第二章「闘士衝冠」(3)
(本当に木田なのか?)
いや、そうであるはずが無い――と、言い切れないことが、余計にユマの頭を混乱させた。こんな異世界じみた場所に、何故彼がいるのか。だが、それはユマ本人にも言えることで、自分が神隠しに遭ってオロ王国にいるということは、あの時近くにいた木田もそれに巻き込まれている可能性は十分にある。眼前で呆然としている男は、みすぼらしい衣服を纏っているが、確かに木田だ。
混乱したのは木田も同様だ。彼は少しの間、我を忘れていたが、やがて自分を取り戻すと同時に、ものすごい勢いでユマに擦りより、
「湯山、助けてくれ! 俺だ。木田だ!」
と、叫んだ。
「木田……木田なのか。本当に木田なんだな?」
ユマがそう言うと、木田の目元がじわじわと赤くなり、やがてそれは熱い液体でいっぱいになった。
(奴隷にされた……)
ユマが、アカアに助けられたときにほのかに感じた不安。それが現実となって目の前にある。木田の髪はぼさぼさで、目元が黒ずんでいるのは、満足に眠れないほどに酷使されている証拠だろう。
咳払いが聞こえた。あたりを見ると、クゥを取り巻いていた観衆の視線が自分に集まっている。声のした方を振り向くと、渋面を作ったヌルの姿があった。
「その薄汚い奴隷は、先生の知り合いか?」
冷めた声だった。
――ほら見ろ。やはり得体の知れない奴だ。
という心中の声が聞こえてきそうだ。ユマは冷や汗をかいた。この場にアカアがいない不利に気づいたからだ。木田を奴隷の身分から解放するためには、あのクゥとかいう女闘士を説得しなければならないが、ヌルが骨を折るとは思えず、また彼にはその権限もあるまい。伯爵家の令嬢であるアカアなら、先生と慕うユマの友人を救えるかもしれない。ユマはやはりアカアと共に来るべきだったと後悔したが、同時に――アカアと連れ立ってここに来たとしても、今頃闘技場の中を見て回っている頃であり、ユマは木田には気づかなかっただろう――という直感にも似たものを感じた。容姿、表情のどちらも木田の変わりようは激しく、彼が自分に声をかけてくれなかったら、ユマは疑念を疑念のまま胸にしまいこんでいただろう。怠け癖のこびりついたユマには運命論者的な一面があって、アカアが共にいれば木田を見つけることは出来ず、木田を見つければアカアの助けを得ることは出来ない巡り合わせのようなものを、この時感じた。
(でも、まだ間に合うかもしれない)
ユマはヌルに、アカアを連れてきてくれないか――と、丁重に頼んだ。
――何故、俺が貴様のために……
声を聞かずともわかる。だが、何をやっても木田を救いたい。悪事に手を染め、そして裏切った自分を追い回した木田を、ユマはもう憎いとは思わない。あれは自業自得だとも思っている。木田に対する嫌悪や侮蔑の感情が空気の抜けた風船のようにしぼんでゆくのは、それほど今の彼の境遇が哀れであるからだ。ユマはアカアにつく奴隷がどれほど酷使されているかを短期間ながらも見知っており、彼らの暗く沈んだ視線に耐えられない時がある。
「ここに連れてきてくれたら、俺の持っている物の中から、お前が望むものをひとつやろう」
ユマがそう言った時、ヌルの目が光った。
(廉直な男だと思ったんだが……)
ユマはヌルに、軽い失望を覚えた。この時、彼はヌルを欲深いとみたが、腕時計や毛布くらいしか財産を持たないユマが、たった一つの物品でもって木田を助けようというのは、いかにも吝嗇だ。ここは、財産の全てをはたいてでも木田を助けるべきであり、それを行えば、アカアは敬仰するユマ先生がそこまでお認めになる方とはどんなお人か――と、木田の保護に興味を示すはずであり、また、ユマの情の厚さを知り、一層信頼を寄せるだろう。だが、今のユマにはそこまで考えるゆとりもなく、またそれだけの機転もきかない。
