第八章「アルンを殺せ」(7)
初めて、ルガの瞳に灯った炎が揺らいだ。
アルンはそれを見透かしていたように微笑する。
――さあ、早く死ねよ。
無言で促す。自死する暇を与えているだけ慈悲深いだろうとでも言わんばかりだ。
と、その時――
「ルガ、馬鹿なこと考えてんじゃないよ!」
後方からの女の声に、アルンは思わず振り向いた。その女――チタータが不敵に笑っていることが、アルンには不可解だったのかどうか。しかし彼はすぐに己の過ちに気づいた。諍いの最中に敵から目を放すなど、許されぬ愚行である。
アルンがチタータの方を振り向いた瞬間に、ルガは既に飛び出し、火鴉を放っていた。
両手から繰り出した火炎の粒が、一呼吸の間にアルンの背に降りかかり――
「――ッ!」
届かない。
一歩を踏み出した瞬間、ルガは膝から崩れ落ちた。倒れ間際に術を放つも、それは遥かに逸れてアルンの取り巻きの足元に落ちた。
「うおぉっ! 熱ッ!」
無様に取り乱す取り巻きとは対照的に、アルンは冷静にルガから更に距離を放した。最初からそうすべきであったが、人質の背後に回り込んだ。
「怖いな」
嘘を付けと言いたくなるほどの余裕である。そしてルガにはもはや、戦う力も、アルンを罵る力も残されていなかった。元より戦いに赴ける状態ではなかった男が、ここまで孤軍奮闘したこと自体が既に奇跡だろう。素人相手とはいえ、一対多の戦いは無謀に過ぎる。
決した。ルガはもう立てない。
如何に気力を振り絞ろうとも、これ以上はない。そう観測したアルンは、実に正しい。正しいが、戦いの終わりが何か、彼よりもルガの方がよく知っていた。
「まだやる気か?」
呆れ気味に声をかけたアルンを、地面に伏せた男が睨めつける。
――それは「もうやめてくれ」ということか?
ルガの目はそう言っていた。
この戦いは俺かお前のどちらかが死ぬまで止むことはない――と。
「馬鹿な――」
言いかけたアルンの目が、今度はチタータに向いた。この女はルガをよく知っていてそう言ったのだろうかと。だがアルンの興味も一瞬のことだ。今しがたルガから注意を逸らして肝を冷やしたばかりであるから、再度チタータに目を向けた時点でアルンの不注意は相当なものだろう。
ルガの目は死んでいない。だが、何も出来ない。
にも関わらず、アルンは止めを刺せない。何も出来ないに違いないが、何をするかわからないとアルンやその周囲の者に思わせるほどの気迫が、今のルガにはあった。
無言の咆哮である。
いったい何が余所者に過ぎないルガをここまで突き動かすのか、誰にもわからない。ただの傭兵崩れが、フェペス遺民を虐げる――と彼らは信じている――ローファン移民を命を賭してまで守る理由がどこにあるのか。傭兵らしく、金を貰っているからだろうと思っている者はいる。だが、いざ眼前で戦って果てようとする男を見ると、男たちはたじろいでしまう。
(その程度の志でよく人を殺そうなどとほざけるな……)
ルガの心中で渇いた笑いが響いた。愚か者どもを嘲笑ったところで、今は何の意味もない。不可解極まりない変化を遂げたアルンは大いなる脅威である。それをどうにもできない自分が腹立たしくて仕方がない。
アルンは、止めを刺さずにじっとルガを観察している。あるいは、このまま死に絶えてくれれば楽で良いとでも言いたげである。
(動け! 俺の体よ、動け! ここで動かないのなら死んでしまえ! 死んでもいいから動けッ!!)
必死に四肢をもぞつかせるルガの上から、冷たい声が落ちた。
「なるほど、時間稼ぎか。クゥからの救援が来るまで持ちこたえればどうにかなると。だがな、ルガよ。仮にクゥがお前に加勢したとして、あの薄情な連中が人質を助けようと思うかな?」
恐らく、アルン以外は誰も予想だにしなかったことなのだろう。周囲の者達は彼の言葉を聞くなり明らかに動揺した。このまま宮殿まで突き進むつもりの彼らが、いざティエル子爵の勢力と敵対するという言葉を耳にした途端に顔色を変えたのだから、ルガでなくとも愚物と唾棄する他ないだろう。
(助ける。あの『男』なら、必ず!)
ルガは背水の陣でこの戦いに望んだが、アルンが口にしたことを心のどこかで期待してはいた。そしてルガの期待はアルンに見透かされた時点で、賭けに変わった。それは恐怖との戦いを意味した。
「ふーん、じゃあ殺すか」
あっさりと、アルンは最悪の答えを導き出した。
「下衆め……」
「いや、お前だよ、ルガ。お前を殺すと言ったんだ」
アルンは部下に指示しようと左右を見たが、誰もルガに撃ちかかろうとしない。闘志で既に負けている。
やれやれ――と、ついにアルンはルガの眼前に立った。
(おかしい。何故危険を冒す?)
