第二章「闘士衝冠」(2)
闘技場はヴォンの南郊にあるらしく、アカアはいつになく興奮した様子で御者を急かした。その様を見たユマは、自分のせいでアカアが父からの言いつけに逆らったことで、ローファン伯に悪印象を与えやしないか――と、ほのかな焦りを覚えたが、アカアを見るに彼女は両親の愛情をたっぷりと受けて育ったようであり、苦笑と共に彼女を許すだろうと楽観した。ユマはここでローファン伯に対する事後の想像を終えたが、ローファン伯がやさしいのはアカアにだけであり、自分にもそうであるとは限らないという常識が抜け落ちてしまった。ユマにはアカアの気分を損ねてまで闘技場行きを中止する意思はなく、成り行きであるから仕方が無いという、歳不相応な無責任を行っている自覚は無い。ある意味、幼稚な手法ではあるがしたたかに責任を回避したアカアよりも、幼い。
馬車を急がせただけあって、ものの十分で南郊に入った。健脚のヌルが脱落するくらいだから、アカアの興奮は尋常ではない。従者を待つために噴水の前で馬車を止めた。
「光精の泉です」
と、ヌルたちのことなど気にも留めていない様子でアカアが言った。彼らが追いつくまでの間に先生を退屈させないようにしたいと思っているらしかったが、ユマにしてみればそんなものは厚意でも何でもない。
「ここが……あの紋章の?」
国が興った神聖な場所を平然と紹介するアカアが不思議だったが、それもそのはずで、
「これはただの噴水です。光精の泉は、実はどこにあったのかわからないのです。同じ名で呼ばれるものは実は西のリの街にもあり、闘技場や精霊台にもあります。本物がどれであったのかは今や誰にもわかりませんが、王都の人はこれら全てがそうであると認めています。ただ、光精の泉がいくつもあるのは、さすがにおかしいので、新年を祝うと共にその年の泉が決定されます。今年はこの場所が光精の泉となるわけです」
今、ユマの目の前にある光精の泉は、アカアの言うとおり、何の変哲も無いただの噴水にしか見えない。そう考えてみると、噴水の中央で甕から水を注いでいる女神像――恐らく初代オロ王だろうが――が儚く見えた。
アカアが話し終えてから少し後になって、ようやくヌルと数人の従者が追いついたが、ヌルの目に小さな怒気を感じたユマは思わず目を逸らした。
(また、やってくれたわ!)
リンに何やら耳打ちされたヌルは、一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。彼は小さく舌打つと、
「お嬢様はここでしばしお待ちください。闘技場へは私が案内いたします」
と、アカアの前で跪いた。
「ええっ!? そんなぁ……」
アカアが泣き出しそうな顔をしたので、ユマは思わず彼女を弁護したくなったが、ヌルに睨まれると声が出なくなった。
(お嬢様をこれ以上振り回すな!)
