第二章「闘士衝冠」(7)
キダが現れた場所は、ユマと違って、王都から少し北へ抜けた先にある集落の近くだった。
着の身着のままで集落に入ったキダは、集落の長に保護されたが、その怪しい服装もあってか、冷遇された。
それでもユマとは違って早々に住居を手にした彼は幸運だったが、集落に術士がやってきた折に、邪教の信者であると告発された。ユマが思うに、王都は異教に対しても寛容であるから、キダの持つ知識がその術士の縄張り意識を刺激したのだろう。
既にキダは源精に憑かれていたが、弁明の無駄を早々と悟った彼は、牢に放り込まれる前に集落を出ることを決意した。南に大きな都市があることを知ると、衣服を売って食を調達し、王都を目指して旅に出た。この点、キダの逞しい行動力はユマのそれを凌駕していたが、それだけ危険と遭遇する確率も高い。道中で夜盗に遭ったのだ。身包みを剥がされるだけでは済まず、彼は奴隷市場に売られた。
地獄に落とされたようなキダの、それからの生活は凄惨だった。犬畜生のように檻に入れられて陳列される日々である。食事をするのも用を足すのもその中で行ったため、悪臭で気が狂いそうになった。食事と言ってもジャガイモを一切れ口にすれば良い方で、無造作に檻に放り込まれるそれに奴隷どもが群がり、壮絶な争いとなった。痩せこけた少年から食を奪い取ったキダは、
「許せ……」
といって、泣きながらジャガイモを齧った。その内、糞の臭いもしなくなった。
ある日、やはり食事を巡って壮絶な乱闘となった。あたりの奴隷を殴り飛ばしてジャガイモを手にしたキダは、
「畜生め。畜生だ、俺は。畜生に繋がれた畜生だ!」
といって、檻の外に立つ看守に向かってジャガイモを投げつけた。
「剣をよこせ。お前ら全員、斬り殺してやる!」
看守はキダを引きずり出すと、数人でよってたかって殴りつけた。それでもキダは叫ぶことを止めない。だが、彼の震えるような怒りは一人の人間の興味を惹いた。
クゥである。
奴隷を物色するために市場に来ていた彼女は、しばらくの間、物珍しげにキダを眺めていたが、何を思ったのか、彼の方へと足を運び、
「この者を……」
と言って、キダを買った。彼はその日からフェペス家の所有となった。
クゥがキダに興味を抱いたのは、彼に剣の心得があることを見抜いたからだ。彼女がそのことを問うと、
「はっ、よくわかったな……」
と、キダは唾を吐いた。すぐさま近くにいた従者によって叩き伏せられたのは、言うまでもない。
クゥはキダの気性の荒さを買っているようだった。彼が剣をやると聞いて、
「ふふ、私に勝ったら、開放してあげる……」
と、冗談紛れに言った。闘士としての自信と誇りが、そう言わせるのだろう。
キダはこれを真に受けた。
彼はクゥに気に入られていたせいか、彼女の護衛にまわされた。最初に剣を持たせたとき、彼が奴隷の長を見事に叩き伏せたからだ。
それから数日も経たない間に、キダはクゥに牙をむいた。闘技場から出てくる彼女を襲ったのだ。喉元に剣を突きつければ、それで勝ち――と、思っていたのだが、彼はしくじった。クゥの力量を見誤ったというより、あまりにも無防備に背を向けるクゥに対して、一瞬だけ躊躇してしまった。
キダが剣を突き出したのは、クゥが振り返った後だった。彼の放った剣刃はいとも容易くかわされ、気づけば地に伏した自分の喉下に剣先が伸びてきた。
「無礼者!」
さすがのクゥも、飼い犬に手を噛まれたとあっては、キダを許すわけにはいかなかった。彼は奴隷の中でも最下級の身分に落とされた。それだけではなく、罰も与えられた。
「罰?」
と、ユマが話の腰を折った。
「これさ……」
キダは裾をまくって自分の踵を見せた。朱色の刺青が施されている。