今まさに殺されようとしている男とは思えぬほどの冴えが、ルガにはあった。
確かに、徹底的にルガと直接対峙することを避けてきたアルンが、虫の息とはいえ敵の前に立つだろうか。以前の彼ならそうだろう。だが、今のアルンからは慎重さと冷徹しか感じられない。
(時間? 宮殿の兵とかち合わないため?)
ルガは、アルンを急かす要素を必死に探した。それが逆転の目を産むかもしれないからだ。剣が振り下ろされ、脳天をかち割られる寸前まで戦況は揺り動くものである。考えることさえやめなければ、露のごとき勝機をつかむことができる。
アルンは急いでいる。何をかはわからない。彼の目的は、もしかすると自分を殺すためだけにあって、ルガという男が死にさえすれば、この暴動が終わるのではないかとさえ考えた。その意味は全くわからない。だがルガの予想が正しければ、アルンは領主とは戦うつもりがない。
この一点にルガは賭けるしかない。時間稼ぎの余裕はもはやない。火鴉を繰り出すことも叶わない。彼に残された道は、一点に賭けて考えることのみである。
アルンは腰から剣を抜き、切っ先をルガに向けた。躊躇いなど微塵も感じられぬ突きが繰り出される刹那、ルガの脳内で一つの答えが爆発した。
(クゥだと? 何故領主と言わない? 待てよ、お前が避けたいものは――まさか)
瞬間、甲高い金属音の後、全ての音が遮られた。
アルンの持っていた剣は、彼の足元で砕け折れていた。切っ先は何処へ飛んでいったのかすらわからない。それほどの衝撃が彼の手元を襲ったのだ。
「弩発か……」
衝撃の正体を一瞬で見抜いたアルンは、痺れたのか、手をさすりながら横槍の入った右手を向いた。
が、誰もいない。
アルンは確かめるようにルガに向き直った。衝撃で気を失ったのか、顔を伏せている。
「いや、これは――」
何かに気づいたアルンが咄嗟に後ろに飛び去ったのは、的確な判断としか言いようがなかった。ほんの数瞬後に、彼が立っていた場所に――人が落ちてきたのだから。
「ユーユ!」
心底嬉しそうな声を上げたのはチタータである。だが彼女の歓喜はすぐさま悲鳴にかき消されなければならなかった。
髪に触れるかどうかという距離を、火炎が横切った。ついで「走れ! こっちに来い!」と怒号にも似た声が聞こえた。声の主はルガではない。どういう原理か空から降ってきたばかりのユーユが、今度は人質に剣を突きつけていた暴徒に火術を放った。
「動いた奴からさっきのを喰らわす!」
ユーユ――いやユマの威嚇が効いたのか、チタータ達は暴徒達を尻目にルガの元に駆け寄った。
ユマは、ルガという男に最大級の敬意を覚えていた。それは先ほどまで暴徒達が彼に対して抱いていたものと正反対の感情だった。
しゃがみ込み、伏せたまま微動だにしない男を抱き起こす。誰もが、ユマのその行動を妨げることができなかった。アルンまでもが、ただ立ちつくしそれを眺めていた。
ルガは気力で瞼をこじ開けるようにして、強い視線でユマを見た。
「来たか……ユーユ」
微かなつぶやきであるが、ユマは聞き漏らさない。それほどに静かだった。
「ああ、遅れたよ」
「かまわん」
ルガは何かを確かめるように、ユマの瞳を覗き込んだ。そして答えを得たのか、意を決したように再び口を開いた。
「あれは恐らく――アルンではない……」
「ああ、わかってる」
もはや精根尽き果てたのか、瞼が雪崩落ちるようにしてルガは喪心した。
「さっきの弩発――」
少し離れたところで二人のやりとりを見ていたアルンが、ルガの話が終わるのを待っていたとでもいうように口を開いた。
「気付いてたけど、そいつの最後っ屁で避け損ねた」
アルンは見せびらかすように右肩の服が焦げた部分を指した。恐らくルガが最後の力を振り絞って、雀の涙ほどの火術を放ったのだろう。
「ああ、大した男だ。こんなつまらん争いで失っちまったら、やりきれねぇくらいにな」
ユマの語気に強さが加わる。明らかに怒っている。だが、それはルガやチタータ達が期待しているものとは少しばかり毛色が違っただろう。
「今回は『五分もあれば』とは言わないのか? なあ、え? どういうつもりだよ、おい」
ユマは確かにアルンに話しかけてはいた。だが、それは周囲の者達から見た光景である。ユマの瞳にはもっと別のものが映っていた。
透けるような白髪、妖艶な赤い瞳、小柄な体、少女のような顔つき――ユマの前に立ち、ティエレンを覆しかねない暴徒を指揮していたのは――エイミーであった。