表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
貴く翔べ  作者: 風雷
107/115

第八章「アルンを殺せ」(12)

 空気中を漂っていたのは、まぎれもなく金精である。しかもかなりの濃度だ。

 ユマがこれを不自然に感じたのは、金精とはそもそも空気に溶け込みにくい精霊だからだ。体表、地面などに付着するそれを、ユマは足底や掌に集めて魔術を放っていた。

 それが、ユマの肉眼で視認できるほどに、この空間に満ち満ちている。


(何がどうなってるんだ?)


 あまりに異様である。誰かが意図的にそうしなければ、決して起こり得ぬ状況。エイミーの仕業だろうか。いや、違う。この少年は、恐らく見た目以上に混乱している。その証拠に、無防備に立っているユマを攻撃しない。

 それにしても、恐ろしい量の金精である。ユマはちらりと左手に抱えた精霊の塊を見た。自分ではかなり集めたつもりだったが、総量では周囲の金精の方が十倍は勝る。


(いや、この景色、何処かで――)


 ふと、いつかの恐ろしい光景が瞼の裏によみがえる。

 もう随分前のことに感じられるが、あれからまだひと月と経っていない。闘技場でクゥと対峙した時、暴走した竜機の周囲を漂っていた精霊と、今ユマの眼前に展開されている状況が酷似していたのだ。

 身震いした。あの時、確かにユマは死にかけた。いや、確実にある死に自分を放り込んだ。そして偶然生還した。同じことを再現してみろと言われても不可能である。あの時の決断に後悔こそしていないが、同じ選択肢は出来るならば二度と選びたくはない。


(もしかして――これか?)


 ユマはもう一度、自分の左手に集めた精霊を見た。よく見ると、周囲の金精はそれに向かってゆっくりと集束しているようである。

 金術は、誤解を承知でいえば物質の密度を操る術である。金精が蜜になれば物質の密度は増し、疎になれば減ずる。空術が空術と呼ばれる所以は、金術を起点に空気を集めることにある。クゥはそれを弾を飛ばすという発想に用いたが、ユマは己自身の跳躍に応用した。精霊を視ることで原理を理解したからこそ可能な芸当であった。

 そしてユマが空気中に密になった金精を見ていることが意味するものは一つしかない。

 空気そのものが――しかも莫大な量が――圧縮されているのである。ユマは無意識でそうしていた。自ら集めていた弩発の精霊によるものだろうか。


(そうか。跳び過ぎたな)


 もう一度跳躍してみなければ確認しようがないが、ユマが散々使った跳躍の空術が、この状況を作ったと彼は仮定した。なにしろユマが自身で編み出した魔術である。使用にあたって何の保証もない。ユマが集める金、風、雷のそれぞれの精霊の分量を大きく見誤ったとしても不思議ではない。最初に跳躍した時、ユマは金精で圧縮した空気の調整にかなり手こずった。知らず知らずの内に、金精を多く集めることで安定を図っていたのだ。

 そして、これらの想像はユマの中でひとつの確信を育みつつあった。

 にわかに、先程弩発で撃たれた傷が痛む。全身を撃たれたのだから、体中がきしんだと言って良い。だが、それは王都で経験したような体が引き裂かれるほどの激痛からは遥かに遠いところにあった。

 それに気づいた時、これまでユマの脳内でばらばらに存在していた記憶の切片が、まるで操り人形の糸を手繰る様に、あるいは時計の歯車をはめ込んだように、思考の中枢でがっちりと一つの形を成した。

 頭の中で、それらが組み合わさる音を確かに聞いたのである。


(勝った――勝ててしまう……)


 途方もない。これまでの苦戦が嘘に思えるほどの勝機――それが見えてしまった。


(悪くても引き分け――か? いや、最悪二人とも死ぬ。だが――)


 とにかく、エイミーの勝利だけは決してありえない。それだけは、ユマは自信を持って予言できる。百中百、この少年の勝利はない。


(わかるか、エイミー? お前の勝ちはない。死にたくなければ、降参しろ。嘘じゃあない)


 口には出さない。その方が、人の心を読める少年には正しく伝わるだろう。そう思い、ユマはエイミーに向かって念じた。

 エイミーは何も言わない。ただじっと――視線で語りかけるユマを観察している。


(負けを認めろ! エイミー!!)


 さて、敗北必至の状況から突如としてユマが確信した勝利とは何か。

 塞栓症そくせんしょうというものがある。

 文字通り、血管が栓で塞がれる障害を指す。栓は栓子と呼ばれる。それが何らかの拍子で血流に乗り、遠くの血管を詰まらせ、梗塞を起こす。あるいは鬱滞した血液そのものが栓子となることさえある。

 だがユマやエイミーは何日も寝たきりになって静脈で鬱血が起こっているわけでもなく、血管壁が剥がれ飛ぶような病気にかかっているわけでもない。人に自慢できるほどの健康体である彼らの体内にも、条件さえ整えば栓子となり得るものが紛れているのだ。それは何か。