「あの女の魔術だよ。主人の意に反して走れば踵が砕ける。そういうものらしい。お前はホルオースが俺を監視していると思っているようだが、もともと無理な話なんだよ」
「まさか……」
最初はキダもそう思っていたが、意を決して夜中に脱走しようとしたところ、少し走ったところで踵が裂けるような痛みに襲われた。
この時、キダはクゥに無用の情けをかけた自分を激しく悔やんだ。クゥの剣術は優れているが、この国の剣術自体がまだ体系化とは程遠く、どこか荒い。キダがクゥに勝つ見込みは十分にあった。だが、もうクゥに挑む機会は二度と来ない。
それから、キダの目から生気が消えた。クゥは意気消沈した彼への興味を失ったらしく、やがて声をかけることもなくなったが、
「そこにお前が現れた」
と言ったとき、キダの目が光った。ユマが王都を訪れたとき、クゥに追従していたキダは、車上にユマと思しき人物を見つけたが、確信を持てず、そもそも奴隷の身分である以上、気安く他家の者に声をかけられない。だが、幸運にもユマは闘技場にあらわれた。キダは、自らにとってこれが最後の幸運であるような気がした。
(こいつ、やっぱりしぶといなぁ)
ユマはキダの粘り強さに感嘆しそうになった。自分ではとてもキダのようには出来ない。
「まだ動かせんのか?」
沈黙したままの竜機に痺れをきらしたヌルの声が響くと同時に、二人の体験談は打ち切られた。
「動かすも何も、ハンドルすらないじゃんよ。これ、壊れているんじゃないか?」
ユマは雑談をごまかすように声を上げた。するとホルオースが寄ってきて、
「ハンドルが何かは解しかねますが……どう動かすかは術士ごとに違います」
と、奇妙なことを言った。
「要は想像です」
術士にも色々な流派があって、例えば火術士は火の力で竜機を動かそうとするため、火術を司る両手を操縦席に埋めるという。他にも土術士は足で操縦するという。なるほどこの操縦席を覆う柔らかい粘土のような物質だとそれも出来ようが、ユマは術士ではない。
「まずはやってみて下さい。クゥ様が貴方を術士であると仰いましたことに偽りはないはずです」
ホルオースが何やら自信ありげに言うので、ユマは閉口してしまった。
彼はその場に座り込むと、
「これが巨人だったらなぁ……」
と呟いた。キダが小さく嗤った。
「懐かしいな。お前、猿みたいにやってたからな」
「そんな、猿に全戦全勝してたゴリラはどいつだよ?」
ユマが言う巨人とは無論、言葉どおりの意味ではなく、アカアから教わったことでもない。彼らが神隠しに遭う前、元の世界で遊んでいたビデオゲームの略称である。「慈悲なき巨人」という題名で、巨大なロボットに搭乗したパイロットに扮するアクションゲームだ。球形の筐体の中に専用の操縦席があり、前方と左右、それに上方の液晶スクリーンに操縦席からの視点が映し出される。ちなみに、ユマが悪事に手を染めるきっかけとなった話は、この筐体で賭けを行った際に、負けたユマがキダに持ちかけられたものだ。
懐かしい――と、キダは言ったが、二人が最後に巨人で遊んでから一月も経っていない。それほど互いに多くの体験を、この短期間に重ねてきたわけで、あの頃には戻れないという現状が、彼らの心に水を落としたのかもしれない。
「想像……ねぇ」
ユマが思い出したのは、かつて賭けを行ったキダとの対戦だ。あれから自分の人生が狂い始めたような気がする。その時の対戦で勝利していれば、キダは老人から金を騙し取るような悪事に自分を誘うようなことはなかったかもしれない――というのは、ユマの都合の良い想像だろう。
(あの時は開幕でこけたんだ……)
ゲームが始まるや否や、いつもはしくじるはずのない巨人を発進させる操作を誤り、それが後まで尾をひいて、キダから主導権を奪い取ることが出来なかった。
――何か、賭けようか?
