第八章「アルンを殺せ」(8)
何故この場にエイミーがいて、しかも市民を煽り立てるアルンに扮しているのか。それだけがユマの脳内を支配していたかというと、そうではない。
(まずい……)
今の状況が――である。
今でこそユーユという仮の名を名乗り、身分を隠してはいるものの、ユマは紛れもなくティエレンの主ユマ・ティエル子爵である。それが、市民同士の小競り合いに直接介入するということは、大きな意味を持つ。
フェペス・ローファン抗争は、ローファン伯が勝利し、第三者であるユマにティエレンが委ねられることで終結したというのは、飽くまで表面的な話である。実際、フェペス遺民の反ローファン感情は以前にも増したことは明らかであるし、ローファン移民の危機感はそれに比例している。
ユマとしては、死んでも下手を打てぬ問題なのである。ティエレンに向かう道中も、この街に落ち着いてからも、ユマはそれだけを考えていた。それが、何を考えているかわからぬエイミーの暗躍で散々にかき回され、しかも巻き込まれた。
いつまでユーユという仮の姿を保てるかなどという期待に、ユマはすがることができない。問題が大きくなればなるほど、それは不可能に近くなるからだ。いや、ユーユという人間はこの問題において全くの無力であると言い切って良い。
(俺の中の声よ、今は戦うなと言わないのか?)
ユマは、もうしばらくは聞いていない何者かの声のことを思い出した。あの「何者か」は、どういう訳かエイミーを毛嫌いしていたようである。
不思議なことに、エイミーも何か迷っているのか、逃げもしなければ戦いを挑んでくるわけでもない。不可解な膠着が二人の間に起こっていた。
ふと、蹄鉄が地面を叩く音が聞こえた。それも一つや二つではない。
(クゥか。いったい誰の命令で出てきたのか?)
ユマの思慮の外でその判断を下した者は、恐らくデアであろう。ユマはあたりを見回した。少し離れた場所で濛々と煙が立ち込めている。領主が指をくわえて見てて良い事態ではない。兵を発するという判断そのものは、妥当極まりない。
「おい、『アルンとやら』! お前の目的は何だ?」
ユマはエイミーへ向けて問いかけた。エイミーの返答次第で、ユマは覚悟を決めねばならない。
「フェペスの復興!」
エイミー――他の者からすればアルンその人――の周囲の男達から「おおっ!」と歓声を上がる。
「フェペスはもうティエレンの主じゃあない」
「誰がそんなことを決めた? 名ばかりの王か? それを決めるのは我々フェペスの民であるべきだろう?」
「今は退け。取り返しのつかないことになるぞ」
「今は? お前にはティエレンを焼き尽くす怒りの炎が見えないのか? さあ、俺たちに道を譲れ。さもなくば、お前は怒りに打ち震える正義の使徒たちに踏み殺されるだろう」
チッ――と舌打ったユマは、勿論エイミーの目的が理解できない。十中八九、彼はガオリ侯の指示で動いている。それだけに余計に理解不能である。ガオリ侯こそ、フェペス・ローファン抗争終結の立役者ではないか。ユマがティエレンの統治に失敗すれば、彼だけではなく光王の名に傷が付く。それはガオリ侯の政敵であるシェンビィ公の最も喜ぶところだろう。
(まさか、ローファン伯か?)
