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ある低迷の日

作者: キリュン

 ヘデラ・カナリエンシスの蔓がふしだらに伸びて葉を下垂させる。緑色をしたメッシュフェンスの合間を縫った蔓の間から多摩川を跨ぐ水道橋が覗き、高架の小田急電鉄が交差して消えていった。私は吊革を掴んだまま失意の顔をその車窓に映した。換気のためにやや開いた斜め上の窓から外気が入り込み金切り声のような音が車内に漏れた。移り行く風景がある一瞬を留めた静止画のように私の眼に焼き付いて離れない。何気なくスマートフォンで窓の外を撮影すると、流れる景色は曇りがかった背景として映り、ガラス窓に反射する私の顔は自分の内面を強引に直視させるかのようにはっきりとした画像となった。閉ざされた私の憔悴を見つめると垂れ下がったまつ毛から茶色の瞳が覗いていた。厚いまぶたのせいで輪郭全体に茫洋な翳りが見えた。自分の瞳を見つめていると、無性にラムレーズンが食べたくなった。電車は分倍河原駅で停車した。京王線と交差した。また、交差したと思った。扉が開き熱気が車内に入り込んで、押し出されるように私は改札を出て、夏の暑さと粗雑な刈り込み剪定の反動でゾンビのように葉を暴発させたケヤキ並木を歩いた。凹凸の目立つ舗装路にミンミンゼミの死骸が落ちていた。今年はまだ一度もミンミンゼミが鳴いていないと思った。ケヤキの幹元にべっこう色をしたきのこが無数に付着していた。


 コルトレーンのGood Baitに哀愁を見るのは野暮な行為だろうか。リラックス、あるいは間延びに近い空気感が場に充満しつつも、生真面目なコードが曲全体に通底している。後に『至上の愛』を完成させ、スピリチュアルな領域へ到達するコルトレーンの、ある種の実直さがここに伺える。演奏者の裸体を聴衆の前に曝け出し、剥きだしの個を音に乗せるテナーサックスという管楽器に私はある時から耐えがたい苦痛を覚え、いつしかジャズそのものが聞けなくなった。浮ついた私の思考は時を経て甘美な記憶となり気づけば現実と虚構の狭間で身体がもつれている。あの頃、朝日とともに目覚め、ラジオをかけると大抵はモダンジャズだった。Good Baitが喚起するのは、大学帰りに毎日立ち寄ったエクセルシオールのやや深煎りのアイスコーヒーの味だった。22時の閉店まで時間を潰して実家に帰った。ただ人並みに、実家が疎ましかった。


「お知らせ。この木は道路を通行する車や人の安全面に影響を与えることから撤去を行う予定にしております。ご理解ご協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。伐採予定日令枝X年X月上旬」

 10mにも満たないほとんど粗暴な逆三角形を維持したケヤキが金太郎飴のように街路灯と等間隔に植えられていた。その先に信号機があった。信号機のシグナルが明滅していた。


 夏の盛りにも関わらず今年は雨が降らない。風もない。虫もいない。鳥もいない。空だけが雲一つない青色で、生暖かい空気だけが私の顔の横で渦巻いている。

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