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貴く翔べ  作者: 風雷
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第九章「ジェヴェとジェベ」(2)

 穏やかながらも、どこか喧噪の余韻を引きずったような夜である。


(やめておくか?)


 そう思い立ち止まる男の姿は、端から見れば道に迷っているようでもある。

 まとめるのに苦労しそうな、癖のある赤髪である。手入れなどほとんど考えていないのか、無造作に後ろに縛っているだけだが、すらりとした長身であるためか、不思議と不潔感が無い。

 ジェヴェは自分の予感を信頼する方である。今夜は何かがある。だが不安は感じない。

 フェペス家の手を離れてからのティエレンは、昼夜を問わず騒がしく、そして不気味な街だった。領主は暴力で街を支配し、市民同士もまた暴力で己が身を守った。

 誰にも、どうにもできない。力に劣る者達は、そう諦める他なかった。どうあがいても、死ぬときは死ぬ。愚か者の巻き添えを食わぬように生きてゆければ上々である――と。

 そこに我が物顔で乗り込んできた若者がいた。フェペスでもローファンでもなく、聞いたこともない遠い地から現れた謎の貴人チルーク・ティエル――彼は暴力で街を支配しようとしたアルンを叩き伏せた後、童貞が娼婦に聴かせる夢物語のようなことを高らかに言ってのけた。


(ふざけろ)


 鼻で笑う。だが、ジェヴェは同時に、あのユマという男に不思議を感じてもいた。その正体が何であるのか、見定める楽しみを覚えつつあった。

 確かに、何処とはいわずうるさい夜である。

 そんな中、気づけば間から微かに光の漏れる扉の前にいた。

 一度、振り返る。誰もいない。

 耳を澄ます。喧噪などどこにも無い、静かな夜ではないか。と、その時――


「ありゃ? 本当に帰って来たよ」


 扉の向こうから姿を現した女は、ことさらに喜んでみせたが、ジェヴェが無言で家に立ち入る刹那、微かに目を伏せた。


「うん? 客人がいたな」


 どことなく違和感がある。部屋の空気が違うというよりは、チタータの雰囲気が以前と少し違う。


「そうね。誰だと思う?」


 ジェヴェは、チタータの罠を仕掛けた悪戯っ子のような顔を愛でるつもりはないらしい。かつてユマに見せた愛想の良さなど忘れたようである。


「ヌークから聞いているよ。領主をたらし込んだそうだね」

「人聞きの悪いことを言わないで頂戴。困っていたから宿を提供しただけよ。元はと言えば誰かさんがお留守にするのが悪いんじゃあないのかい?」

「そうか。意外と甲斐性がないのだな」

「それは誰のことかしら?」


 チタータが笑うと、部屋の中に花びらが弾けるようである。それには敵わぬと言った風に、ジェヴェの口元には苦みを含んだ笑みが浮かんだ。


「知ってるよ。アルンが暴れ回ってる時にヌークがうろちょろしてたの、あんたの差し金でしょう?」

「さあね。知らんよ」


 チタータの勘の良さが不満なのか、ジェヴェの声色がわずかに沈んだ。この話は二度とするな。言外にそう言っている。


「君が見るに、ユマはどういう男だった?」

「あのねぇ、あたしは何日か前に死ぬ思いをしたんだよ。偉そうに訊いてくる前に言うことがあるでしょうが――」

「それはすまんな」


 ジェヴェは悪びれない。あの程度のことでチタータが死ぬなどありえない――とでも言いたげである。チタータにしてみればこれほど頭にくる言い方もない。

 話している内に、酒と皿に盛られた魚の干物が卓上に並べられていた。ジェヴェは椅子に腰かけて干物をひとかけら口に放ると、懐から革袋を取り出し、対面に座ったチタータの前に置いた。軽い金属音が鳴ったせいか、チタータは見ずとも中身を知ったようである。


「これでしばらくは金には困らんだろう」


 チタータは革袋を持ってみた。見かけより重い。金貨も入っているようである。ということは、ジェヴェが次に帰って来るのは相当先だということだ。ジェヴェがどこでこれほどの大金を得たのかは、チタータは知らない。

 ジェヴェが喉を鳴らして酒を飲む様を見ながら、チタータは大きな溜め息をついた。


「あの人はね。フェペス家ともヤム家とも違うよ。あたし達のことをちゃんと見ようとしてくれる。あたし達がいることを、ちゃんとわかろうとしてくれている。ついさっきまでここにいたわ。どうしてもあんたに会いたいって――」

「領主がこんな商人くずれに会って、一体何を話そうっていうんだ」

「さあね。意外と商談かもしれないよ」

「ふっ……」


 品のある笑みである。だが、それを見つめるチタータの表情はどこか暗い。


「もう一度、ユーユに会ってあげなさいな。あんたも気に入ったから伺候に行ったんでしょうに――」


 チタータはユマのことを今でもこう呼ぶ。実際、ユマは身分を隠して街に繰り出しているのだから、それはそれで正しくはある。


「会わんよ。君のことだから、どうせ領主にここが私の家だと教えたのだろう。しばらくは留守にするよ」

「しばらくだって? ここに移ってからあんたの寝台は一度も使われてないってのにかい?」

「言うなよ。君の自由にしていいから――」


 途端に、チタータの顔が紅潮する。ジェヴェは怒鳴られる前に退散とでも言わんばかりに残った酒を一気に飲み干し、席を立った。


「ちょっと、泊まっていかないのかい?」


 驚きと怒りの混ざった声である。ジェヴェの判断は、あるいは正しい。


「忙しくてな。すぐに街を出なければならない」

「こんな時間に? もう市壁の門は閉じてるじゃないか」


 言うな――と、ジェヴェの目が光った。だが、チタータも胆の据わった女であるから、この程度では動じない。


「チタータ」

「何だい?」

「ユマに――いや、何でもない。元気でな」


 それまで怒りを含んでいたチタータの眼光から、鋭さが霧散した。話に付き合わないジェヴェの意固地に呆れ返ったようである。


「あんたこそね。何やってるか知らないけど、無茶すんじゃないよ」


 チタータは溜め息をついたが、その甘さを含んだ息が最も男を惹きつけることを、この女はまだ知らないようである。



 夜の街を歩きながら、ジェヴェは何度か空を仰ぎ見た。雲の濃い夜であるが、時折月が顔を見せる。

 何故、ユマは急に自分を探し出したのだろう。

 確かに二度、宮殿には赴いた。不本意ではあったが、二度目は仕方がなかった。クゥの話を聞いて賄賂を受け取る気になったのなら、ユマは見限った方が良いが、そこまで欲深い男には見えなかった。


(ああ、パソォの奴が入れ知恵したな)


 心当たりがあるとすれば、それくらいである。ユマは自分のことをほとんど何も知らないままだろう。

 ふと、雲間から漏れた月光が顔を叩いた。

 月に不吉をみる人は多いが、ジェヴェは夜を照らす光の澄みが恐ろしい。自分の内面――奥底に泥で埋めたものを掘り起こされるような、そんな感覚に襲われることがある。

 つい先ほどチタータに言いかけて飲み込んだばかりの言葉が脳裏に浮かぶ。


――ユマに惹かれたのなら、私のことなど忘れてしまうがいい。


 言えばチタータは激怒してそこいらにあるものを投げつけてきただろう。だが、ジェヴェはこれを口に出すことを決して許さぬ自分に気づいている。


「すまんな、ジェヴェよ……」


 夜の帳に向かって、ひとりごちた。


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