第八章「アルンを殺せ」(5)
ルガは意識が朦朧とする中、丁寧に額の汗を拭きとる女の姿を見ていた。
(憐れな女だ……)
チタータと初めて会ったのはティエレンに来てから間もない頃だ。ルガは逃亡兵である。遥々オロ王国まで逃れてきたが、それでもペイル共和国の追手を撒くには十分ではなかった。とはいえ辺境まで逃げて一生隠棲するつもりもなく、吸い寄せられるように無法者が集まる街ティエレンへと至った。
最初に何気ない会話があったような気がする。何を話したかは憶えていないが、故郷に妻子を打ち捨ててきたルガの心は、この女に大いなる慰めを欲しようとしていた。
ひとつだけ、憶えていることがある。
ルガとて一人の女と愛を誓い合った男である。チタータの瞳に誰かの影が映っていることに気づかぬはずもなかった。その影を覗き込もうとするほど、逃亡を重ねるルガの心は荒んでいた。
「知らせを待っているのよ」
女はそれしか言わなかった。何の知らせなのかとルガが問うと、
「何でもいいわ。でも、いつか知らせが来るのよ。それを待ってる」
戦場に身を置いてきた者故の直感か、ルガは彼女の言う知らせが永遠に来ないことを悟った。チタータはそれを知っている。知っていて待つほかないのだ。一人の女をここまで一つどころに釘付けにするものは、ルガが知る限りではそう多くはない。争いと――死である。チタータは死を覗き込んでいる。ルガは彼女の瞳を通して永劫にもたらされない知らせを垣間見た。
「愛する者はいるか?」
チタータが内包する哀しみに触れるように――あるいは抉るように、あえて問うた。
「いるわ」
「恋人か?」
「まあね」
「生きているか?」
「そりゃあ、勿論」
チタータの答えはルガの悲観を振り払うものであったにも関わらず、ルガは己の問いを後悔した。
この女は、嘘をついてはいない。だが、自分の直感は正しい――という確信があった。それが、どういうことなのか、ルガ自身理解できない。理解できずとも飲み込まねばならぬことなどいくらでもある。それは常に後から真実を告げるものだと、ルガは自分に言い聞かせた。
「知らせが来るといいな」
ルガがそう言った時のチタータの顔を、今でも鮮明に憶えている。ちょうど今、汗を拭きとる彼女の顔がそうである。嵐の中で己を叩きつける冷雨に向かって慟哭し、疲れ果てた者の顔だ。憤りと悔しさの果ての果て、哀しみしか感じられぬ微笑――それがチタータという女であった。彼女が過去どのような女であったのか、ルガは誰にも聞かなかった。知ったところでどうにもならない。知ってしまえば、ルガ自身もまた彼女の待つ知らせを一生待つ羽目になるのだろう。
その女の微笑が一瞬凍りついた。
あたりが騒がしい。誰かが部屋に入ってきたようである。
「ナンナが帰って来ないのよ。さっきの男を引きとめに行くって出てったきり――」
女の声だ。生糸を紡ぐ仕事を放っぽり出してまで、決闘騒ぎで傷ついた男が横たわる部屋に何の用だ――とルガが健康なら言っていただろうが、彼女らの職場に間借りして匿ってもらっている分際で言うことではない。
「すぐ帰ってくるって言ったの?」
「言ってたけど、仕事中なのにいきなり出ていくなんてどうかしてるよ」
「最近――というか、新しい領主が来てから、いつにも増して外が騒がしいわ」
「チタータ、縁起でもないこと言わんでおくれ」
どうやら、ナンナという女がユーユを追って出たまま帰って来ないらしい。チタータの言ったことは脅しでもなんでもない。彼女自身、昨日は不良どもに絡まれて決闘に巻き込まれた。ユーユがいなければどうなっていたかわかったものではない。
(追うなよ、チタータ)
そう言ってやりたいところであるが、チタータはルガの言うことを聞いた試しがない。
「話が長引いてるだけかもしれないし、何よりユーユと一緒なら無事に違いないわ。待った方がいい」
チタータがそう言ったことで、ルガは胸を撫で下ろしたが、安堵の息は激しく扉を打ち開く音でかき消された。
「姉貴ィ! ヤバイことになった! アルンがここに来るッ!!」
汗まみれの顔で叫んだのはヌークであった。
ヌークの話では、アルンが手下を集めて既にここに向かっているらしい。
「ユーユって男を追ったんじゃないの?」
その場にいた女が言うと、ヌークは頭を振った。
「ここだよ。連中、昨日の件でかなり頭に来てて、蚕ごと焼き殺してやるって息巻いてる! 姉貴、早く逃げるんだ」
