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霧に夢中

作者: ユキダマウミウシ

「まだ?」

「うーん、まあ…あと1時間ぐらいかな」

 足をぶらぶらとさせながら、目の前の車を眺める。一定の距離を保って、同じスピードで走っていく。正面から視線を外して莉珠を見れば、緊張の滲む顔でハンドルを握っていた。最初はハラハラしたものの、十何回も共に出かけるうちに慣れてきてしまった。

 グラデーション掛かった山の、ぼんやりした明るさ。密集した木の群。なんて名前だったかなとぼうっと眺めるのにも飽きてくるうちに、トンネルに呑み込まれる。


「ごめんね、遠くて。でもどうしても行きたいところなの!」

 ちっとも申し訳なさそうな声では無かった。笑い始める1歩手前のような楽しげな声だった。トンネルの灯りが莉珠を照らしては後ろへと過ぎる。繰り返し。

「ほなみちゃんと一緒に出かけるの、結構久しぶりじゃない?心配だからもうちょっと機会増やしたいよね」

「今のところは大丈夫なはず…」

「私の名前、言える?」

「莉珠」

「うん、よかった!分からなくなったら言ってね。大丈夫だって思っても定期的にメモ見てね」

 

 莉珠は、私の親友だった()()()

 綺麗にすっぱりと、何一つ残さず私の記憶は失われた。

 ──そうであったのなら、まだ、楽だったのかもしれない。

 いつのまにか、記憶を失い始めていた。

 困るのは、今だってそれは続いていること。日に日に手から零れ落ちていく。何か、忘れたくなかったであろうことが、その感情も一緒くたに死んでいく。

 疑問に思った家族に言われて初めて気づいた。私は何も気づいてはいなかった。だから本音を言うならば、記憶喪失という言葉にずっと実感がない。

 

 

 そして、何度目だっただろうか。

 あの日、顔を知らない人に、馴れ馴れしく話しかけてこられた。親しげに、当たり前のように。久しぶりに会えて嬉しいと笑う。つまり、おかしいのは私の方だった。

 ああまたかと聞いてみれば、かつての親友だったと言う。


 ──ごめん、記憶が無いのだと、そう言えば自然と人は離れていく。忘れているのだから悲しみもない。

 悲しみを持てていたらどれほど良かったことだろう、とも、思えないほどに何の記憶もなくて、何の感情も無かった。


 けれどその時は違った。

 莉珠と名乗り、うん、知ってるよと言った。──驚く私に、私たちは元々親友だった、記憶を失う前に約束した事があるからついてきてほしいと言った。

 その誘いにすぐに頷いてしまったのは何故だったのか。

 記憶を失いつつあることにずっと恐怖していたのかもしれなかった。

 何か、この状態から抜け出すなにかを、ずっと望んでいたのかもしれなかった。

 

 

「寝ちゃってたね〜、疲れてた?」

 いつの間にか車は止まっていた。淡い色のワンピースがドアの外へと翻る。

 それをぼやけた目で見る。昼前の太陽が海に反射して眩しい。開けたドアの先から潮の匂いがした。砂に足を取られながら莉珠の後を追う。

「学生の時はね、電車に乗ってここまで来たの!学校サボって行ったから制服でね。あの時食べたソフトクリーム美味しかったんだよ、まだあるかな」

「……」

 思い出せないのはいつも通り。霧の中を歩くかのように、莉珠の思い出を辿っていく。それが約束、と言う。

 正直に言えば、何故こんな風に連れてきてくれるのか分からない。

 約束と言われたって、私は何も思い出せない。

 私にはもう莉珠しか縋れる人はいないけれど、いつか終わると分かっている。それでもありがたかった。

「お互いにタオルなんて持ってないのに靴脱いで海に入ってさ〜小さいハンカチじゃ足りなかったよ」

「……」

「結局寒すぎてすぐ海から出たんだよね!…どうしたのほなみちゃん、まだ眠たい?」

「……ごめん、私、何も思い出せなくって」

 喋るのを止めて、うん、分かってるよ、大丈夫と微笑んだ。

 本当にこのままでいいの、と聞こうとしたものの、莉珠がおもむろに靴を砂浜に放り出したので聞けなかった。

「ねえ、ちょっと海入ってみようよ」

 ぱしゃ、と莉珠の白い足に波が当たる。青色が深くその上をきらきらと光が揺れる。カーディガンを身に寄せた。

「いいよ私は」

「そう言わずにさ!」

 ほら、桜貝あったよと、淡いピンクの貝殻を見せてきた。早く〜!と声が響く。こうなったら莉珠は絶対譲らない。今までの旅路から分かっている。

 仕方ないので、片足立ちになって靴下を脱いだ。

 

 海の冷たさに驚いた。

 思わず足を引っこめた私を見て、莉珠は笑う。

 莉珠はずっと笑ってばっかりで、何が楽しいのか分からない時にも笑っている。笑い声を背景に、海の境の向こうで揺れる桜貝を探した。見つけた桜色手を伸ばそうとすると、あっという間に波がさらっていった。


