第二章「闘士衝冠」(10)
「あれは何だ?」
市場の一角が妙に賑わっているのを見たユマは、鞭を受けた肩をさすりながら、同乗するリンに声をかけた。ユマを闘技場に迎えに来た路上であり、ヌルは御者の横に腰を落ち着けている。
大きな幕が掲げられ、人々がそれに群がって騒いでいる。
貨幣が舞うように飛び交っているのを見たユマは、
(賭場だな。でも大っぴら過ぎる)
と、思ったが、ふと気づいたことがあり、馬車を止めさせた。
「リン、読んでくれないか?」
垂れ幕に書かれた文字を指差されたリンは、一瞬戸惑った表情を見せたが、
「クゥ、一・二。ユマ、二十四。引き分け、八・九……」
と、ユマの顔を見ずに言った。
「何だ。俺は大穴か。はは……」
それがユマとクゥの闘技に対するオッズであることに気づいたユマは、あまりの落差に空笑いするしかなかった。ただ、自嘲しているわけではない。それだけの技量の差はあって当然だとも思っている。主催者が全体の二割五分を懐に収めるとすれば、ユマの勝ちに賭けられたのは、簡単に計算しても全体の三パーセント前後だろう。
「これでも随分下がった。最初は五十倍はあった」
と、ヌルが感情を消した声で言った。
オッズが変動するということは、クゥが調子を落としたか、ユマに関する情報が流れているということだろう。あまりに差が大きすぎれば掛け金が集まりにくいので、主催者側が適当な情報を流しているのか、あるいは闘技場に出入りしてユマの特訓をのぞいた者がいたのかもしれない。
(これは使える……)
そう思ったユマは、ヌルの方を見て、
「当事者は参加できるのかな?」
と、訊いたが、
「無理だ」
と、即答された。
「だが、代人を立てて自分に賭けるのはよくあることだ」
ユマは馬車に飛び乗ると、そのままの勢いで伯爵邸に帰った。
出迎えたアカアをすり抜けるように屋敷に入ったユマは、自室から貴重な財産である毛布を取ってくると、あたりをきょろきょろと見回した。やがて、リュウの姿を見つけると、
「ちょっと出かけてくる」
と、彼を連れて再び街へと繰り出していった。アカアは何のことかわからずにきょとんとしていたが、リンの顔を見ても、首を横に振るだけで答えを得ることが出来なかった。
「所詮は田舎者ということです」
と、ヌルが忌々しげに吐き捨てた。
毛織物を扱う店で、毛布を売ったところ、金貨四枚を得た。買い叩かれるのを未然に防ぐために、
「俺は、ローファン伯に宿を借りている。実はローファン伯がこの毛布を買い取りたいと言ってきたんだが、どうも買い叩かれているようで、気が乗らない。伯爵以上の金を出すのならここで売っても良い」
と言った。伯爵がいくら出そうとしたのかは最後まで言わなかった。
「毛色が整いすぎて、気味が悪いくらいです」
商人が言ったが、機械が作ったのだから当たり前だ――と、ユマは心中でほくそえんだ。
「大金です。家が一つ買えます」
流石にリュウの言うことは大げさだと思ったが、商人は毛布の他にも、値をつけたように感じる。
――俺はローファン伯に競り勝ったぞ。
とでも言えば――王都では言えないだろうが――ちょっとした箔がつくのかもしれない。ユマはこの商人が後で他の貴族に、毛布を金貨十枚で売ったことを知らない。
さて、賭けである。
ユマはリュウに金貨をつかませて全部自分に賭けるように言い渡したが、リュウは不首尾で帰ってきた。
「餓鬼の来るところじゃない――と、怒鳴られました」
金貨を見せるまでもなく帰ってきたリュウを、ユマは叱る気になれなかった。その場で金貨を見せれば、目の色を変えた主催者によって参加を許可されたかもしれないが、大人の遊びにリュウを無理にねじいれようとする愚かしさに、ユマは今更ながら気づいた。
「いいよ。帰ろう」
一度興味を失えば、未練を残す方ではないユマは、すぐさま帰路についた。万一、試合に負けた時の逃亡資金にすればいい――と、いつものように早い決断をしたユマの前に、蹲っている少年の姿が目に入った。
麻色のマントに身を包んだ、長い銀髪の少年だった。膝を抱くように路傍に腰を下ろし、空を仰いだまま微動だにしない。風が吹くと、白金のような髪がさわざわと揺れる。少年といっても、彼が男物の服を着ているからユマにも判別できたのであって、顔立ちは少女のようだ。
思わず撫でたくなるような形の良い小さな鼻と、くりっとした目が印象的な美童だった。
「伝説の魔導師……」
眼前を通り過ぎる際に少年の口から出た言葉が、自分に向けられていることを知ったユマは、思わず足を止めた。
――関わらんほうが良いぞ……
足を止めた瞬間に、誰かの声が聞こえた気がした。
(ここ数日、耳がおかしいぞ?)