というキダの台詞が重圧となり、操縦桿を手に取るユマの判断力を鈍らせたに過ぎない。
(もっと、こう……)
ユマは虚空を見ながら、その場面を再現した。既に自分がどのような状況に置かれているかは、忘れている。
操縦桿を手前に引いて、ゆっくりと巨人を立たせる。
(焦るな。重心が安定するまで動いちゃダメだ)
少し待ってからユマは操縦桿を前に倒した。キダとの対戦ではここで焦って転倒してしまった。その隙に背後に回られてキダに攻撃されたのだ。
次に左右の液晶に照らし出されたレーダーを確認し、索敵を行う。巨人は歩き始めている。ユマには、背後を取ろうと回り込んでいるキダの姿がありありと見えた。
と、その時、
「ユマ。おい、聞いてるのか? ユマぁ!」
キダに揺すられて初めてユマは我にかえった。視界が大きく揺れている。
ユマは、自分の乗る竜機が歩き出していることに気づいた。
「おお、ははは……こりゃあ、すげえや!」
よく見ると、自分の手は操縦桿を握ったままだ。粘土のような操縦席の内壁が盛り上がってユマの望む姿を形作っている。この粘土のような物質は人の意思を感じ取る力があり、ユマが操作しやすい形を念じれば、それに合わせて姿を変えるのではないか。術士によって乗り方が違うというのはそういうことで、また、術士と竜機の間で意思の伝達を行うのは、魔力などという抽象的な力ではなく、人の意思を司る源精なのではないか――と、ユマは揺れる操縦席で想像した。
「おや、動きましたな……」
と、ホルオースが言う前に、既にヌルは驚愕の表情を浮かべていた。竜機がうなるような音を上げて立ったかと思えば、すぐに歩き出し、果てには軽快に走り出したのだ。ユマとキダは操縦席で子供のように歓声を上げている。その姿からも、彼らが竜機を動かすのが初めてであることは疑いようがない。
「東方の術士は、なるほど得体が知れませんな」
ホルオースはヌルに言った。彼がユマと決闘するクゥの配下であることを考えると、敵であるユマを応援するのは奇妙だろう。ただ乗りこなすだけでは、クゥには及ばない――という自信があるのだろうか。
「これで、試合になります」
といったところで、ヌルは彼の思惑を理解できた。クゥが負けることは万に一つもありえない。要は試合にこぎつけさえすれば、フェペス家は容易く故地を奪回できる。
昨夜、ホルオースが不遜にもローファン伯に突きつけた条件であるティエレンの地は、王都から北東へ百公里ほど離れた寂れた街で、伯爵にすればこれを失ったところで痛くも痒くもない。
だが、闘技に光王から賜った土地を賭けるというのは異様と呼べるもので、光王が試合の許可を出したとなると、ローファン伯は死ぬ気でティエレンを守らなければならなくなる。ローファン伯がそれを理解していれば、今頃は息のかかった者が宮廷で光王に試合の中止を言上している頃だろうが、ヌルの見るところ、彼は今回の試合を機にフェペス家の息の根を止めようとしているようにも見える。
(あのような小家にはかまいまするな!)
身分の違いもあって、ヌルは政治向きのことをローファン伯に告げることが出来ない。どう考えてもこちら側のリスクが高すぎるように思える。フェペス家は勝てば故地を得、負ければクゥが奴隷の身分に落とされる。だが、ヌルの仕えるヤム家は負ければ土地を失うが、勝っても得るものはほとんどない。この度の試合は、道を歩く者が小石に喧嘩を売られたに等しく、ヌルとしては中止するに越したことはない。この点、皮肉にも彼とユマの目的は一致していた。勿論、両者ともそれに気づいてはいない。
ユマはしばらく竜機で闘技場を歩き回ったが、キダと交代すると、竜機はぴくりとも動かなくなった。
「嫌われたな」
と、ユマが笑いながら言うと、キダは不愉快そうに鼻を鳴らした。
――ほほ……
誰かの笑声が聞こえた気がしたユマは、背後を振り返った。小さな泉が、よどんだ水を漂わせている。
「お嬢様が屋敷を抜け出してきたかな?」
あのアカアならやりかねない――と、ユマは小さく笑った。お嬢様――と、聞いてキダの表情が曇った。彼にとってお嬢様と呼ぶべき存在は、クゥなのだ。