第八章「アルンを殺せ」(14)
石でも噛み砕いたかのような顔で、男は玉座の上に足を組んでいる。
玉座――そう、確かに百五十年ほど前には、これは臨時の玉座であった。その頃から全く変わらぬまま、この高貴な席は長らくフェペス家の当主が座り続けた。
新たに旧都ティエレンの主となったユマ・チルーク・ティエルには、古き玉座に着く資格があった。
この街がユマのものであることは、他でもない光王が――彼からの借り物であるという名目を措けば――保証していた。
それが、この不機嫌はどういうことか。誰もこの若き領主に声をかけようとしない。
オルベルの宝剣を手に傍に控えるリュウは、主の異常な不機嫌の理由がわからない。だが殿下で控えるクゥには多少の心当たりがある。
とはいえ、空気が張り詰めている――と言えば、少し大袈裟である。クゥが知るユマという男にはそこまでの威厳は備わっていない。ただし、クゥが観る限り、この男はのっぴきならなくなると恐るべき激烈さを見せる時がある。それは、己が命を限りなく軽視するという暴挙と言える。
だが、つい先ほどのアルンとの決闘において、クゥはそれとは違うユマの静かな激情を感じ取った。
残り火のようにじわじわと燃える感情。それは、彼女の良く知るものに似ていた。
リュウはこのような状況にあまり慣れていないのだろう。彼は誰かが早いところこの不可解な沈黙を破ってくれやしないかやきもきしているようである。
しかし少年の願いはすぐに叶った。
勢いよく大広間の扉が開かれると、デアが如何にも上機嫌といった風に声を上げた。
「素晴らしい。貴方はまことに素晴らしい!」
この老人はユマが宮殿に戻った後、市中での後始末を自ら買って出た。疲労困憊のユマは細かな指示は出さずにデアに全て任せた。彼が領主らしいことをしたのはアルンの追放くらいなものであった。
日が暮れきった今頃になってようやくデアは仕事を終えて帰って来たということだ。
「市民は何と言っていた?」
ユマがそう返すのを見て、クゥは見た目ほど不機嫌ではないのではないか――と思い直した。
「絶賛ですよ。貴方は最も困難で最も偉大な仕事を成し遂げました。しかもこれ以上なく効果的に、市民を味方につけました。神業という他ありません」
他ならぬデアが絶賛する。
(それほどか?)
と心中で首を傾げたのはクゥである。確かにユマがやったことは驚嘆に値するが、市民を味方につけたというのは言い過ぎではないか。
「それは、私の宣言を市民が受け入れたということですか?」
「はい、まさしくその通りです。皆、勿論私も含めて、私刑の応酬にはうんざりでしたから、喜ばぬ者がいるはずもありません。それこそ暴漢でもなければ――」
これにはクゥも首肯できる。私刑は全ての秩序を破壊する。しかし他ならぬフェペス家がそうであったことは、彼女の頭によぎることは無い。
「誰も言いませんでしたか? 私闘を行った領主が真っ先にティエレンを去るべきだ――と」
「何を仰っているのかわかりかねます」
デアが首を傾げるのも無理はない。このティエレンにおいて領主を縛る法は無い。
(ああ、この人はまたつまらぬことを気にしている)
だが、そのつまらぬことこそがこの男にとっては深刻なのだ――と考えたクゥは、ようやくユマに少し慣れてきたというべきだろう。今のところこの場で彼の思考に曲がりなりにもついて来れるのはクゥしかいない。
ユマはデアを問い詰めるつもりなど毛頭ないらしく、彼の疑問には答えることすらしなかった。
一呼吸置くようにして、デアが言う。
「市民は、今は子爵を信じております」
ユマの口元がわずかに緩んだ。何かを得たような充実感が微かに見えた。別の言い方をすれば「何だ、わかってるじゃないか」という顔である。
「デア、市民は私を信じたフリをしてくれています。今はそれを大切にしたい。今日はご苦労でした」
デアもまた、多少は満足したようである。彼が口ほどにはユマを評価していないことに、クゥは今更ながら気づいた。
(釘を刺したのか?)