ヌルは十歳の頃からローファン家に仕えている。五歳になったアカアの警護を担当したのは二十二歳の頃で、それからの十年間、彼は心身を賭してアカアを守り続けてきた。ひょっこりと現れた奇妙な旅人に、アカアが夢中になっているのをみて、不快でないはずが無い。
ヌルが本当に恐ろしいのは、アカアはただの興味本位でユマを傍に置いているようだが、それがいつ恋慕の情に変わるかわからないことだ。身分の違いすぎる二人が決して結ばれることはないが、人間の感情はそういった垣根を容易く越えてしまうことを、彼は知っている。ヌルは感情を脇においても、ユマとは根本的に合わぬ何かを感じており、すぐにでもアカアの元から消えて欲しいというのが、彼の心情だった。根本的に合わぬ何か――というのは、アカアにとって不吉な何か――と同義だ。あえてアカアの意向を無視して彼女の闘技場入りを阻止したのも、ローファン伯の言いつけを守るためでもあるが、それ以上にヌル自身がユマという男に不吉を感じていたからだ。
表面だけを見ればアカアがユマを振り回して遊んでいるだけだが、ヌルが冷静に見てみるに、ユマはアカアの厚意に甘えているだけであり、しかも彼女からそれを巧みに引き出しているふしがある。
ヌルは雄々しく生えた顎鬚を撫でつつ、ユマの反応を観た。
――なら、そうしよう。父親の言いつけは守るように。
ユマがきっぱりとそう言えば、ヌルは彼を見直しただろうが、当のユマ本人は頭をかいたり、意味のわからぬ笑みを浮かべたりで、何かを喋りだす様子がない。
(こいつは馬鹿だ)
と、ヌルは心中で唾棄した。この程度のことすら自分で決められないのか――と、同じ男として怒りすら覚える。それともまたアカアから情けを引き出そうとしているのか。
「では、行って参ります」
ヌルは冷ややかな口調でそういうと、ユマの腕を強引につかんで馬車へと乗せた。御者は心得ていて、ヌルが何を言わずとも馬車を発した。
「あれ……あれ?」
ユマは戸惑った。自分が行ったことに過失があったのではないかと思い返したが、ヌルの機嫌を著しく損なうほどの何かをしたという自覚は無い。
アカアが見えなくなったところで、ヌルは馬車に飛び乗った。彼が突然相席に座ってきたので、ユマは驚いたが、ヌルは何を言うわけでもなく、無言の圧力をユマに与え続けた。ユマはユマで、彼の悪意を感じ取ったのか、むっつりと口をつぐんだまま一言も発しなかった。
車輪が、からからと石畳を打つ音だけが、車内に響いた。
さて、闘技場である。
「ローマのコロッセオほどじゃあないが、見事なものだ」
ユマが感想を口にしたように、彼の視界に入ってきたのは石造の円形闘技場だ。高層ではないものの、客席は段々に盛り上がっていて、千人規模の観客を収容できる。
「アカア様がおられないから、中には入れないぞ」
と、ヌルが忠告したが、ユマにとっては外観を見るだけでもそれなりに楽しめた。それにこの人だかりだ。
「この国の戦士は、どうして薄着なんだ?」
ユマがそこらを歩いている女戦士を見ながら言うと、ヌルは表情を変えずに答えた。
「あれは戦士ではなく、騎士だ。赤い四位冠をつけているだろう。それに、四位冠でもあれは闘士賞冠だ」
ヌルが何を言っているのかさっぱりわからないユマだったが、よく見ると、女の頭にちょこんとした冠が乗っている。闘士賞冠というのは、闘士に賞される冠という意味だろうか。だとすれば、目の前の女は高名な闘士かもしれない。
「騎士は薄着なのか?」
「騎士が薄着になるのではなく、闘士がそうなのだ」
「(騎士なのか闘士なのか、どっちなんだ?)……ああ、見世物ってことね」
ユマのその言葉に、背が高く、肌黒い女騎士――あるいは闘士――が振り向いた。目に険の色が見える。
ヌルは慌ててユマの口を塞いだ。
「滅多なことを言うな。殺されたいのか?」
ユマはしばらく口をもごもごさせていたが、何故伯爵に仕える者が、たかが闘士に気を使うのだろうと首を傾げた。
「さあ、もう戻るぞ」
そういって馬車に戻ろうとしたところで、どこからか小さな歓声が上がった。
ユマが振り向いた先には一乗の馬車があった。それを覆うようにして人垣が出来ている。
――クゥだ。
誰かが言った。同時に、馬車を降りるなまめかしい肌色が見えた。
「おや、さっきの女戦士じゃないか……」
