第九章「ジェヴェとジェベ」(4)
チェビオーセンの歴史でジェベほど聡明で思慮深い男はいないのではないか。宰相ジェベの治世に対する民の評判はこのようなものである。結果からみれば、彼は聡明ではあっても思慮深くはなかったとも言えなくもないが、それはさすがに酷だろう。
とにかく、ジェベの評判がすこぶる良い。ジェベに欠点があるとすれば、彼は自分が民の尊敬を得る事でこれが王に向くだろうと思ったことである。
頭ではわかっている。輔弼であるジェベが有能であればあるほど、民は王を軽んじ、彼が王位を継ぐべきであったと噂するのである。ジェベはそれを避けるためにあらゆる手を尽くした。だが、人の性分には限界がある。彼は王のために自らを汚すことまではできなかった。
新たなチェビ王の三年夏、餓えた部族が侵入し領内を荒らしまわった。ジェベは兵を引きつれてこれを迎え撃った。
チェビ王はまだ十歳である。いくらチェビオーセンが勇猛な部族であるとはいえ、戦場に立てるはずもない。しかしながら王が座して待つ伝統などこの部族にはない。自然、陣の後方に待機し、勝利が揺るがなくなったところで王が馬を走らせるという形になる。
この頃にはチェビ王が父に似て騎射の才に恵まれていることは、周囲も知るところであった。それだけに誰にも予想のつかぬことが起きたのである。
ジェベは将器としてはまずまずといったところで、飽くまで正攻法にこだわる性分である。奇策は死と隣り合わせであり、主に防衛においては負けなければ勝ちという哲学に終始する。
それ故か、彼の采配には奇抜なところはなく、周囲の武人も最善でこそないが悪くはないと首肯できる内容であった。自分に戦の嗅覚が全く備わっていないことを理解している点においては、ジェベは実に危なげない武人といえた。
オロ王国を含むこの大陸の人々は、いずれも魔術というユマが元いた世界とは異質の文明に属している。文明の衝突とも言える戦争においても、それは如実に表れる。だが、ジェベが属すチェビオーセンなどのローファン地方の部族において、戦争における魔術は飽くまで「奇」に属する。これが「正」に属するのはオロ王国の軍隊においてであるが、今の時点では彼らも魔術を主体として――つまりは魔術そのものを独立した戦力として――見ているわけではない。竜機兵団や魔術を用いる部隊が当然の如く軍に組み込まれてはいても、魔術は飽くまで戦闘を補助するものに過ぎない。簡単に言えば今現在のオロ王国では魔術は「正」に組み込まれているが、魔術そのものは「正」ではない。これが実現する時代は目前に迫っているが、それを予感している者はまだいない。
さて、ジェベであるが、彼は戦闘に有利な地形に敵をおびき出すことに成功した。元よりチェビオーセンの庭である。何の戦略もなしに侵入してきた部族に不利な状態で戦う羽目になるほど落ちぶれてはいない。
戦いは終始チェビオーセン側が優勢であった。数で勝るチェビオーセンは、統制の取れぬ敵を囲み、伐ち、鹵獲した。包囲戦は敵が死に物狂いで戦わぬよう、一方を空けるのが定石である。潰走した兵ほど叩きやすい相手はいない。ジェベはこれ以上ないほど完璧に、チェビ王の初陣を勝利で飾る準備を整えた。
「よくやった、ジェベよ」
チェビ王は前線で指揮するジェベに早過ぎる褒詞を与えた。彼は大人に庇護されるだけの気弱な王ではない。チェビオーセンの名に恥じぬ勇猛さを感じさせ、そして何より狩りを好んだ。狩りと戦は布陣からしてよく似ている。戦の上手い君主は例外なく狩りが上手い。
戦場の空気に引きずられるようにして、誰もが新たな時代の到来を予感した。この空気すら全てジェベが整えたといってよい。
そして、ついにチェビ王が陣を進める段になった時、不幸な事故は起きた。
突然、凛々しい少年王の跨る馬が暴れはじめたのである。常軌を逸した狂い様で、最悪、王の生命に関わると判断した近臣が馬を突き殺さなければおさまらぬほどであった。
馬術の巧みさで大人達に舌を巻かせた少年王といえども、荒れ狂う馬に振り回されて、ついには落馬した。
背なを強かに打ったためか、少年は地面でのたうちまわった。無様に喚き散らし、全身を貫く痛みに喘いだ。
