第二章「闘士衝冠」(4)
「ええっ――! 試合うのですか? あの『闘花』と……」
ユマが事の顛末を告げると、アカアは闘技場を楽しみにしていた感情が全て吹き飛んだようだった。
「成り行きで、な……」
ユマが歯切れ悪くそう言うと、それを横目で見ていたヌルが、ふん――と、鼻を鳴らした。
「あのクゥに挑戦なさるほどですから、先生はよほど闘技に自信がおありなのでしょう……」
と、いらぬことを言ったときは、額の皮の下の血管がぶちきれるかと思ったが、闘技場に立つ羽目になったのは事実だ。
「あの女はそんなに強いのか?」
「百戦百勝です」
アカアは上ずった口調で言った。興奮してきたらしい。
「百戦?」
「いえ、言い過ぎました。確か……」
「三十二戦全勝だ」
と、ヌルが言った。
闘技がどのようなものか、ユマは具体的には知らない。ただ、クゥはやはり見かけどおりの華奢な女ではないらしい。三十二回防衛しているボクシングの国内チャンプが相手だと想像して、ユマは自分が浅はかな幻想を抱いていた愚かさを知った。
「強いのか?」
「ただの女子が勝ち続けられるほど、闘技は甘くない」
ヌルはユマの甘い観測を見透かしたように言った。
「竜機戦と言っていたが、それはどんなものかな?」
ユマは髭の薄い顎を撫でた。何だ、そんなことも知らずに試合を受けたのか――と、ヌルは侮蔑の表情をあらわし、アカアは呆れた。
「竜機というのは――」
と、お喋り好きなアカアが説明を始めた。
ユマは竜機戦について、騎馬戦や戦車戦を思い浮かべたが、結果としてはそれにやや近く、しかし想像を超えたものだった。
竜機とは、確かに乗り物ではあるが、車輪のついた戦車ではなく、術の施された特殊な装甲のことらしい。ものによっては馬車のように大きいと言われて、ユマはまさかロボットじゃないだろうな――と、苦笑いしたが、彼女の説明を聞く限りその通りに解すしかない。
ユマにとって致命的だったのは、竜機が術士ではないと扱えないという事実だ。ユマは術士というものを想像でしか知らないが、その術士ではないユマに対して、何故、このような理不尽な条件を、クゥがつけてきたのか。
「冠のせいです」
と、車中でユマに言ったのはリンだった。ユマのつけている五位冠は、術士がかぶる類のものらしく、クゥはそれを見てユマを術士と勘違いしたのだろう――と、彼女は付け加えた。アカアは確かにユマを術士としてとらえていたが、彼女の厚意が裏目に出た。元はといえばユマが原因であることは言うまでもない。
リンの目に不安の色が浮かんでいる。アカアはお祭り気分であり、ヌルは対岸の火とでも言わんばかりであるから、現時点で心からユマの身を案じているように見えるのは、リンだけかもしれない。
(こりゃあ、まずった……)
どうにかして試合を取り消さなければならない。ユマが術士ではなく、竜機に乗れないとわかれば、
――では、剣にてお相手しよう。
と言い出されかねない。二対一ならまだ勝ち目があるかもしれないが、向こうがこちらと人数を合わせた場合、自分は一瞬で死ねる――と、ユマは悪寒が走るのを感じた。
伯爵邸に戻ると、一乗の豪奢な馬車が庭先に止められていた。
「お父様がお帰りになられたのだわ」
アカアは久しぶりに父と対面できるのを喜んだ。そんな彼女の表情からは、ローファン伯が気難しい男だという想像はできない。彼女のような明るさを持つ父であることを、ユマは願った。
屋敷全体が哄笑で満たされたかのようだった。その豪快な笑声の主はローファン伯その人である。
「フェペスの女に喧嘩を売ったか。アカアの言う通り、面白い御客人よ!」
再び、哄笑。
髭の濃い顔だ。よく整えられた髭で、特に鼻下のそれに気品を感じる。アカアの目元は父に似たのか、大きな目をしていて、全体的に顔が四角い。よく張った顎が特徴の大柄な男だ。歳は、まだ五十を過ぎていまい。
ローファン伯が自分に好感を持っていると知って、ユマは安堵した。ひとつの危機を乗り越えたと思ったからだ。だが、ローファン伯の庇護を得ることは彼の初期の目的であり、現在の困難は何も解決していない。ローファン伯がクゥと対立したユマを称賛するので、かえって試合の棄権を言い出しづらくなった。
「ヤムとは何のことでしょうか?」
まずは夕食の席を利用して、遠まわしに話を進めなければならない。ただし、ローファン伯が明日の晩餐にもユマを参加させると決まったわけでもなく、話を切り出すとすれば今夜しかない。
「ヤムは我が家の姓よ」
と、ローファン伯は大きな声で言った。なるほど、伯爵を名乗るにふさわしい豪快な人だ。アカアのお転婆な一面は十分に彼から受け継いだものだろう。
「なるほど……」
ユマはフェペス家との怨恨については触れなかった。ティエリア・ザリというのが何なのかも知りたかったが、ローファン伯の機嫌を損ねてしまう可能性があるし、あとでリンにでも聞こうと思ったからだ。
ちなみに、ローファン伯の姓がヤムというのは、ローファンという氏は飽くまで封地名で、普通、封地を持つ貴族の者は名と姓と氏とを持っている。アカアの場合はローファンに封じられたヤムの家のアカアという意味で、アカア・ヤム・ローファンが彼女の正式な氏名だ。
ユマは、すると三つ目の名前を持たないクゥはどうなるのか――と思った。クゥ・フェペスのクゥが名なのだろうが、フェペスが姓であるのか、地名であるのかわからない。前者であれば彼女は領地を持たない下級貴族であり、後者であれば姓を持たずに領地を持つ新参の貴族かもしれない――と、想像を働かせた。後で明らかになったことは、クゥの場合は前者であるということだ。しかも彼女の家を没落させたのは他ならぬ先代のヤム家当主であるという。
話をもどす。
ユマはどうにか試合を棄権する方向に話を持ってゆかなければならない。
(まだ、俺には車がある)
車をローファン伯に献上するという意味だ。解体してその機能を分析すれば、オロ王国で産業革命すら起こしかねない技術と文明の結晶である。ローファン伯がどのような男であれ、それを欲せぬはずが無く、ユマはこれをだしに試合の棄権と、木田の救出の両方を掛け合うつもりだ。
ちょうど、話が車の話題になった。ローファン伯はあらかじめ聞き知っていたらしく、
「ぜひともこの目で見てみたい」
と、大きな目をぎょろりと向けて言った。
――見るだけでなく、実際に乗せて差し上げましょう。
まずはこの台詞から切り出すつもりだったユマは、喉元まで声がでかかったところで止まった。
止まったのは彼ではなく、その場の空気だった。近臣の者が小走りで入室すると、何やらローファン伯に耳打ちした。
(嫌な予感がする……)
こういうときの嫌な予感はよく当たる――と、思った矢先にローファン伯から声がかかった。
「ユマ殿。フェペス家の者が汝に会いたいそうだ。私も同席するゆえ、食事後にご足労願えまいか?」
よく通る声だ。ユマは出鼻をくじかれたような気分になったが、
(待てよ。木田かもしれない)
と、思い直し、「喜んで」と即答を与えた。
屋敷に太陽が飛び込んできた――と表現したくなるようなローファン伯の登場だったが、からからと笑みのこぼれる夕食の席で、ユマ一人だけが沈鬱な表情を隠さなかった。横で手洗い用の水を汲んで立っているリンだけが、人知れずユマの空気に同調していた。