チタータは驚きを隠さずにいたが、ふと横たわるルガを見やると、軽く唇を噛んだ。
「それ見た事か! あの男はアルンとつながってたんだよ!」
「あんたは黙って寝てな!」
ルガの仲間の一人が寝台の上で叫んだが、チタータに一喝された。
「あっ、領主だ。領主に頼むんだよ。放火なんてローファン伯の頃だったら即火あぶりの刑だよ」
女が意外なことを言ったとばかりにチタータの眉が上がる。
「誰がそんなこと言ったの?」
「えーっと、さっき出て行った奴だよ。名前は知らないけど――」
「ユーユが?」
「医術士が要るなら領主に頼めって。領主がいなければクゥ・フェペスに言ったら力になってくれるだろうって――」
「そんな馬鹿な――」
チタータの反応は真っ当なものだろう。ティエレンにおける為政者とは、先代フェペス子爵かローファン伯のことであるが、どちらも民に対しては酷薄であり、善政とは遠い所にあった。
「ユーユが……ユーユ……」
チタータは数秒の間考えていたが、
「ヌーク、あんたは今すぐ領主に知らせて来な。領主がダメなら、クゥ・フェペスに頼むんだ」
「何言ってるんだ、姉貴! 領主なんか何もしてくれやしない! 今すぐ逃げるんだよ!!」
ヌークが言い終わらぬ間に、チタータは彼の胸ぐらをつかんで凄んだ。
「ヌーク、あんたはあたしの弟。あたしは誰よりもあんたを信じてる。でもあんた本当はどこでそれを知ったんだい? さあ、行きな!!」
「うう……」
明らかに動揺を隠せないままヌークが走り出ると、チタータはひとつ深呼吸をしてから言った。
「さあ、怪我人を担ぎ出すよ!」
「担ぎ出すって――何処へ行くんだよぉ」
今にも自分ひとりで逃げ出したいような顔をしている女に、チタータは迷わず答えた。
「宮殿へ――」
言ったばかりのチタータの手を掴んだ者がいた。
女が振り返ると、瞳に静かな光を湛えた男が寝台から身を起こしていた。
ヌークは走った。踏みこみに合わせて二度息を吐き、二度息を吸った。次第にそれも乱れ、大きく肩で息を吸い始めた頃、宮殿が正面に見える通りに出た。
(何故、こんなことに――)
後悔。自分の選択を呪えば気が済むものだが、ヌークの場合はそうではない。
「いったい何を考えて――!!」
誰かに聞かれたとしても要領を得ぬ言葉をまき散らしながら、ヌークは疲れとともに足取りが重くなるのを感じた。
(アルンが姉貴を殺すか?)
わからない。アルンでなくとも誰かがそうするかも知れないが、殺された方がマシという類の暴力はいくらでもある。それほど今のフェペスの連中は怒りに満ちている。
(あの男に――)
ヌークの脳裏に、ひとつの影が浮かびあがった。壮年の男である。彼がアルンの新しい師であるらしかった。新たな領主ティエルの到来と前後して、その者はアルンと接触していた。その者はアルンとしか会わないが、ヌークがアルンと会った時に一度だけ出くわしたことがある。
ヌークが考えたのは、その者にアルンを制御してもらう他ないということだ。そんなことが通るはずもないとは心のどこかでわかってはいた。
「ジェヴェ……俺はどうすればいい……?」
虚空を見上げた時、宮殿の門が開き、騎乗の戦士が飛び出した。その中に、先程浮かび上がった影を見つけた時、ヌークの背筋が凍りつき、呆然と立ち尽くした。ヌークは姉を含む全てを失う覚悟をせねばならなかった。
ティエレンの一角から煙が上がっていることは、宮殿から遠望してすぐわかることであった。
クゥ・フェペスはすぐさまこのことを長老会議の長デアと協議した。第一の問題は、
「主がこれに巻き込まれているか?」
であったのだから、フェペスの家系が民に酷薄であるというのは、伝統なのだろう。それでいて彼らを慕う民が多いのだから不思議といえばそうである。ただし、他の領地と比較すれば――ユマの価値観で計ればの話だが――フェペスの治世は良くはないが他よりましというべきものであった。
ユマが街の若者たちの決闘騒ぎに巻き込まれたとすれば、クゥは直ちに兵を率いて救出――いや、介入すべきだと主張した。彼女があえて理由を説明せずとも、これにはデアも同調した。
クゥは当然と受け取ったが、他の者達は全く要領を得ぬままに鎧姿のクゥが兵を率いて出撃する様を見送った。
「待つのではなかったのですか?」
馬を出すように命じられたホウは、暢気にもクゥに訊いた。
「あの人は待たないのよ」
どこかなじるような口ぶりであったが、クゥは一切迷わずに馬に跨った。