第八章「アルンを殺せ」(15)
クゥは軽く眉間に皺を作りながら、首を傾げていた。
ヌークが震えている。この卑しい少年は、気の毒なことにこの街の主の眼鏡にかなってしまった。小心であればそれはわかる。だが、ユマの傷を治療する医術士の手が不自然に震えているのがいかにも奇妙であり、同時に危ぶんだ。
(手元が狂えば――)
嫌な想像が脳裏に浮かんだ。とりわけ頭部の治療は医術の最高峰であるが、ユマが治療を受けているのは頭皮に過ぎず、医術の初歩であることはクゥも理解している。だが、それでも危ぶみたくなる程度に、医術士は動揺していた。
「もういい。ご苦労だった」
ユマの言葉に救われたように顔を上げたのはヌークだ。同時に医術士も手を休めた。
ヌークと医術士の退室後、ユマはしばらくの間、何やら考え込んだ。そして徐に立ち上がると、窓から外を眺めるエイミーに歩み寄り、何事かを囁いた。
ユマは思い出したようにクゥの方に視線を向けると、今度ばかりは上機嫌に言った。
「二人とも、疲れただろう。もう休んでいいよ」
クゥも、リュウも先程からの主の挙動が理解できない。だが「休んでいい」と言うより、「下がれ」と言われたに等しいことを理解した。
ユマが再び玉座に着くのを、エイミーはじっと眺めていた。
数秒の静寂があった。その間、エイミーは二度ほど首を傾げた。
「エイミー。お前はあの男のことを最初から知っていたな? 知ってて泳がせた」
何の前振りもなく、ユマは核心を突いた。
「あの男?」
エイミーが問うと、ユマは何かを確認するように小刻みに頷いた。それがまたエイミーには不思議だった。
「さっき俺の頭を治していた医術士だ」
「あっ、うん」
「そうか。で、ガオリ侯はあんな芝居をお前にやれと言ったわけではないだろう?」
ユマは、エイミーがガオリ侯の命令で動いたことは間違いないと思っている。だが、その目的がはっきりしない。そこでユマはひとつの仮説を立てた。
「ユマ、もしかして怒ってる?」
「いつものように心を読めばいいだろう?」
ここで初めて、エイミーは少しむっとしたような表情を見せた。ユマにはそれが意外であり、同時に狙い通りでもあった。
「読めない」
「それはそうだ。もう二度と俺の心を読めると思うな」
少年は黙った。彼の動揺はいかほどであろうか。
「エイミー。お前、よくわかってないのかも知れないが、お前は俺に借りがあるんだ」
「借り?」
「そう。借りだ。今すぐ返さなければ利子が膨れ上がって大変なことになるぞ。お前の借りは、ガオリ侯の借りだ」
「エイミー、もうお金借りてないよ?」
「金ならな。だが俺はお前のヘマを帳消しにしてやったんだ。ガオリ侯がお前に命じたことをよく考えてみろ」
明らかなカマかけである。だがユマは確信に近いものを持っている。
「ウルツ様はユマのお手伝いをしなさいって言ってたの。ユマがティエレンの人に嫌われないように手伝えって――」
何度見ても、エイミーの美しく整った顔立ちは少女のようである。声変りが想像できないほどに、この少年はどこか間の抜けたような色気があった。
燭台にかけた蝋燭の火が大きく揺れる。風は感じない。
「お手伝いなら、俺に話を通すはずだ。お前が命じられたのは、あの男とアルンの監視だ。アルンが危険なら排除しろとまで言われただろう?」
真っ赤な瞳が蝋燭の灯に当てられて燃えるような色になる。少年は目を大きく見開いたまま数瞬の間止まった。
「ユマ、心が読めるの?」
「そうかもな」
エイミーはぷくりと頬を膨らませた。ユマはこの少年に案外人間らしいところがあることにどこか安心した。
「さて、お前はガオリ侯の言いつけで、陰ながら俺を助けたつもりだったんだが、完全に失敗して俺が尻拭いをしたわけだ」
「失敗?」
「そう、失敗」
この少年を丁寧に説得しても無駄だとは思いつつも、ユマはエイミーの向こうにいるガオリ侯に聴かせるつもりで話し始めた。
「ティエレンの街は、外からはフェペスとローファンで争っているだけのように見えるが、実態はそうじゃない。そこをお前は勘違いした」
「アルンが悪いんでしょ? ユマはアルンが邪魔だと思ってたじゃない?」
溜め息――苛立ちを超えた、仄かな怒り。それが僅かにユマの周囲を漂う精霊を刺激した。
エイミーの錯覚だろうか。空気が震えた。
「確かに俺はいつかアルンを追放しただろう。でもな、それは何によって為される?」
「何によって?」
「わからない――か」
腹の底から、力の無い息がふっ――と出た。
(俺はこんな真面目人間だったか?)