「では、お前が腕につけているそれを貰おう」
と、ヌルが言ったので、ユマは左手首につけた腕時計を外して、彼に投げあたえた。
「急げ!」
ユマらしからぬ叱声を受けて馬車を出したヌルは、しかし腕時計を気に入ったのか、飛ぶように馬車を走らせた。
「お嬢様をお呼びしたところで、どうにもならんだろうが……」
ヌルは意味深な言葉を残していったが、それを気にしている場合ではなかった。
取り残された感じでユマとヌル、それに木田のやり取りを見ていたクゥは、ヌルが馬車を発するのを見てようやくユマに声をかけた。
「我が家の者に何か?」
目を閉じて聴けば深窓の麗人を思い浮かべたくなるほどに、儚く澄んだ声である。
(なるほど、アイドルだ)
と、ユマは半ば安心した。ユマは威圧されると話し辛くなるほどには気弱ではなく、逆にすぐ頭に血が上ってしまう気性の荒さに自分で気づいており、なるべく穏やかに木田を引き取りたい。
「この男、私の友人でして、どういった経緯で貴方の下にいるのか。教えていただけないでしょうか?」
ユマはまず、下手に出た。こういう時の交渉は機先を制した方が利を得る場合が多いが、ユマは彼の半生における人付き合いの浅さを、ここで――人知れずだが――露呈していた。いつもの彼らしく、ぶっきらぼうに話せばよかったのだ。
「友人……この者は奴隷市で私が買ったのだが……それ以前に貴方が何者か、お教え願えないだろうか?」
クゥはやや不機嫌そうにユマに問い返した。彼女に倣って、周囲から、
――軽々しくクゥ様に話しかけるな!
といった野次も飛んできた。
ユマは少し迷った。ここでローファン伯の名を出すべきか迷ったのだ。だが、「私は異世界の東京から来た湯山翔です」などといえば狂人と思われるだけだろう。
「これは失礼いたしました。私はローファン伯爵家の令嬢アカアの客人で、ユマ・カケルと申します」
ユマはクゥの反応を待った。彼女が伯爵の名を聞いてたじろぐのを期待したのだが、事はうまく運ぶものではないらしい。
「ローファン伯のご息女……それで、貴方はこの者をどうしたいと仰るのです?」
クゥが抵抗無く話を進めるので、やや外された感のあるユマは、しかし本題に入った。
「ぶしつけながら、その男を譲っていただきたいのです」
と言ったとき、先に木田の正体をばらさなければ、安く彼を取り戻せたかもしれないと後悔した。ローファン伯の庇護にある――実はまだそうではないが――者の友人と知って、相手にふっかけられることを懸念したのだ。
(どうも俺は正直すぎる)
と、ユマは自分の人の良さを嗤ったが、彼は人がよいというよりはただ単に思慮が足りないだけだろう。二十代の半ばにある男にしてはいかにも頼りない。
この時のクゥの反応は、ユマの予想だにしないものだった。
クゥの顔がみるみる蒼ざめ、刺すようにしてユマを睨めつけてきた。
「ヤムの犬らは、ティエリア・ザリの肉では食い足りないらしい!」
取り巻きの一人がそう言うと、周囲が一斉に殺気立った。
ユマはこの台詞の意味は理解できないが、どうやらローファン伯の名を出したのがまずかった。フェペスの一家から相当に嫌われているらしい。
「この者は既に我が家の家人だ。一家の者をヤムの家に売ったとなれば、先代に合わせる顔が無い」
横からしゃしゃり出て来たクゥの付き人が激しい勢いで言った。クゥは彼を制したが、小さく頷いた。
いくら金を積まれても木田は渡さぬ――と、そう宣言されたユマは目の前が真っ暗に沈んでゆくのを感じた。いや、ユマはまだ良い。この時最も絶望したのはユマの膝元でそれを聴いていた木田だろう。