幻聴なのか、源精によるものなのかよくわからないユマは、しかし忠告ともとれるその声に耳を傾けなかった。雑踏の中にいるのだから幻聴も何もあるまい――と思い直した。
銀髪の少年はユマが立ち止まったことに気づくと、空に向けた顔をそのままに、視線だけをユマに移した。少年と目が合ったユマは、一瞬、何かに貫かれるような感覚をおぼえた。それは悪寒にも似ていて、ユマの第六感もこの者と関わることを拒否しているように感じた。
得体のしれない幻聴や、自らの勘とは全く逆に行動するユマは、別に天邪鬼なわけではない。天邪鬼な人間は大抵自分の感性のままに行動している。それが他人を意識した強烈な理性によって捻じ曲げられるだけのことであり、自分自身を意識して意志を変えることは天邪鬼とは呼ばない。だが、この時のユマは、まるで夜中の灯火に羽虫が集まるようにして、銀髪の少年に引き寄せられた。少年の容姿が他を圧倒して優れていたこともある。よく見ると、マントの下に着た服は小奇麗で、彼がただの奴隷や乞食でないことを物語っている。
「今のは俺に言ったのかな?」
ユマが少年から目を離さずに言うと、少年は小さく頷いた。
「伝説の魔導師とか聞こえたんだが……」
少年は再び頷き、賭場に掲げられた垂れ幕を指差し、読み上げた。
「東方出身の伝説の魔導師ユマ。闘花クゥに挑む」
ユマは噴出しそうになった。賭場の主催者はあまりにオッズの開きが激しいので、素性の知れないユマを大きく見せるために苦心したのだろう。それにしても伝説の魔導師とは恐れ入る。
「お前、俺が誰だか知ってるのか?」
少年は更に頷いたが、
「お前じゃない。エイミーだ……です」
と、感情の色を消した声で言った。
「エイミー?」
女のような名前だな――とユマが思うと、エイミーはすっくと立って言った。
「エイミーは、男の子……です」
目に顔を擦り付けんばかりにエイミーはユマを凝視したが、背が小さく、全く届かない。必死に爪先立っている姿が、横で見ていたリュウの笑いを誘った。
目が紅い。ルビーのように見る人を吸い寄せる紅さだ。それを奇妙と感じさせないところに、エイミーの魅力のようなものをユマは感じた。
「エイミーが男の子だと、何が勿体無いの……でしょう?」
と、言われたとき、ユマは自分の耳を疑った。まるで自分の心を読まれているようだ。
――気味が悪い。
そう思うのが普通なのだが、エイミーの美顔が怪しさを妖しさに変えていた。ユマは彼に興味を持った。
「何故、こんなところで天を仰いでるんだ。雲でも数えてるのか?」
ユマはエイミーに対して最初に持った疑問を口にしてみた。
「主に買い物を頼まれた……ました」
エイミーは無理やり言葉使いを改めたような奇妙な喋り方をする。
「でも、お金が足りない」
と、エイミーは巾着のような形をした財布を逆さにしてみせた。金貨七枚が音を立てて落ちた。
「あっ……あっ……」
まるで予想していなかった事態が起こったように、エイミーは慌てて金貨を拾った。金貨の一つが円を描くように転がってからユマの靴に当たった。エイミーは逃げるバッタでも捕まえるような手振りで他の金貨を抑えている。
(おいおい、大丈夫かよ?)
