八.進展 その1
今日は妙に潮の香りが強い気がする。
ふと強く吹いた風の香りが鼻腔をくすぐった。
ここは江戸幕府が開かれてすぐの頃はまだ海だったそうだ。
それを神君家康公が開拓されたのだと、近所の御家人崩れが得意げに言っていたのを思い出す。
柄にもなくそんな事を考えたのは、無表情でひたすら横を歩く影の薄い相方のせいだ。
しかも今日は殊の外機嫌が悪いようで、ここ半刻以上一言も言葉を交わしていない。
元々そうそう口数が多い性質ではないと知ってはいるが、ここまで沈黙が重いのは初めてだ。
なので、とりあえず「海の匂いがするな」と口に出してみたら、「何当たり前の事言ってるんです、今更」と木で鼻を括ったような、可愛げの欠片もない返事が返ってきた。
分かってはいた。
十分に予測済の反応だ。
だが、冷気すら感じる程の冷ややかさから察するに、どうやら今日はご機嫌ナナメどころか、機嫌の芽すら出る余地がない程に不機嫌なようである。
基本虎之助は機嫌の悪い相手に逆らうという事はしない。
こういう相手に迂闊な態度を取ると痛い目を見る、というのは幼少時から姉に叩き込まれた経験則だ。
とは言っても、いつまでもこうしていては何の解決にもならないのは明らかな訳で。
しかも、その不機嫌の理由について何となく見当もついている。
なので虎之助は敢えて禁忌を犯す事にした。
「ほんと人探しってのは面倒臭いもんなんだな」
「……最初から分かっているはずです」
「そーだよなぁ。だったらなんでお前もそんなイライラしてんだ?」
「うるさいです」
ここ四日、これといった手掛かりを何一つ掴めていない。
その苛立ちは分かるし、一緒にいるのが自分という事でこれは彼なりの自分への甘えなのだと思ってもいる。
が。
だからといって、ここまで不機嫌全開だと正直参る。
「やっぱさ、船ってのがマズいんじゃねぇの?」
「だからといってこの似顔絵をそのまま見せる訳にはいきません」
この一点張りなのだ。
どうしたものかと天を見上げたくもなる。
ふぅっとため息を一つつき、虎之助はそのまま千之輔と肩を並べて両国橋端にある船着き場へと足を向けた。
「おや、紀伊屋の虎之助ではないか。姉上は息災か」
とその時、ふいに後ろから声を掛けられた。
「……あ、山内様」
「どなたです?」
「山内様。久我様の下屋敷に居る人だ」
「そうですか……え?!」
「ん?」
「今、久我様と言いましたよね?」
「おう」
「おう、じゃありません。お屋敷に知り合いの方が居るなら居ると言って下さい」
「え?……あ!!」
「あ、じゃありませんよ、全く。鈍いにも程があります」
「どうした?おりよ殿に何かあったのか?」
「いや、姉貴はめちゃくちゃ元気です。……で何て聞きゃ良いんだ?」
「全く……」
「おい、虎之助。お主一体誰と話しておる?」
「申し遅れました。私、日本橋で何でも屋をしております〇屋の者で、千之輔と言います」
「うおっ?!」
本人としては礼儀正しく名乗って一礼しただけのつもりなのだろうが、やられた方は完全に不意打ちを食らった格好になる。
山内という名の侍は、一声叫ぶと驚いた弾みで横を歩く朋輩の足を踏んでしまった。
「おい、山内」
「す、すまん」
「で?虎之助よ。お主ここで一体何をしておる?」
「人、探してるんです」
「人?」
「若旦那!!」
正直に話し始めた虎之助の袖を千之輔が大慌てで引っ張る。
「ああ、この人は大丈夫だ。姉貴の為に大枚はたいて富くじ買って札入れにしてくれてる人だから」
「ああ……」
微妙に残念感に溢れた相槌が千之輔の口から洩れた。
そう、この山内という男。今風に言うなら、おりよの"太客"なのである。
「それで、一体何事だ?」
「この人を探しているのですが、ご存じありませんか?」
虎之助が無害と言うなら無害だと信じたのだろう。
千之輔は懐から三白眼の男の似顔絵を出し、山内達に見せた。
「おう、この御仁なら知っておるぞ」
「え?本当ですか、山内様?」
「うむ。雲川藩の江戸家老田宮殿だ」
「「雲川藩?!」」
虎之助と千之輔が異口同音に声を上げる。
「そうじゃ。そこの田宮殿だ」
「間違いありませんか?
「間違いない。この目は田宮殿だ。実に良く描けた似顔絵だな」
心底感心したように頷きながら山内は似顔絵に見入り、覗き込んだ同僚まで「おお、似ておるなぁ」と呟きを漏らした。
「千之輔」
「若旦那」
「これヤバいな」
「ですね」
虎之助と千之輔は顔を見合わせると一気に顔を曇らせた。
次回更新は12月16日です。




