濁っているから、他に行くといい」
そういうと、娘は驚いたようにじっとユマの顔を見ていた。彼女は仲間に連れられて、闘技場を出て行った。クララを起こそうとすると、猛獣のように暴れて手がつけられなかったので、彼女だけがこの場に残った。
「おい、いつまで寝てんだ餓鬼んちょ!」
ユマはクララの手をつかむと、無理やりに引き起こした。勢い余って、クララが胸元に突っ込んできたところで、衝撃とともに左耳が麻痺した。
「ふんっ、届いた!」
ようやく憎たらしい男に平手を浴びせかけたクララは満足したのか、胸を張って言った。
「やれやれ、話に聞いたとおり、腕白な餓鬼だ」
そういったところで、ユマはエイミーを思い出した。あの銀髪の少年は、クララよりは遥かに少女らしさがある。アカアを思い出さなかった自分もおかしかった。
「お前、穴姫様だろ?」
クララの表情が変わった。あからさまに動揺している。
「何をそんな……な、何かしら、その卑猥な名前は?」
「じゃあ、クララヤーナと呼んだ方がいいかな。クゥに似ているから、すぐにわかったぞ」
ユマが顔を覗き込むように言うと、少女は後ずさりした。
「何で……まさか、わたしがクララヤーナですって? それにあなた、クゥの知り合い?」
「ああ、知り合いだよ」
と言ったとき、ユマは内心、舌を出した。
歓声が上がった。二試合目が始まったようだ。