第九章「ジェヴェとジェベ」(1)
■八章までの主な登場人物
・ユマ
本編の主人公。突然、異世界に迷い込むも、ローファン伯爵の娘アカアによって保護される。光王によってフェペス家の故地ティエレンにユマ・チルーク・ティエル子爵として封じられ、フェペス家復興のために反旗を翻したアルンを鎮圧する。
・キダ
ユマの悪友。ユマと同じく、オロ王国に飛ばされ、フェペス家の奴隷にされる。現在行方不明。
・クゥ・フェペス
闘花とあだ名される女闘士。闘技試合にてユマに敗れ、奴隷の身分に落ちた後、光王の命でユマの家臣となる。
・ローファン伯
ヤム家の当主でアカアの父。近年、勢力を拡張しているガオリ侯に接近している。
・シェンビィ公
三大貴族の一、シェンビィ公爵家の当主でフェペス家のかたを持ち、ガオリ侯と対立する。
・ガオリ侯
シェンビィ公と対立する新興貴族。ローファン伯と交誼がある。
・エイミー
白髪赤眼の美少年で新興貴族のガオリ侯に仕える。不思議な言動が多い。アルンに扮してティエレンで反乱を起こすがユマによって制される。
・リュウ、ホウ
ローファン伯爵家の奴隷でユマに下げ渡された。ユマに目をかけられている。
・デア
ティエレン長老会議の長。ユマを補佐する。
・ジェヴェ
没落したジェヴィローズ家の長子。ティエレン子爵となったユマに接近する。
・チタータ、ヌーク
ローファン系移民の姉弟。身分を隠したユマに命を助けられる。
・ルガ
傭兵崩れの移民。ローファン系移民の用心棒。ユマを勧誘する。
・パソォ
ガオリ地方出身のティエレン移民。ジェヴェと面識がある。
ユマという男は、どうにも間が悪い。
間の悪さといえば、思慮の足らないその人の性質のように聞こえるが、実は己を律しきれない放漫さにある。
画竜点睛を欠く――キダが今のユマを見ればそう評するだろう。いやキダでなくとも、往来で大立ち回りをしておいて、噂話も未だに尽きない時期に微服に袖を通すというのは軽率としか言いようがない。
「あれだけのことがあっても、まだ懲りないのですか?」
出かける際、クゥに呆れられた。ユマも笑ってごまかすしかなかったが、主が街で何をしているのか、彼女が知れば呆れを通り越して怒りを露わにするだろう。最近のクゥは、そうした元気を取り戻しつつある。ユマはそんなクゥを見ると胸の奥が微かにじんと熱くなる。
「何か飲む?」
肩の後ろから、女の細い腕がすっと伸びてきた。ユマはその仕草に自分では永遠に持ちえないしなやかさを感じた。
この女――チタータといると、ユマは自分の中の奔流が緩やかな流れに変わってゆくのを感じる。やがてその安堵に飲み込まれるようにして、耐え難い眠気に襲われる。
これほど妙な客人もいないだろう。人の目を忍んでやってきておいて、小一時間ほど仮眠をとって帰ってゆく。それに文句一つ言わないチタータの方が奇妙かもしれない。
いや、チタータはそこまで勘の悪い女ではない。この若い領主が自分に何を望んでいるのか、わかり過ぎるほどにわかってしまう。もし彼がそれを口に出せばはっきりと言うつもりである。
「こんな狭い街で一体誰を探すっていうんだい?」
最初に会った時と同じ香りのする水を汲むチタータの姿を、ユマはまだ眠気が醒めないような呆けた顔で見ていた。
そう、ユマが街に繰り出す理由は、チタータに逢う以外にもある。
エイミーが王都リヴォンに戻ってから五日ほど経った頃、朝の伺候にパソォが現れた。
「お元気そうで、なによりです」
微笑みかけるパソォの様子はどこか落ち着きがなく、誰かを探しているようでもある。いや、警戒していると言っても良い。
「クゥを探しているのですか?」
ユマは、パソォの興味が彼女にあるような気がした。だが、男は自分の不用心を呪うような顔をした後、苦笑で誤魔化した。ユマも深く追及することは避けた。
