第九章「ジェヴェとジェベ」(3)
ジェベが王都リヴォンの暖かい風に触れたのは二十七歳の頃である。
王都の喧騒は、最初ジェベの傷心を無節操にえぐり続けたが、三日もすれば自分はこの街を汚す塵のひと欠片に過ぎないのだと思い知らされた。
「あんた、王都は初めてだろう? どこから来なすったんで?」
広場の露天商などは歩き方ひとつで田舎者を見分けるらしく、ジェベもよく声をかけられた。
「はは、東の方です」
「東の――どのあたり?」
などと話を掘り下げられると、ジェベは苦笑して「名も無い田舎ですよ。田舎」と返す他ない。
――ローファンです。ローファンより更に東のチェビオーセンです。
そう答えられるなら楽なのだが、ジェベには自らの出自を明かせぬ事情があった。
チェビオーセンといえば、オロ王国がローファン地方を版図に加える以前は、ローファンの雄たる部族であった。それが、東西に分かれたオロ王国が統一して以後、拡大主義に傾いた王国によって辺境のまた辺境へと追いやられていった。ローファン地方で武勇を振るっていたのは、内乱で武功を上げたヤム家である。いつの間にやら、この地方の盟主を意味するローファンという言葉は、外からやってきた侵略者であるヤム家の別称となった。
ジェベが生まれた頃のチェビオーセンは往時の隆盛など影も見えないほどに縮小していた。
いや、そもそもこの頃のチェビオーセンは、オロ王国にしてみれば滅亡した部族である。王都の人にチェビオーセンについて訊けば、博識な人ならば二代前のローファン伯によって滅ぼされた部族と答えるだろう。
勇猛果敢なチェビオーセンは確かに先々代ローファン伯との戦いで完膚なきまでに粉砕されたが、その血統が途絶えたわけではなく、ローファン東部の覇権を失って以後は細々と割拠する部族のひとつに成り下がっていた。帝国というものは歴史を記憶する時に呆れるほど大雑把になることがあり、オーセンとは本来「〇〇族」や「〇〇一家」といった接尾語に過ぎないのだが、オロ人はこれを勝手に「蛮族」と訳した。
さて、ジェベはそのチェビオーセンにおいて、王家の嫡流に生まれた。だが、チェビ王となったのは二十歳も年上の彼の兄だった。
本来、チェビオーセンは末子相続である。だが、先代が死んだ頃、末子であるジェベはまだ母親の胎内にあった。他の兄弟もいたが、部族の有力者は長兄を王に推薦した。それでもまだ二十歳であった。
ジェベは物心ついてしばらく経った頃に、自分がチェビ王になり損ねたことを知ったが、それを悔やんだりはしなかった。時々オロ王国から来る商人から買い求めた書物を読むのが好きで、王になれば馬に乗って剣を振るわねばならず、読書の時間を削られるのは御免だと思ったからだ。
峻嶮な山々に囲まれたまま、ジェベは読書にかまけて一生を終えるはずであった。
転機は彼が二十二歳の頃に訪れた。長兄――つまりはチェビ王が死んだのである。
長兄は部族の長としてはいささか軽薄な男だった。狩りが好きで、これは歴代のチェビ王全てがそうだったのだが、長兄の狩り好きは常軌を逸していた。武勇に優れ、近隣部族が侵入してきたら矢のように飛び出して瞬く間に撃退した。そこまでは良かった。だが、ある戦闘で股に矢傷を負った彼は、近臣の忠言に耳を貸さず、狩りを敢行した。
長兄が馬ごと崖から転落して死んだと聞かされた時、ジェベは「兄上らしい最後だなぁ」と思っただけであった。だが、一族の長の急死である。一悶着起こらぬはずがない。
「俺はやらんぞ。王はやらん」
繰り返すが、チェビ王は末子相続である。長兄には子が一人いるが、父親の人望が薄いためか、一族の有力者は博学なジェベに期待した。チェビオーセンは勇猛さを好むが、節度を超えた長兄のような王はこりごりだとでも思ったのだろう。ジェベはその思惑を一蹴した。
長兄の評判は確かによろしくなかった。だが彼は一族に直接危機をもたらしたわけではない。部族の中で武威を示して自己満足することはあっても、他の部族に対して無駄な争いを仕掛けたこともなかった。ここで自分が王位を継げば、チェビオーセンは長兄が率いていた頃よりも悪くなる。ジェベが愚かだからではない。むしろ彼は自分は長兄より善き王になるだろうことを自負している。だが、長兄には子がいるのである。七歳にもなる息子が。
「生まれているのなら、子が継げばよいではないか」
まるで自分のことをあてこするように、ジェベは長老たちに向けて言い放った。
ジェベに固辞されては、他の兄たちも彼に倣う他なかった。もしジェベが王位に手をかけたなら、彼らはどう動いただろうか。ジェベは賢明であった。
ともあれ、長老たちも譲らなかった。七歳の王では一族を率いることはできないのだから、ジェベに輔弼をして欲しいと言うのだ。さすがのジェベもこれには折れた。
「七年だけだ。それ以上はやらんぞ」
王が十四歳になれば自分は引退すると言ったのである。
七年という歳月が忍耐に足るかどうかは人によるだろう。だがジェベの不幸は、その忍耐を王が持ち合わせていないことにあった。
新チェビ王は利発な子であった。ジェベに対して実父のように敬い、叔父が知識を披露した時は貪欲に学んだ。つい「父上」と間違って呼ぶようにすらなった。
ある日、長老の一人がジェベに忠告した。
「お前は王の父親ではない。忘れるなよ」
「それは勿論――」
とるに足らぬことを訊く――とジェベが首を傾げていると、長老の目が潰した藁の茎のように細くなった。
「お前が父親のつもりでなくとも、王がお前を父だと思うようになれば災禍となるぞ」
博学で通るジェベであったが、長老の言うことが呑み込めない。王と距離を取れということなのだろうか。それならば十分にわきまえているつもりだ。
「お前にはどうにもならぬことかも知れぬがな……」
長老の瞳に憐れみの光が灯った。ジェベは何度もこの瞳を思い出すことになるが、記憶と共に沸き立つ感情は後悔ではなく、長老の言葉のとおり、どうにもならぬことへの諦念であった。