ユマは苦笑しながら、足元の金貨を拾った。よく見てみると、ユマが持つ金貨より傷が少なく、質が良い。
「ふぁ……」
コン――と、金貨を追いかけていたエイミーの顔がユマの膝に当たった。ちょうど鼻を当ててしまったらしく、目を潤ませたエイミーが上目使いで仰ぎ見たとき、
(ヤバイ、変な趣味に目覚めそうだ……)
と、ユマは腋の下が寒くなるのを感じた。
「金が足りないのか。金貨七枚もあって何を買うっていうんだ?」
「箒……」
エイミーは手にした金貨を数え終わると、無造作に財布にしまった。
「ほうき? あのゴミを掃く箒のことか?」
エイミーが頷くのを見たユマは、こいつの主は何と言う贅沢な奴だ――と、呆れた。金貨四枚で家一軒とリュウに言われたユマは、家二件以上の価値がある箒とは魔女箒か何かか――と、想像した。
「主は箒遊びが好き。でもペイル産の最高級のものじゃないと叩き甲斐が無いって……」
ペイル――という地名にユマは混乱しない。西に海を越えたオロと同等の規模を持つ海洋国家であるという話をアカアから既に聞いているからだ。
「箒遊び? それに叩くって……何を?」
「エイミーを、叩くの……です」
(うわ、我ながら鬼畜な想像をしてしまった)
ユマは自分の下衆な一面に嫌気がさしそうだったが、遊びという一語を思い出して、もしかするとエイミーの主は子供なのではないかと思い当たった。
――で、いくら足りないんだ?
と、言い出そうか迷った。善意で恵んでやるというのは、どうにも自分のがらではなく、貸すにしても同じことだ。確かにエイミーを見ているとそうしたくなるが、下手な情けは相手を傷つけるばかりか、憎悪の対象にすらなることがある。
少し考えたユマは、やはりエイミーが哀れになったのか、口を開いた。
「金貨四枚までなら貸そう。ただし、一つ条件がある」
エイミーの目が上がった。そこに歓喜の色が見えなかったことにユマは多少、失望したが、感情表現がいかにも苦手そうなエイミーであるから、それも仕方が無いだろう。あるいはこの美童はあまりに意外な事を言われて驚いているのか――と、想像した。
「俺に返す前に金貨四枚を全額、魔導師ユマの勝利に賭けろ。勝ち分を含めて俺に返してくれるのなら貸してやってもいい。勿論、魔導師様が負けた場合は、返す必要は無い。どうだ?」
言い終わった後、貴族の使い走りに過ぎないだろうエイミーに、そんなことを決定する権利があるはずも無いと思い直し、自分の酔狂癖がまた出た事実に我ながら呆れた。
エイミーが突然、猫が物音に驚くようにして首を上げた。目を大きく広げ、一瞬だけ周囲を見渡した。彼の視線が動くたびに、空気が巻かれて風が吹くようである。心なしか、紅い目がほのかに光ったように見えた。
「おい、どうした?」
ユマは思わずエイミーの視線を追って振り返ったが、そこにあるのは雑踏ばかりで、賭場の垂れ幕が風に引き剥がされる様にして落ちた。
再びエイミーに目をやったとき、ユマは確かに不気味な何かをこの少年に感じた。
エイミーは、うん、うん――と何度も頷くと、少女のように細い手を差し出して、
「金貨……頂戴」
と呟いた。ユマが金貨を渡そうとすると、リュウが慌ててユマの裾を引っ張った。
(相手の素性も知らずに、どうして大金を貸し与えるのですか)
リュウのささやきが聞こえていたのかどうか、エイミーは金貨を渡そうか躊躇いを見せたユマに向かって言った。
「ガオリ侯爵……」
「それがエイミーの主か?」
エイミーはしばし考えるような素振りを見せた後、小さく頷いた。
「そうか。俺はローファン伯に宿を借りている。さっきみたいに金貨を落とさないように、気をつけろよ。じゃあな……」
エイミーが別れ際に、
「ユマ、さよなら……」
といったので、無愛想な少年だが挨拶くらいは出来るようだ――と、ある意味ユマを安心させた。
(ここは普通、『ありがとう』だろうに……)
やはりどこか不思議な少年だ――と思ったユマだったが、互いの望みを果たすための取引をしたのであって、ユマが一方的にエイミーを助けたわけではない。もとよりそのつもりで話を持ちかけたはずなのに、相手に謝意を要求するのはあつかましいと言うべきだろう。ユマという人間が持つ美点の一つが、こういった自分の過ちを素直に認め、相手が正しいと言い切ってしまうことで、今がそうだ。気が弱いわけではない。むしろ自我が強く観察眼に欠けるからこそ、こういったわざとらしい思考回路が必要なのだ。ユマの場合、そこに自らの容儀を改めるという発想が抜けている以上、これは確かに美点であるには違いないが、偽善であるともいえる。
気分を改めたユマが振り返って小さく手を振ると、エイミーは言い直すようにして、再び別れを告げた。
「伝説の魔導師、さよなら……」
ユマは本当に金貨が返ってくるか、少し不安になった。