ユマが勝利に奢っていれば、直接の批判は命取りになりかねない。つまりデアは彼を量りかねていた。その上で慎重を期したのかもしれない。そうだとしたら、この老人は自分が思っているよりは世故に長けると言える。
「ああ、そう言えば――子爵よ、アルンから逃げてきた市民を保護しております。しばらく宮殿で預かった方が良いと思うのですが、如何いたしますか?」
第一、デアはユマを主ではなくユマ様あるいは子爵と呼ぶ。彼にとってユマは光王に任命された行政官であり、この街の代表は飽くまで長老会議であるとでも言いたそうである。そしてユマもまたそれを善しとしている風に見える。
「もしかしてヌークじゃないか?」
「……確かそのような名の少年でした」
「会いましょう」
「はあ、では明日の伺候で――」
「いえ、今です。今、会います」
訝るようなデアの視線を、ユマは全く意に介さない。今会うと言えば他に何もない。デアは要領を得ぬまま下がる他なかった。
「クゥ、確か一緒にティエレンに来た中に医術士がいただろう。彼を呼んできてくれないか?」
「治療が不完全でしたか?」
「いや、かすり傷だ。ここのところをな――」
ユマはそう言ってこめかみを指差した。既にかさぶたになりかけているが、確かに小さな傷がある。
クゥはぎょっとしたようにユマを見た。
「ユマ様、頭の傷を医術士に見せるのは――」
「クゥ、早く」
急かされる理由がわからない。いや、恐らくクゥの忠告を承知でそうしているのだろう。
医術士を呼びにやろうと振り返る間際、なにやら意地の悪い笑みを浮かべるユマの口元が気になった。
ヌークは完全に恐れ入っていた。
無理もない。素性のわからぬ余所者として接していた相手がまさか領主であったとは誰も思うまい。
「気を楽にしてくれ、ヌーク。何も君を取って食おうというわけではないんだ」
そう言われても自分がここに呼ばれている理由が思い当たらないヌークとしては、混乱は当然だろう。
(まさか――)
いや、この場に呼ばれる理由はある。だがそれが当たっているとすれば、新しいティエレンの主は悪魔のような男としか言いようがない。
「お待たせ致しました」
背後からの声に、思わず肩を震わせる。振りかえれない。恐ろしくてできない。固まったままのヌークの隣を、一人の男が通り過ぎる。白いガーブに身を包んだ医術士だ。
「ここを頼む」
ユマが自分のこめかみを指差すのを見て、医術士は戸惑うように一瞬止まった。ユマはかまわんからやれ――とでも言うように目語した。
医術士に頭を診せることは、多くの場合自殺行為である。ユマがエイミーとの決闘の中で常に懸念していたように、人間の体内に向けて魔術を使えば、それが小さな力であっても致命的である。特に頭はということだろう。逆に言えば、医術士に頭を診せるということはこれ以上ない信頼の証である。
その光景を見たヌークは、肩を震わせ、ガチガチと歯を鳴らしながら、今から皮を剥がれ調理される仔牛のようにただひたすら恐怖した。
「ナンナは元気にしてるか?」
ユマの声は、ヌークにとっては死刑宣告に近かった。
(終わった――)
殺される。確信以外のなにものでもない。ユマは自分やチタータの前では穏和な男を演じ続けたが、その実、迸るほどに峻烈であった。
「ナンナがどうかしたのですか?」
か細い声。辛うじて捻り出したに過ぎない。
「会っているのを見た」
それはいつのことか――と、首筋が冷やりとする程度なら、ヌークはまだユマを舐めていると言っていいが、そうではない。
「ヌーク、君はアルンとも会っていたね? ナンナと話をした後だ」
一瞬で、まるで気道が塞ぎ切ったように用意していた次の言葉が掻き消える。
「俺の話を聞いてなかったのか、ヌーク? お前をどうかしようなんてことはない」
ユマが嘘をつかない保証などない。だがヌークは、それでもユマの顔色を窺わずにはいられなかった。自分が引きつった顔をしていることはわかる。だが他に救いはなかった。
「チタータ達に危険を知らせたそうだな。君の目的は、半分はそれだっただろう。だが俺の興味はね、君がアルンに加担していたなんてことにはないんだ」
では、何を知りたいので――と、ヌークは目で問うた。
「あの後、アルンが誰に会っていたか、君は知っているか?」
震え。ヌークではない。彼は呼吸を忘れたまま、半ば驚愕の表情を浮かべている。不穏な手汗の臭いは、ユマのすぐ近くから立った。
「……治療を続けろ」
医術士の顔を見ないまま、ユマは彼らしからぬ冷厳な声を発した。こめかみにかざした指先が小刻みに震えた。