ガオリ侯に入れ知恵をしてユマの破滅を目論みそうな人物は、彼くらいしか思いつかない。だが、ガオリ侯がそれを許すとも到底思えない。ガオリ侯がユマを始末したがる理由がわからないのだ。
不意に舌が痺れる。
(無くもない……が)
ローファン伯爵邸の侍女リンを媒介にした呪いは、今でもユマを蝕み続ける。呪いの存在に気づいた人物は、ファルケ・ファルケオロやクララヤーナなど、ガオリ侯やローファン伯の味方とは言えぬ者達である。ユマが知らぬ間に宮中でその話が――噂程度であれ――広まり、危機感を覚えたローファン伯が口封じにかかったと考えれば一応筋は通る。
ユマが一瞬思考している間に、エイミーの姿が視界から消えた。
「ユーユ! 上ッ!!」
チタータに言われるがまま、ユマは先程のエイミーと同じように後ろに跳び退った。直後、今までユマが立っていた場所に大きな影が落ち、砂煙が舞い上がった。
「へぇ、面白い術を使うね」
先程のユマの跳躍を真似てみせた本人が言うのだから、奇妙なものである。
どうやらエイミーは自分と戦うつもりらしい。
ユマにとって、エイミーの術士としての実力は未知数である。この少年が世間一般に知られる魔術とは全く違う類の術士であるというのは、ユマが直に目にしたことである。人の心を読み、目を惑わす。それだけではない。ルガ達の証言からすれば、一流の火術士であり、怪力で大男を投げ飛ばすこともできる。
エイミーは確かにユマの思考を読んでいるだろう。その上でシャナアークスやクゥほどの戦闘能力を秘めているとすれば、余計に分が悪い。
(距離を取れば――)
ユマの思考はあながち後ろ向きとは言いきれない。というのも、術士同士の争いにおいて、一つの大きな疑問がユマの頭にもたげているからだ。
シャナアークスの火尖、クゥの弩発、そしてルガの火鴉、あるいは闘士トーラなどの土術や風術――これまでユマが目にした魔術のほとんどが、自分の周囲の精霊に働きかけて、炎などを生成して相手を攻撃する類のものであった。
だが、こと争いの場において、それは果たして効率の良い方法だろうか。シャナークスやクゥは闘士である。闘技場は見世物を行う場であろう。ルガは傭兵だが、彼の魔術は対人間のみを想定したものではあるまい。
エイミーを見れば良い。ユマが一度だけ垣間見た彼の魔術は、誰も傷つけない。だが、その恐ろしさは火尖や弩発の比ではない。また、ユマ自身の舌に刻まれた刻印は、迫りくる火炎よりも、五体を粉々に粉砕する弾丸よりもユマを苦しめる。
ユマが考えていることは、例えば、炎の柱を生み出すほどの魔力を、人体に直接注ぎ込めばどうなるかということだ。シャナアークスやエイミーはそれを行って、人間を軽々と投げ飛ばすほどの膂力を手に入れたが、それを相手に直接放てばどうなるのか。
空術の原理を、例えばエイミーの肉体の中で行えばどうなるのか。想像するに忍びない残酷な光景が脳裏に浮かぶことだろう。
ユマは本物の術士同士の戦いを、闘技場の中でしか知らない。だが、恐らく今考えていることが、本来の魔術を用いた殺戮であると確信する。そういう目で、エイミーが自分を殺しにくると考えると、彼に触れられる距離まで接近されるのは、危険極まりない。名のある貴族が、自前の医術士を抱えているのもここに理由があるのだろう。
(頭に触れて、血管をいくつか詰まらせるだけでいい。大仰な魔術を使うまでもなく、それだけで死ぬ)
ユマが距離を取るという判断に対して持った絶対の確信は、次の瞬間にいとも容易く粉砕された。
先程、ユマがこの場に乱入した時に見せた空術の応用を、エイミーは瞬時に理解して応用して見せた。ユマは、弾丸のように自分に襲い掛かる敵を向かい撃たねばならなかった。
咄嗟に、地面に打ち捨てられた剣を手に取り、跳びかかるエイミーに向かって剣を立てた。
(切っ先を向けないのか?)
ユマは思わず自問自答した。エイミーは真っ直ぐこちらに襲い掛かってくるのだから、剣を向けて迎撃するのは当然だろう。それが、防御に専念するとでもいうように剣を立ててしまった。振り下ろすのでもなく、単に相手をやり過ごそうという構えである。
このような中途半端な判断は、死に直結する。それは幾度か死線を潜ったユマにもわかることである。だが、同時に、これでいい――とも思った。
エイミー――いやアルンを完膚なきまで叩き伏せたところで、何の解決にもならないのである。
ユマは、今はユーユと名乗ってはいるが、ティエレンを統べる者にはそれ以上が要求される。何がユマにそれを背負わせるのか。
エイミーの突進を受けた瞬間、ユマは死に物狂いで風精に働きかけた。凄まじい突風と共に、エイミーの軌道が少しずれ、ユマは逆の方向に吹き飛ばされた。
「くぁッ!」
いつだったか。クゥの竜機に叩き飛ばされた時のことを思い出しながら、ユマは地面を転がった。追撃を予想してすぐさま立ち上がった時、衝撃に尻もちをついたチタータを見下ろすエイミーの姿が見えた。
少年は、感情の色を持たぬ瞳で女を見下ろしていた。
「クソ餓鬼ッ! その女に手を出すなよ」
手を出せば殺す。思わず叫んだユマに、エイミーが淡く微笑みかけた。
瞬時に沸騰したユマの脳内は、あまりにも味気ない少年の笑みに当てられたかのように、急激に冷めた。これ以上の躊躇は許されない。今の言葉は心からのものだった。だが、果たしてそれでいいのか。チタータのような者達は、果たして如何様にして守られるべきであるのか。
「来いよ、『アルン』」
どうやら自分は、これしか知らないようだ――と、いつかの戦いを思い出しながら、ユマは全ての覚悟を決めた。