 その後1時間ほど遊び、ようやく見つけた小さな巻貝を1つと、小さなシーグラスを2つ、ポケットに入れた。



「このソフトクリームだよ!一緒にバニラ味食べたの」

「じゃあバニラで」

「私は抹茶にする!」

「…ええー…」

 じゃりじゃりと靴下の中で細かな砂が主張している。捲っていたはずのズボンの端は濡れていた。バニラ味のソフトクリームを食む。ミルク感が強く、甘い。

 先に抹茶味のソフトクリームを食べ終わった莉珠は、いつか変わり種のソフトクリームも食べてみたいよね、と呟いた。例えばと聞くとトマトとか?と返ってきた。それはちょっと。

「案外美味しいかもよ?」

 いつか一緒に行こうね、という言葉を、待っているのかもしれない。

 でも私たちはどちらも言わなかった。


 記憶を辿り続ける旅。もし、私が記憶を忘れていくだけで、何にもならなかったら。全部思い出を辿ってしまったら。そしたら終わってしまうのだろうか。

 その時が怖かった。

 記憶を忘れていく私に新しい大切な人は出来ない。大切な人であったのであろう誰かが離れていくだけ。

 だから、こんな私と一緒にいてくれるのは、もう莉珠しかいない。



「ここからの眺め最高だよね〜!前は向こう側のロープウェイに乗って下って、それからあの山に登ったけど…。さすがは学生の体力だよね。今無理じゃない?」

 莉珠は写真を撮るのが好きらしく、いつも持ち運んでる黒色のミラーレス一眼をパシャパシャと鳴らす。

 青空に青々とした山。まだ紅葉は始まっていない。吹きつける風は肌寒い。頭上に太陽が昇りきった。

 控えめなパシャリという音を立てて、私も手に持ったスマホで写真を撮る。海の写真、ソフトクリームの写真、ここの展望台からの写真を、日記アプリに入れておく。

 いつかの忘れきった私のために。

「あ、猫」

「わ、本当だ…!三毛猫かな?」

 パシャ。しゃがんだ莉珠の手元からシャッター音がした。にゃあと鳴いて茂みに消えていく。背を向けていた長髪が残念そうに立ち上がる。途端にぐうとお腹が鳴った。

「ねえ、この後はご飯どこで食べたの?」

 手元のスマホを見てみれば12時を過ぎていた。

 朝早くからの出発で、朝ごはんを食べるのも早かったからだろう。お腹が空いた。

「え?あー…ちょっと待ってね、調べる」

 山に登った向こう側でご飯を食べたのだろうか。それだったら結構遠い。

 一旦車に戻ろうと莉珠が言った。ロープウェイで元の場所まで戻った。



「おしゃれなカフェだね」

「すぐ入れてよかったね〜!」

 メニューを広げて莉珠は悩む素振りを見せている。珍しく何も言わないので、前来た時は何を食べたのかと自分から聞いてみたら、困った顔をした。

「…前は山を登るのに時間をかけすぎて、ここは遠くから見たぐらいだったの。実際には食べてないけど…見たからセーフってことで、いい?」

「え、うん…」

 戸惑う私を置いて、明るく莉珠は喋り始める。苺のパフェあるよ!チーズケーキとも迷うなあ…結構お腹空いたしがっつり食べてもいいよね、ハンバーガー頼もうかな──と。

 記憶を失う前の私と莉珠は、お互いに行きたい場所と食べ物の好みが似ていた、と言っていた。だから、お金を貯めて共に色んなところに出かけていた、とも。

 ──初めてだと思う。昼ごはんを食べなかった?しかも、2人とも特別運動が得意なわけでもないのに、山を登ったせいで?

「ほなみちゃんはどうするの?」

 私のことを見ている栗色の目に気がついた。慌てて適当にメニューを選ぶ。

「じゃあ…このパンケーキにする」

「わ、それ迷った〜!」

「莉珠はどれにするって?」

「ハンバーガーとミルフィーユにするよ!」

 あ、すみませーんと莉珠が店員を呼ぶ。10分も待たずに運ばれてきた。

 ベリーと生クリームの乗ったふわふわのパンケーキは口で溶けた。チェーン店もいいけどこういうところのハンバーガーって美味しいんだよね、と莉珠はミルフィーユをざくざく食べながら、幸せそうに笑った。

 

 

「ねえ、山の上まで行ってみない?多分車なら頂上付近まで行けると思う!」

「前登ったってところの?」

「そう!」

「運転大変だと思うけど…」

「う、まあ…頑張るよ」

 運転免許を持っていない私の代わりに莉珠はいつも運転している。緊張するよ〜と嘆きながら莉珠はハンドルを握った。

 うわ、とか、え、といった助手席にいる時に聞きたくない怖いひとりごとを聞きながら車に揺られるうちに、対向車が減ってきた。

 ようやく緊張が解けはじめたのか、莉珠がぽつりと呟く。

「結局ね、辿り着けなかったの」

 何の話か一瞬分からなくなった。

「上まで?」

 莉珠は少し経ってから頷いた。

 