「ルガはどうですか?」
「今はまだ立てませんが、すぐに元気になりますよ」
嘘はないようである。ユマは、アルンと敵対していた中で、ルガほど見上げた男はいないと思っている。宮殿に迎えたい気持ちもあるが、それだけはできない。
「すまない。身分を隠して、間諜のような真似をしてしまった」
「はは、ルガなら騙されたと怒りそうです」
ユマはうっすらと感じていたが、パソォは自分の正体に気づいていたのだろう。
「彼には悪いことをしました。それにアルンを制しきれなかったのは私の不足です。死人こそ出ませんでしたが、貴方にもお詫びしたい」
頭を下げるユマに、パソォは驚かなかった。
「新任の領主としては十分によくやられたと思います。ただ――」
「ただ――?」
ユマの目が光る。アルンを追放してからこのかた、伺候に来る者達は領主の勇気を褒め称えるだけで、それこそユマは不満だった。
「これは、私の言葉ではありませんが――」
パソォはわずかな躊躇を見せた。さて、これはかなりきつい諫言が飛んでくるのではないかと、ユマは――妙な話だが――期待した。
「続けて下さい」
小さく咳払いした後、パソォは続けた。
「私闘を行ったアルンが追放されたのなら、ルガもまた街を追われるべきであるのに、子爵は我が身の可愛さに彼を罰することをしない」
ユマは一瞬、呼吸を忘れた。怒りで打ち震えたわけではない。彼自身、その言葉を最も恐れた。恐れたからこそ、最後の最後までアルン(実際は彼に扮したエイミー)に直接手を下すことを躊躇ったのだ。
領主の眉が上がるのを見たパソォは、なんともいえぬ顔で続けた。
「――などと"せこい"ことを考えているのなら、新しい領主は早晩死ぬだろう、と」
思わず、口が開いた。声にならぬ声が、空の呻きとなって漏れた。
そのまま深く考え込んだ。パソォの言っていることは、ユマにとっては受け入れがたい。だが、何故か悔しくない。腹も立たない。あまりにも予想外であるが、道理がある。つまり、ユマのこの件に対する苛立ちは、己の思い描く通りに問題を処理できなかったことにあったが、同時に、果たしてその思い描いたことが正しかったのかという己への猜疑がないまぜになったものであった。ユマは前者を否定してくれる言葉を探していた。だが、それすらも佞臣に肩を寄せる暗君そのものの姿であった。パソォの言葉はユマの危うさを浮き彫りにした。
「……誰ですか、そんなことを言ったのは?」
「それは言えません」
パソォが不敵に微笑んだのは、己の言葉が相手の腹の底に落ちたという手応えがあったからだろう。
果たして、それほどに心動かす言葉であっただろうか。例えば同じことをクゥに言われれば、ユマは途端に機嫌を悪くしただろう。だが、この言葉の裏にある鋭さと冷淡さが、ユマにある人物を想起させた。ユマがかくも深くこの言葉を受け入れた理由は、内容よりもその人そのものであるとも言える。
「当てましょう。ジェヴェですね?」
「おや、ジェヴェを御存じなのですか?」
「むしろあなたがジェヴェと知り合いであることの方が驚きです」
「はは、知り合いというよりは、たまに向こうから会いに来るだけの仲ですよ」
「彼は以前のように私に会いに来てはくれないのですか?」
「さて、どうでしょうね。あの人の考えていることは私にはわかりかねます」
「では、会いたいと伝えてくれますか?」
「次に彼が私に会いに来るのが二年後、三年後になってもかまわないと仰るのなら喜んで――」
パソォはジェヴェを知っているが、彼の居場所までは知らぬらしい。それが本当であるとはユマは信じなかったが、いつかジェヴェに言われたことを思い出した。
――また、お会いしましょう。次はもう少し若い貴方と話がしてみたい。まあ、私を見つけられたらですが――