容易い追撃戦といえどもジェベのお膳立てがあまりにも完璧であったがために、王が動かねば陣も動かぬという様であった。ジェベに旗鼓の才があれば、王を無視して追撃を行っていただろうか。彼が王の傍にいたのならそれも出来ただろう。だが、この時ジェベはまだチェビ王の落馬を知らなかった。
狼狽した近臣が抱え上げた頃には、勝機は既に去っていた。そのことに気づいたチェビ王はあからさまに落胆し、悔し涙を流した。
戦には勝った。だが、近臣の顔は一様に暗い。
前チェビ王の頃ならば、「あの駄馬め、生意気にも儂に逆らいおったわ」と一笑に付して終わりである。勿論、馬丁は処刑されるだろうが、今回はたまたま天運が敵にあったと、誰も暗さを引きずらずに勝利の美酒に酔えたのである。
だが、これは新たに立ったチェビ王の初陣であった。初陣は出れば良いというものではない。勝たねば意味がないのである。その上、何よりも落馬というのが悪かった。チェビ王の落馬は周囲に嫌でも先王の死を想起させた。
戦には大勝したがチェビ王が参戦した追撃には失敗した。果たしてチェビ王は勝ったのか、負けたのか、どちらとも取れるのなら勝ったことにすればよい。それで全て丸く収まるのである。
――善き王だ。勢いだけで既に敵を伐った。落馬は大成の予兆である。
ジェベに悪知恵が働けば、このような屁理屈で暗澹たる空気を流し切り、少年王の名誉に傷をつけずに済んだかもしれない。だが、彼はそうはしなかった。己が失敗を認めたのである。
「私の不徳で王に恥をかかせてしまった。全て私の責任である」
などと、王がいる前で言い放ったのである。文句があるなら全て自分に言えということだろう。声が上がれば喜んで責任を取るつもりだったが、部族の中で誰よりも尊敬を集めるジェベである。誰が正面から彼をなじれようか。ジェベの思惑とは裏腹に、誰も何も言い出せぬ圧が一族全体を支配した。
チェビ王もこうなればジェベを責めることはできない。元より実父のように尊敬する人である。
「よい、ジェベよ。お前に罪はない。儂も今日から馬の扱いに励むよ」
こう言わざるを得ない。ジェベに稚気ほどの悪意もなかったにせよ、周囲からはジェベが王を圧したように見えなくもなかった。この時、二人の関係に亀裂が入ったかどうかは本人にも知る由がないだろう。だが、周囲からはそう見えたというのは、二人の立場を考えれば深刻であった。つまり、この問題はこれだけでは終わらなかった。
馬丁が処刑され、チェビ王の初陣がすっかり忘れ去られた頃、ジェベの耳に恐ろしい情報が届けられた。
彼が先の戦いで持った疑問は、何故王の馬が暴走したかである。それが信じられぬほどに、ジェベの用意は周到であったと言ってよい。密かに調査したところ、先王の弟――つまりはジェベにとって実の兄の一人がチェビ王の乗馬の蹄に細工をしたことがわかった。理由は考えずともわかった。ジェベが王位を蹴り、現チェビ王の即位が妥当であると言った時にあからさまに嫌な顔をした男である。ジェベに対するよくない噂の出所を辿れば、大抵は彼に行きついた。ジェベは心中で軽蔑しているこの兄を黙殺してきたが、今回ばかりは度を超している。
ジェベは決して無能ではない。だが、この時ばかりは無能でよかった。いや、無能を装えばよかったのである。
彼は宮中で兄とすれ違う際、こう囁いた。
「先王は、戦の前日には馬と共に寝、馬と共に起き、戦場に赴きました。寝ている間に馬に触れようとする者がいれば、必ず斬り捨てられていたでしょう。今の王にもそのように勧めた方がよろしいか?」
王に知れれば処刑は免れないぞと、脅したのである。
――何のことだ?
そう返されれば、ジェベは含みのある微笑で返して終わらせるつもりであった。だが、兄はジェベが最低限期待したほどの胆力すら持ち合わせていなかったようで、唇を小刻みに震わせながら、顔を蒼白にしてその場で立ち尽くした。
「わ、私ではない……私ではないぞ! 言いがかりはよせ!! 私を嵌めるつもりかッ!!」
突然喚き散らした兄に、周囲が唖然となった。彼はそのまま逃げるように宮殿から駆け去ったが、後にチェビ王からこの件について尋ねられたジェベは閉口する他なかった。
後日、チェビ王が兄を呼び出して直接話をしたということを耳にしたが、その場にいた近臣によれば、別段変わったことのない会話であったと聞いてジェベは安堵した。
しかしながら、チェビ王とジェベの間に亀裂が入ったとすれば、この時であった。