思わず自嘲したくなった。新たにティエレンの主として立ったとはいえ、そこまで民に心を砕く義理が何処にあろう。この世界の為政者がそうしているように搾取すればよいではないか。だがこういうことを考えると必ずローファン伯の憎らしい熊のような顔が頭に浮かび、やり場のない怒りに拳が震えるのである。
(まだ、クゥを憐れむか?)
クゥは憐れである――と、頭の中で即答した。それがいけないのだ――とも思い始めていた。ユマは余計に自分がわからなくなった。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。ユマは自分が戦うべき相手を確実に見定めているということだ。エイミーはそれをアルンであると勘違いしたが、ユマはより遠くを見ている。
何故かはわからないが、急にチタータのことを抱きしめたくなった。
「エイミー、お前がわかるように言えば、アルンにはまだ利用価値があったということだ」
「えっ、ユマってそんなに悪い人なの?」
まるでアカアと話しているようである。アカアは時折冗談を言うが、エイミーは冗談のようなことをしか言わない。
だが、どうだろう。エイミーの言っていることに誤りはあるだろうか。
(いや、全くもって正しい――)
俺は悪人か――と自問した。チタータと出会い、自らの魔術を行使しなければ、彼女は死んでいたかもしれない。アルンの反乱によって多数の負傷者が出たが、放置すればじわじわと死んでゆく者達が確かにいる。自分はそれを忘れてはいないか――
「さあな。悪人かもな。さてエイミー、俺の計画をぶち壊しにしてくれたお前に罰を与えなきゃならない」
欺瞞である。だが、これはエイミーを通じたガオリ侯との駆け引きでもある。エイミーやガオリ侯はティエレンの民のことなど微塵も考えない。
「箒で叩くの?」
「いや、全て話せ。アルンについてお前が知ること全部だ」
ユマはつい先ほど自分が相手の心を読めるかも――などという法螺を吹いたことなど忘れたかのように、エイミーに詰め寄った。
エイミーの退室を見届けたユマは、微動だにせず宙を見つめていた。
ガオリ侯がエイミーを送り込んだのは、シェンビィ公がフェペスの反乱分子と接触していることを疑ったからだ。というよりも、以前王都で暗殺されたシェンビィ公の家臣こそがそうであった。エイミーの言うところでは彼はアルンに魔術を教えた張本人であった。
解せない。
ユマがティエレンに封じられるにあたり、表向きはその立役者であるシェンビィ公がわざわざフェペス側を焚き付けるのは自らの顔に泥を塗るのと同じである。
それをユマが指摘すると、ガオリ侯もそのようなことを言っていたことをエイミーが漏らした。つまり、最初はガオリ侯も半信半疑であったのだ。
エイミーは人の心を読める。彼は王都からティエレンに向けて出発する時点では、反乱分子の存在に気付いていただろう。あるいはガオリ侯もそうであり、だからこそエイミーにかなりの裁量を任せたと言える。ユマに伝えなかったのはシェンビィ公の家臣暗殺から尾を引いた問題であるからだろう。この点においてだけは、ユマとガオリ侯は互いに全く信頼のおけぬ仲である。
ユマが家臣の裏切りに気づいたのは、チタータを通じて出会ったナンナという少女を追っていた最中である。彼女は何故かチタータの弟ヌークを介してアルンの一味に内通していた。それだけでもユマにとって十分に衝撃であったが、ヌークが宮殿の人間にも接触していたことは想像の外にあった。
あるいは、ヌークこそが首謀者なのではないかと疑った。だが、実際に会った彼の印象からはほど遠い。今まで散々人の外見に騙されてきたユマである。最後まで疑いは残した。だからエイミーのいる前でヌークと医術士の二人を呼んだのである。
エイミーは興味のない素振りをしていたが、意識は医術士に向けられていたのか、彼の周りを漂う精霊が微かに偏っていた。