(面白い……)
ジェヴェという男に言い知れぬ楽しみを見つけたユマは、その日の内にジェヴェを探すよう、リュウに言いつけた。
ユマはわざわざ微服に袖を通し、彼直々にジェヴェを探しに来た。何故、そのような愚行に及んだのか。
数日経ってジェヴェ捜索に向かっていたリュウから報告があった。
「見つかりません。確かにジェヴェなる人物はこの街に住んでいたようですが、彼を見たという人が一人もおりませんでした」
「一人もいないは無いだろう。前に伺候に来たばかりじゃあないか」
リュウはホウほど思慮深くはないが、己の職務に忠実である。ユマは彼の仕事を疑うわけではないが、昼間から往来を闊歩していた男の目撃証言が無いとはどういうことか。
「それが、どういう風貌だったのか、宮殿の人達に訊いても誰も覚えていないのです」
ユマは訝った。念のために自分でも伺候の場にいた者達に訊いてみたが、確かにリュウの言う通りであった。最後にジェヴェと直接話をしたクゥですら、「ええっと、すみません。背丈以外はあまり覚えておりません」と、申し訳なさそうに答える始末である。例外は古くからジェヴェを知るデアくらいなものであったが、彼もまたジェヴェの行方は把握していないようである。
「ちょうどよい機会です。あの男を見つけられたのなら、私にご一報頂けると幸いです」
数年分の説教が溜まっていると言わんばかりであった。
ジェヴェの神出鬼没は明らかに不自然であった。それが、ユマの興味をひいた。
(見つけてみろと言うんだ。こっちから見つけてやろうじゃないか)
だが、果たして挑戦的な気分になっただけで今のユマが迂闊に動くだろうか。いや、ジェヴェには会わねばならない。会って、問いたださなければならない。ユマは迷いながらも己の正しさを貫こうとしている。それを、早晩死ぬとまで言われたのである。彼には大いなる知恵がある。そう感じる。
誰を探しているのか――というチタータの問いに答える気になったのは、自分の足でティエレンを練り歩いても何もつかむことが出来なかったからだろう。
「ジェヴェという男を知ってるか?」
チタータが知っているはずがない――などと決めつけたとしたら、ユマはジェヴェを甘く見ていると言えるが、彼のこの問いは、「もうチタータが知らなければ宮殿に帰ろう」と半ば思っているような、投げやりとも言えるものだった。
答えが無いことに訝ったユマが視線を上げると同時に、女のやわい唇が、ぷっ――と弾けた。
「あはははっ! よりにもよってジェヴェかい。あんた、あの人に騙されたんだよ」
「知ってるのか?」
ユマは内心喜んだが、同時に少なからず落胆した。チタータと共に居る時は短いが、何もかも投げ出してしまえる時間であった。それが、ジェヴェの名を出したことで忙しなさに飲み込まれてしまった。甘い午睡のような時間を失ってしまった気がした。
「あはは、悪いことは言わないから、あの人の言うことを真に受けるんじゃないよ」
「彼は今何処にいる?」
「何処もなにも、ティエレンにいるわよ」
「ティエレンの何処だ? 彼に会いたい」
「あんたみたいな人が会うような立派な人じゃないよ、あの人は」
「立派かどうかは俺が決める。というかどうでもいい。チタータ、頼むよ。もう何日彼を探してるかわからない」
ユマが音を上げるような声を出すと、チタータは少し困ったような顔をする。クララヤーナやアカアのような少女であれば、勝ち誇ったような顔をするだろう。ユマがチタータに惹かれているところがあるとすれば、こういう仕草かもしれない。
「じゃあ、夜まで待ちな」
「夜?」
「帰って来るから」
「何処に?」
「ここによ。ジェヴェの家だもの……」
瞬間、全てを悟ったユマは大きく肩を落とした。ともあれ、ジェヴェには会えそうである。