(確かにアカアが来てもどうにも出来そうに無い。いや、むしろ悪化する……)
ヌルが言ったことを思い出しながら、ユマは自分が腕時計を騙し取られたことに気づいたが、それ以上に、この場にアカアが現れて騒動にでもなったら、ユマを伯爵家から追放するよい口実になる。当然、ヌルはそこまで見越していただろう。
(ヤバイ、まずい。どうにかしないと……)
木田を助ける以前に、自分の身も危うくなりそうなことに気づいたユマは、徐々に顔色が蒼くなり、表情にもあせりの色が表れた。
そんな彼に鞭打つわけでもないが、クゥは闘技場の方を指差し、
「どうしてもと仰るのであれば、その者とともに闘技場に参られよ――」
と、冷ややかな口調で言った。闘技を行って勝ち取れということらしい。
(闘技場……)
冗談ではない。死んでしまう。
「少し、この男と話をさせていただきたい……」
ユマは力ない声で言った。木田が奴隷に落ちぶれたいきさつを知れば何か手がかりがあるかもしれないと思ったが、クゥというより彼女の周囲の者がそれを許さなかった。
奴隷の長と思しき者が、鞭を振り上げた。もうこれ以上、お前の話には付き合えぬ――という意思表示だ。それを知った木田が悲鳴を上げた。いや、彼の場合、この後どういう目にあわされるかわからない。
「湯山、助けてくれ。何でも、何でもするから……」
ユマはきつく口を縛ったまま動けなくなった。だが、木田に揺すぶられる度に、剣を持って闘士と戦う無謀さによろめきそうになった。
(木田は助けたい。でも、俺が死んでも無意味じゃないか……)
という、ユマの心情は本心ともいえなくないが、それでも偽善が残っている。ユマ自身気づいていないが、彼が声を大にして言いたいのは、
――無傷で木田を手に入れたい。
むしろそれが当然であるという無意識だ。
鞭が鳴った、ユマの眼前で空を裂いたそれは、直後に木田の背を打った。
「きゃあ――!」
木田は仰け反りながら、女のような悲鳴を上げた。
「待て。待て。闘技場に入れっていうけど、俺は誰と戦えばいい?」
目の前の惨状に慌てたユマが言うと、クゥは胸に手を当て、
「この、クゥ・フェペスと――」
と、答えた。ユマの目が光った。
(勝てるかもしれない……)
抱けば折れてしまいそうなクゥの柔腰を見て、そう思った。この女が自信たっぷりに言った事実を、ユマは意識していなかった。それに――
(木田は剣道をやっていたな)
と、思い出した。高校の頃、全国大会で準優勝したほどの実力者だ。今はなまっているかもしれないが、ユマのような素人にはこれだけでも好材料といえる。ユマは先に、木田を取り戻したければその者と共に闘技場へ立て――と、クゥが言ったのをしっかりと憶えている。
「いいだろう。受けよう……」
思わぬユマの声に、人垣が揺れるようにどよめいた。
クゥは驚いたようにユマを見つめたが、やがて――
「では、七日後に竜機戦を行います」
と、宣言して身を翻した。方形の耳飾が凛と鳴った。
周囲のどよめきは歓声に変わった。その歓声の中で、木田はようやくユマの足から離された。
「ありがとう。ありがとう……」
泣きじゃくりながらそう言っていた。
「七日後だ。それまで、どうにか生き延びよう……」
竜機戦というのはもしかすると戦車戦か何かだろうか――と、クゥが女の不利を脇に置いたような話し振りをしていたこととあわせて思い出したユマは、少し不安になったが、あえて打ち消した。いざとなれば、木田に頼ればどうにかなるという楽観もあった。
クゥが闘技場の中に消えた後、彼女を取り巻いていた野次馬が散々罵ってきたが、それに耐えかねた頃、機を見計らったようにしてヌルがアカアを連れてやってきた。
ユマはヌルに殴りかかろうとする自分を必死に抑えた。