 空気である。

 外部から注入するわけではない。普段は血液に溶け込んでいる無害な物質が、肺や肝臓の終動脈を詰まらせ、最悪の場合人を死に至らしめるのである。

 そんなことが日常に起これば、誰もが安穏と暮らせないだろう。勿論、普通に暮らしていれば永遠に起こりえないことだ。

 そう、今ユマ達が置かれた状況は普通でないのだ。

 ユマは潜水病という名でそれを知っている。人間の体が急激な減圧に晒されると、血液内に溶け込んでいた窒素が気化する。人間の生理機能が持つ恒常性ホメオスターシスは体内の酸素と二酸化炭素の濃度調節は行うが、窒素はそうではない。人の体はなす術もなく、普段は無害に振る舞っていた気体によって落城する。

 ユマは医学に詳しいわけではない。ただ、いつの頃だったか外国でスキューバダイビングを楽しんできたキダの土産話を耳にした程度である。

 だが、憶えていた。いや、思い出した。己の中の引き出しを全て開けきって、初めてエイミーを出し抜く切り札を手にした。

 異様に増幅された金精、明らかに感じる圧迫感、弩発の奇妙なまでの減衰――それらの全てが、周囲の気圧の上昇を意味することに気づいた。

 エイミーが放った弩発は、直撃したにも関わらずユマを仕留めそこなった。それは何によって減衰したのか。金精である。もっと言えば、ユマががむしゃらに集めた金精の作用で圧縮された空気によってである。言ってしまえば、今ユマとエイミーの二人は、とてつもなく巨大な弩発の中にいるようなものである。それを一端撃ち出せばどうなるか。圧縮した空気は爆ぜて四散し、周囲の金精は通常ありえないほどに減少する。ユマがよく理解する言葉で表せば、極度の減圧が起こる。

 ユマは、体内の精霊を直に操作する魔術を最も恐れた。むしろ恐れていたからこそ、今の状況が自分の身体に及ぼす影響に気付いた。

 勝ち――である。

 引き金はユマが握っている。ユマを殺せば、集めた金精は恐らく散り散りになる。そうなればエイミーは助からない。運よく死を回避できたとして、重篤に陥る可能性が高い。一生ものの障害を負うかも知れない。そしてオロ王国の医術体系は、この分子レベルで起こる病理を確実に解明できないだろう。オロ文明は確かに偉大であろうが、光学顕微鏡で観測するサイズの物質を想定してはいないはずである。学問好きのアカアと話すことの多かったユマだが、そのような話は聞いたこともない。オロ王国の術体系は、それが及ぼす効果は実に綿密に研究されているが、精霊が発火する機序は彼らにとって飽くまで仮説であり、多くの人々がミクロの世界を観測する可能性にすら気付いていないのだ。

 ユマの想像が決着の形まで及び始めた時、エイミーが動いた。


「えっ――」


 反射的に、ユマは少年の右手から放たれた光の粒から身をかわそうとした。だがそれらは空中で明らかに減衰した。

 ユマは頭を庇うだけで事足りた。散弾弩発はただの石ころと化したのだ。


(もしかして、確かめた?)


 ユマには、降伏勧告に偽りを見たエイミーが自分を試したように見えた。しかし、他人の心を読める人間がそんなことをするだろうか。あるいは、ユマの知識に誤りがある可能性を見出したのだろうか。

 視界が揺れた。一瞬、地震でも起きたような錯覚に陥ったユマだったが、自分とエイミーを囲っていた土の壁が地面に戻ってゆく様を見て、胸を撫で下ろした。


「アルン、降伏しろ」


 これでいい。エイミーの目的は未だにはっきりしないが、殺すほどのことではない。これほどつまらぬ争いで人死にほど虚しいことはない。

 と――その時、頭上に妙な圧を感じた。上を仰ぎ見るより先に、周囲が暗んだ。

 いや、空が暗んでいた。分厚い雲が不自然な速さで天上を覆った。

 不意に鼓動が高鳴る。期待からではない。それとは真逆、言い知れぬ不安が腹の底からよみがえる。


「お、おい。今更何をするつもりだ?」


 失態――思わず不安が口をついて出た。いや、エイミーの前で言葉は無意味だろう。


「……鵬落ほうらく


 囁くような声、しかしそれはやけにひやりとした温度でユマの鼓膜に届いた。

 鵬とはおおとりのことだろうか。翼を広げれば天を覆うほどの巨鳥が落ちてくるとはどういう意味か。それがわからぬと悩むには、ユマには心当たりがあり過ぎた。


「嘘だろ……? そんなことが――」


 出来るわけがない。大いなる自然の災禍を一個の人間が再現してみせるなど、あり得ることではない。だが、それもすぐに否定された。ユマの目の良さは、夥しい量の雷精が、エイミーを介して天空に昇ってゆくのをとらえていた。

 彼の周囲から微かに漏れ出た雷精が、薄い木板を割るような音で鳴る。そしてそれらは空気中に充満した金精に弾かれる。まるで威嚇するように、それはエイミーからユマに向かってひっきりなしに漏れ出ては、微細な電光となった。

 鵬落の術。ユマの予想が正しければ、電圧にして十億ボルト。ユマはそれが自分に向かって矢を引き絞っているのを確信した。


(本気だ――! こいつ、本当に俺を消し飛ばすつもりだ!)


 ガオリ侯め、エイミーごと俺を消すつもりか――という叫びを、すんでのところで飲み込んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