第二章「闘士衝冠」(11)
伯爵邸に帰ったユマは、早速リンを呼んでガオリ侯爵について訊いた。リンは晩餐を整える手伝いをしていたが、彼女はユマの世話を何よりも優先するように言いつけられているので、配下に細々とした指示を与えてからユマの元に来た。リュウはヌルの下で働いているらしく、彼女と入れ替わるように奥へと消えていった。
「忙しいところに悪いが、訊きたい事がある」
「先生のご要望に応えることが私の仕事です。ご懸念には及びません」
リンは小さく頭を下げて言った。ユマも彼女の慇懃さに慣れて来たのか、最近はそれが当然であるような気がしてきた。
「ガオリ侯爵ですか。先代まで子爵であったと聞きますが、詳しくは……今の当主はお若い方ですが、あまり良い噂は聞きません」
「噂?」
階上からリンを呼ぶ声が聞こえた。伯爵夫人である。ユマが頷くと、リンは小さくお辞儀をしてその場を去った。
「仕方が無い。アカアに訊いてみるか……」
リンは退いたが、挙措にどこかよそよそしさがあった。軽く違和感を覚えたユマだったが、特に気にすることもなく、アカアの部屋に向かった。
さすがに部屋に立ち入ることは出来ないため、部屋の前に立つ使用人に告げてアカアを呼び出そうとした。
「どうぞ、お入りくださいませ」
アカアの部屋は、彼女の赤い髪に染められたような淡い桃色を帯びていた。カーテンからベッドの生地まで同じ色だ。さすがに壁と床は外装と同じく白で統一されている。
大きな本棚を横に置いた木机に座っていたアカアは、読みかけの本をぱたりと閉じると、笑顔でユマを迎えた。時々恐ろしく冷めた感情をのぞかせるアカアだが、平素は可愛げがあり、あたたかみのある貴風を感じさせる。
「ガオリ侯爵について訊きたい」
ユマが言うと、アカアは得たり顔でいつものごとく喋り始めた。
ガオリとは、領地名ではなく、家門名らしい。元は南端の小国の主だったが、異族に追いやられる度に北へと移動を繰り返した。先代の頃にオロ王国に帰服し、子爵を賜った。今は王国の南部に領地を持っている。王国東部に根を張るヤム家とは交誼が薄かったが、当代になってからは良好な関係を築いている。
――ガオリと手を組んでいて、損は無い。
というのは現ローファン伯がヤム家を継ぐ前に口に出していたことらしく、それを実践した彼の予見力が並でない証拠に、今ではガオリ家はローファン伯より上位の侯爵位についている。先代の頃に子爵だった家が、当代になって侯爵位を得たのは、現光王の即位の際に大いに尽力したということらしい。他にもガオリ侯は南方の蛮族を手なずけオロ王家に帰服させた功績もある。
「あまり良くない噂があるらしいな……」
ガオリ家の者に金を貸し与えたユマとしては、ガオリ侯が信義の厚い人物かどうか知りたくなってもおかしくない。
「噂ですか……それはどのようなものでしょう?」
アカアは首をひねったが、ユマは悪い噂とはどのようなものなのか、リンに聞いていない。アカアはユマがリンから情報を得ようとしていたことを知ると、小さく笑った。
「リンに、何がわかりましょう。民草は噂を信じ過ぎます。政道が何であるか、理解の届かない彼らは、あやふやな情報に己の想像を転化して、意味も無く壮大な話を作り上げるものです。噂話とは、自慰に似ています。リンの言う悪い噂とは、光王を即位させる際の党争や、南国に賄賂を贈ったなどというものでしょう。あるいは今のガオリ侯はシェンビィ公爵家に目の敵にされていますから、それもあるのかもしれません。ただし、正確な情報を得ずにリンがガオリ侯を非難したとすれば、それに耳を傾けることはありません。想像の中で人をこき下ろして自らの虚しさを埋める者を下賤というのです。先生がこのようなことに惑わされるはずがないかと存じますが……」