ユマは深海のような髪をした女戦士のことを思い出した。髪の蒼さに遠慮するようにして、赤いリボンが風に揺れた。
クゥと呼ばれる女は、ユマが後姿から想像した以上に美しかった。目鼻立ちがしっかりと整っていて、唇が薄く、闘士であるというのに雪のように白い肌には傷一つない。アカアより少し高い程度の背は、闘士であるには不足のように思えるが、岩石のようにごつい女では人気が出ないのだろう。ユマは彼女のことを適当な相手と戦って勝つだけの、アイドルか何かだろうと思った。
(おやおや……ちいせぇ、ちいせぇ)
大きく盛り上がった胸甲の下を想像したユマだったが、腰のあたりの涼やかさからいって、見かけほどではないかもしれないと思い直した。これまでユマが出会った美女にはアカアとリンの二人がいるが、クゥという女闘士からは、二人よりも粘性が少なく、遥かにさわやかで、儚げなものを感じる。奇妙なことだが、闘士であるはずの彼女が三人の中では最もおとなしそうだ。
「あれはクゥ・フェペスだな。こんな時に見られるとは思わなかった」
そう言ったヌルの声が先ほどと違うので、ユマは、おや――と思った。だが少し考えてみると、何のことははない。彼がクゥとやらのファンであるだけだろう。ユマは観客席でクゥに黄色い歓声を上げているヌルを想像して噴き出しそうになった。
「貴族なのか? 冠をかぶっていないけど……」
フェペスという姓を持っているのに、彼女は冠をかぶっていない。
「赤いのをつけているだろう? あれは闘花冠と呼ばれている」
ヌルの言葉に、ユマは首を傾げた。この国ではリボンも冠の一種らしい。だが、庶民の女もリボンをつけているところを見ると、もしかすると五位冠より低い、下級貴族の女がするものかもしれない。そのことをヌルに問うと、
「闘花冠は、正確には冠ではない。クゥがいつもつけているから、その名で呼ばれるようになった。ただし、フェペス家は騎士爵だから、当主は四位冠をかぶる」
と、納得のゆく答えをくれた。正式な冠でないのなら、街娘たちがつけてもかまわないだろう。もしかすると、街中でリボンの女を良く見かけたのは、王都の流行のようなもので、それを流行らせたのはクゥかもしれない。
「行ってみるか? もっと近くで見てみたい」
と、ユマが言ったのは、彼女に興味を覚えたからではなく、ヌルの反応を観たかったからだが、彼はやはりわきまえているらしく、
「これ以上、お嬢様をお待たせしたくない。もどろう」
と、答えた。ユマとしては面白くない。
やれやれ――と肩をすくめたユマを、ヌルは怪訝そうに見ていたが、馬車に乗ろうとしたところで、風が吹き、ユマのつけていた五位冠が飛んでしまった。小さな冠は数十歩の距離を飛んでゆき、人垣をかきわけて進んでいたクゥの足元に落ちた。
「あらら、よく飛んだな」
ユマは的外れな感想を口にしたが、アカアからもらった冠を放っておくわけにもいかず、連れもヌルしかいないことから、乗りかけた馬車を下り、クゥの方へと向かった。ヌルはユマが冠を飛ばされたことを知ると小さく舌打った。クゥと直に話せるかもしれないという淡い期待はあったのかどうか、彼はユマの後を追った。
「うん?」
クゥは足元に落ちた冠を拾い上げると、自分に近づいてくるユマに気づいた。彼女はそれが五位冠であり、自分から手渡す必要がないことを確認すると、近くに控えた奴隷を呼び寄せた。奴隷が冠を受け取り、ユマの姿を認めたところで、それは起こった。
(……あっ!)
ユマが凍りつくと同時に、向こうもこちらに気づいたようだった。
その奴隷は突然、冠を落として棒立ちになった。
観衆がざわめいた。
「何をしている?」
クゥの近くに侍っていた他の者が鞭を片手に叫んだが、奴隷の耳には何も聞こえず、打ち付けられたように一点を見ている。クゥも、周囲の人々も、奴隷の見る先を追った。
ユマは、信じられないものを見ていた。一瞬の間に、今朝見た夢が走馬灯のようによみがえり、最後に自分が落とした冠を拾う奴隷の顔を思い出した。あれは果たして自分だったのか。自分自身のように見えたが、実は違ったのではないか。では、あれは果たして誰だったのかというと――
「木田……」
ユマがそうつぶやく声が聞こえたわけが無いが、奴隷は足の力が抜けたように地に膝をつき、呆然となった。