「シェンビィ公の仕業じゃあないな」
ユマがそう断言すると、エイミーが「ウルツ様も同じことを言ってた」と返したのだから、ユマがガオリ侯に腹を立てたのも仕方がないだろう。
「背後関係はわからないよ。本人は誰にも命じられてないつもりだったし――」
調査はエイミーでも手間がかかりそうである。そうであるならば、なおさら軽率な行動は控えて欲しかった――とユマが苛立ちをぶつけると、
「だってユマ、いなくなっちゃったし――」
あまりにもあけすけな顔で返すエイミーに、ユマはもう何も言うことが無くなった。
エイミーは夜明けとともに報告のために王都に向けて発つとも言った。ユマは、ガオリ侯に言い聞かせるつもりでエイミーに怒りをぶちまけてみせた。半分は本心だったが――
「お疲れではありませんか?」
ハッとして声のした方を振り向くと、運んできた茶器に茶を注ぐ女の姿が目に入った。
クゥは優しげに――あるいは半ば呆れたように微笑を湛えながら、カップを差し出した。
「いつからそこに?」
カップを手に取る際、小さな手にできた硬い剣ダコに触れた。体温を感じない硬さであった。
「しばらく前から――ずっと考え事をなさっているようでしたから、お声がけするのに迷いました」
「……ああ、そうか。確かに今日は疲れたな」
ふぅ――と大きく息を吐いた。
長い一日であった。よくもまあ立て続けに面倒に巻き込まれるものだと自嘲した。ほとんどが自分から首を突っ込んだものだから、笑いも渇いた。
「私やデアではご不満でしょうか?」
声色は柔らかいが、明らかに機嫌を崩している声である。ユマとしても、自分の行いを省みればクゥに叱られて当然だろう。
「いや、そういうことじゃあない。今回は成り行きだ。君には感謝している」
「あら、私どもが駆けつけた時にはあからさまに嫌な顔をされたと思ったのですが――」
(鋭い女だ……)
痛いところを突かれたが、ユマはクゥの勘の良さを誉めたくなった。初めて見るクゥである。
ユマが何も言い返さぬまま、小さく笑うと、クゥはそれすらも叱るように静かに言った。
「ユマ様の捜索に向かった者の内、あの少年だけがその日のうちに帰ってきませんでした」
「エイミーか――」
これは讒言だろうか。エイミーがただものではないことを、クゥは彼女なりに理解しているようである。ユマとは違い、クゥや他の術士は精霊を直接見ることができないのだが、彼女は己の職分としてエイミーを警戒し続けてきたのだろう。
エイミーは不思議の塊である。だが、それ以上にユマは己の内なる声があの少年に最大級の警告を発していたことが忘れられない。
「予感だがな。あの餓鬼と俺はいずれ必ず――」
「必ず?」
言いかけたところで、ユマは自分自身に戸惑った。いずれ必ず、何であろう。次の言葉が見つからない。自然と何かを言うつもりだったが、すっかり先が抜け落ちてしまった。
「いや、何でもない。それよりクゥ、君に礼を言いたい」
「私に?」
「空術だ。あれのお蔭で死なずに済んだ」
予想だにしない褒詞にきょとんとしてしまうクゥもまた、ユマは初めて見る。クゥをティエレンに連れてくることの悪影響を案じていた身としては、彼女が明るく変わってゆくのは大いなる救いであろう。
「あれは私の想定には無いものです」
「そうか。想定に無いか」
本当かどうかは、ユマは問い詰めなかった。空を飛ぶ術――それは真っ先に思いついてもよさそうなものである。ただの謙遜というより、以前のクゥは羽ばたくにはあまりにも多くの足かせが付けられていた。
「ユマ様」
「何だ?」
「魔術を発明した者には命名の義務があります。些細な技術であれ、術士はその名誉に浴せます」
「名付けろと?」
「……はい」
ユマはカップに注がれた茶を一気に飲み干すと、勢いよく席を発った。
「風火でいいだろう」
クゥの眉が大きく上がった。やがてそれは今にも笑いが弾け飛びそうに踊った。
笑い出すのは、ユマの方が早かった。