アカアはユマの器量を確かめるように目を合わせてきた。
(ふーん。まあ、この娘の言うとおりだな……)
ユマは自分が試されるような口調に多少腹を立てたものの、彼女の仕草に一種の愛嬌も感じているせいか、無感動を装った。
話が切れたところで、ユマはすっくと立った。アカアのことは嫌いではないが、この娘とはどこか噛み合わない。同じようなことをローファン伯にも感じる。いずれ居心地の悪い家になるかもしれないという仄かな不安も覚えた。
「ガオリ侯爵は、箒で少年を叩くのがお好きらしい……」
と、ユマが言うと、アカアは小さな笑声をあげた。
部屋を出るとき、ユマの裾がドアに引っかかった。
「しばしお待ちを……」
と、老いた使用人がユマの足元にしゃがんだが、うまく外せないらしく、やきもきしてきたユマは、
(こののろま、蹴り飛ばしてやろうか)
と、思わぬ自分の心中の声に気づき、
「何様だ。俺は……」
と、憮然となった。思えば最近、リンやリュウに対してもまるで自分が主人であるかのように振舞っている。ホウが馬車に轢かれた時、ユマは怒った。何に怒ったのか。今の自分のような人間に対して怒ったのだろう。酷薄なアカアを痛烈に批判しておいて、その事実を忘れている。これほど愚かな人間がいようか。
使用人はユマの表情が険しくなったことを恐れ、顔色を青くしたが、ユマはそれにはかまわずに、無理やり裾を引きちぎると、何も言わずにアカアの部屋を後にした。
部屋に戻ろうと廊下を歩いていたところ、どこからか怒号が聞こえた。思わず足を止めたユマは、目の前の部屋の扉がわずかに開いていることに気づいた。
ほんの小さな好奇心から、ユマは中をのぞいた。リュウか、ホウが何かへまをして上司に叱られていたとすれば、助け舟を出してやろうと思ったが、それは後付けだろう。
机の上に大きな腕を組んで、ふんぞり返る様に座っているのはローファン伯だった。今日は珍しく早い帰宅のようだが、ユマは彼の前に立つ男に気づいて、あっと声を上げそうになった。
(ホルオース……)
それに、もう一人いる。ホルオースの隣でうなだれているのは確かにヌルだ。他家の使者の前で不遜を働いて、ローファン伯に雷を落とされたのか。
(ざまあみろ)
と、ユマはほくそえんだが、待てよ――と、引っ掛かりを覚えた。確かにローファン伯はあの場にいるが、口をきつく結んでおり、逆にホルオースの息が荒く、何やら昂ぶっているようにも見える。となると、先の怒声はホルオースのもので、ヌルは彼に叱声を浴びせられて意気消沈しているのか。
(何か、臭いぞ……)
ユマが嫌な予感を覚えたとき、ホルオースが口を開いた。
「他に術士がいるとは聞いていなかった」
あまりにも憎らしげに言うホルオースに、ユマは小さな驚きを覚えたが、口吻を向けられているヌルは不服であったようで、反論した。
「しくじった――では済まされんぞ。ただでさえ一人で行動することなど滅多に無いというのに。貴様が尻込みさえしなければ、全ては上手くいっていたのだ」
「調子に乗るなよ。お前は私を陥れるために、わざと虚偽の報告を行ったのではないだろうな?」
ヌルの顔がかっと赤くなった。今でも剣を抜きそうな形相の彼を、ローファン伯が手ぶりで制した。
「何、まだ二日ある。既に根回しはしておいた故、問題は無い。今度こそは必ず斬れ」
ローファン伯が低い声で喋ると、何やら凄みがある。
「そちらも抜かりなきよう……」
ホルオースが刺すような視線を投げかけると、ヌルは鼻を鳴らしてそれに応えた。
三人がひとまず話を終えたところで、扉がわずかに揺れた。
「誰だ!」
ヌルが勢いよく部屋の外に飛び出すと、そこには誰もおらず、廊下の向こうの階段を上ってきたリンが、晩餐の支度が出来たことを告げた。