 

「ここからは歩かなきゃいけないっぽい?」

「そうらしいね」

「じゃあ行こう!」

 カーディガンよりもっと暖かい上着の方が良かったかと思いながら、手をカーディガンのポケットの中に入れた。

 少し先の方で楽しそうに莉珠が歩いている。──今日の朝から思っていたけれど、なんだか、いつもより莉珠のテンションが高い。いや、高いというよりも、空元気とでも言えそうな──。

 色々と考えながら登り続ける。段々と足が重くなってきた。そろそろ歩き始めて1時間ぐらい経っただろうか。

「頂上まであとちょっと…!」

「これ、学生の時麓から登ろうとしたんでしょ…?すっごく無茶じゃない?」

「あはは、だよね…!」

 2人で体力のなさを実感しながら登っていく。そろそろ頂上だと看板が伝えてくれる。

 家族で山登りに行った思い出は残っている。あの時はこんなに苦しくなかったはず。確か中学生の時だから、そこからものすごく体力が落ちているってことなのか。

「これ絶対、筋肉痛になるよね…!」

「足が痛い…!」

 笑うと息が苦しくなるのに、自然と笑えてきた。



「ついた〜!」

「この山、こんな名前だったんだ…」

 山頂標識。

 ようやくまみえることが出来たので、2人して写真をパシャパシャ撮る。私はスマホと水筒だけを持って来たから身軽だったけれど、莉珠は一眼レフを持ってきていたから大変そうだった。

 ここは桜の名所らしく、今はオフシーズン。周りには誰もいない。汗が地面にぽたりと落ちた。

 

 ふう、と息を吐く。乾いた喉を水で潤す。同じようにプラスチックボトルから水を飲む音が隣から聞こえてくる。キャップを閉じながら、莉珠の方を向いた。莉珠も私の方を見ていた。目が合って、莉珠は緩やかに微笑む。

 するりと言葉が喉から落ちてきた。


「ねえ、私たちがここに来たのって、どうしてだったの」

 

 その質問をされることを分かっていたかのように。

 太陽を背にして、ただ、へらりと笑う。


「私たち、心中しにきたんだよ」


 ───薄々、気がついていた。

 栗色の目が閉じる。


「理由は教えてくれなかったけど、ほなみちゃんはもう生きていたくないって言ってて。私もこのまま生きてたってどうにもならないかなあって思ってて」

 最初は海に行って。寒くて寒くて、場所を変えて。最後の晩餐のつもりでソフトクリームを食べて。崖でも探そうかと山に入って。

 栗色の瞳が開かれる。目が合った。一眼レフがばしゃりと音を立てて、空を写す。髪が風に靡く。

「…ごめんね、私、嘘ついてたの。私たち、本当は親友じゃなかった」


 一眼レフが私の方を向く。レンズが私を見つめる。バシャと写した。申し訳なさそうに笑う。

 

「学校では話したこと無かったし、ただ、一緒に旅してご飯食べて…ただ写真撮るだけで、全然、喋らなくって…何だったんだろうね、私たちの関係って」

 でもきっとそれだけじゃなかったのかな。そうでなければ、お互いを心中相手になんて選ばなかった、なんて、言っていいのかな。

 答えを望んでないだろう問いを投げかけられる。もう、分かることは無いけどね、と莉珠は呟いた。


「結局勇気が出なかった。それきり。……約束なんて本当は何も無かったの」

 記憶喪失だって聞いて思わず会いに行っただけだった、何も考えずに、ただ、会いに行っただけだったのと言う。

 それから、迷子のような顔で視線を落とした。

「私ね、もう昔のほなみちゃんのことあんまり思い出せないよ。どうしたらいいんだろう。分かんないよ」

 息を吐く。気づかないうちに呼吸を止めていた。

 でもさ、と莉珠は顔を上げる。感情がごちゃ混ぜになってどうしたらいいか分からないから笑う、というような表情をしていた。

  

「今の方がずっと楽しいの。今のほなみちゃんの方が好きなの。一緒に出かけて、沢山おしゃべりして、──私しか、もう縋る人がいないほなみちゃんの方が、私は」

 涙が1粒落とされた。手を伸ばしてその涙を拭う。

 ───私たちは、前の私の旅路を辿ってるつもりだった。

 昔の『ほなみちゃん』がその旅路で殺されていくとは知らずに。いや、気づいていないふりをしていただけで。


「ねえ、私の親友になってくれる?」

 退廃的な笑顔だった。──ただ綺麗だと思った。差し出された手をとる。

「私にはもう、莉珠しかいないよ」

 

 今度一緒にどこにいこうね、と莉珠が笑う。トマトのソフトクリームが食べられるところにでも行こうかと、答えた。

 それが霧の果ての、私の答えだった。

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