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第一章 泥だらけの猫

 あの夜、アスファルトに激しく跳ね返る大粒の雨の中、私はずぶ濡れで這いつくばっていた。 


 ブラウスのボタンは腰の辺りまで飛び、スカートは捲り上げられ、それはまるで泥だらけの猫のようであった・・・



「隣部屋、何だかうるさいよね」  


 絵美佳がそう言うまで気付かなかった。 


 しかし、可笑しなもので、これまで気にならなかったものが他人から言われた途端、気になって仕方がないものに急変してしまう。 

 佐久間玲子の場合、まさしくそれであった。

 隣部屋の音は一般的な生活音とは違っていた。 


 コンコンコン・・・深夜になると聞こえてくる音は、騒がしいというレベルでは無いが、耳障りこの上ない苛立ちを私に覚えさせてくれる。 


 つまり、私にとっては迷惑な騒音ということである。


 この騒音の正体が何なのか、いくつもの妄想を立てたりもしたが、いつもそれはただの妄想の範囲で終わってしまっていた。


 そして・・・・今夜もコンコンコンコン・・・・


土砂降りの雨は私の視界を妨げた。 


 ポツンポツンと小さく見える灯も、それがどの程度の距離のものか、把握するにはこの雨は強すぎる。 

 傍らに横たわったハンドバッグに手を伸ばし、ズルズルと引き寄せると、地面を流れる雨水が一瞬だけ方向を変えた。


 失意?後悔?何それ? 


 私自身、何故ここに居るのか。 


 何故に土砂降りの雨なのか。 


 何故、灯が小さく少ないのか。 


 何一つさえ分からなかった。


 幸いにも立つことは出来そうであった。 


 私は捲れたスカートの裾を膝の上辺りまで戻す。


 十分過ぎるほどに雨を吸い込んだ布地は使い古された雑巾を連想させ、私はそれを少しだけ搾ったりもしたが、大して変わるはずもなかった。


 ・・・・靴は? 


 手探りで辺りを探してはみたが、ある気さえしなかったし、勿論、あることも無かった。

私は手負いなのか・・・

 全身を滝のように落ちる雨。 



 私は股間に手をあてがった。 


 ・・・・・違和感あり。 


 ・・・・・くそっ。


 私は、暗闇の中、地面につばを吐きかけた。


 このところ、隣部屋からの音が聞こえなくなった。 

 あのコンコンコンコンという騒音だけではなく、ドアや窓を開け閉めする音さえ聞こえない。 


「引っ越したのかな・・・」


 玲子は、それならそうでこの上ない幸せだと思った。


 このアパートを住まいとして八ヶ月。一度たりとも隣部屋の姿を見たことは無かったが、見えない音に悩まされた日常とはこれでサヨナラである。

それにしても、朝からいったい何の騒ぎだというの? 


 インターホンのモニターには、自慢げに警察手帳。

 

 はい、はい。今開けますって・・・ 


 そんなに慌てなさんなや。 


「警察です」


 それは見たら判るって。


「で、何事なんですか?朝っぱらから」


流石に驚いた。


 まさか、隣部屋の奴が死んでいたなんて思いもしなかった。  


 という事は、騒音が無くなったあの日にはもう死んでいたという事だろうか。 


 ただ単に、部屋で病死ならまだしも・・・・


 他人から恨みを買って天罰が下ったか。


 そうなると、あの騒音は何だったのだろうか。 


 警察は他殺だとも事故死だとも言わなかった。 


 ただ、隣部屋の奴が死んだ事に対して何か気付いたことは無いかと。

勿論、私は「無い」と答えた。 


 嘘でも何でもなく、これは真実として。 


 それから暫くは警察が出入りしていたらしく、人の気配に少々うんざりした。 

 いい加減、そろそろ幕を引いてほしい。


 だって・・・・・うるさいから。


 アスファルト道路の両脇は、腰辺りまであるような雑草で、とても夜中に人通りがあるような場所では無かった。 


 それでも歩き出すしかない。 


 あの小さな灯りを目指して。 


 雨は止むことを知らないかのように土砂降りのまま。 


 私は、目に流れ込む雨を時折拭いながらもユラユラと歩を進めた。

剥ぎ取られたストッキングのせいで地面の冷たさが足の指の感覚を奪う。 


 冷たさから痛さに変わったが、今はそれすらも感じなくなっていた。 


 空を見上げると、大粒の雨が放射状に落ちてきて、私はそのまま天に登っていくのではないかという錯覚に墜ちた。


 いくら歩いても小さな灯りは遠くに滲むだけ。 


 近づいてるのかどうか、判断する気持ちも無いままに私は歩いた。


 たまにヘッドライトが私の横を通り過ぎるが、道路の端に溜まった水溜まりを撥ねて私の身体に浴びせるだけで、停まるような様子の車はただの一台も無かった。


 それはそうだろう・・・


 こんな深夜に、それも視界も捉えられない土砂降りの中、ドロドロになった女が一人道を歩いている。 

 これは幻か、それとも・・・・


私は新聞を取っていない。 


 だから、三面記事の類いの情報は全てテレビのニュースから流れるものばかりで済ませている。 


 だからと言って、毎日必ずニュースを見るかと言えば、決してそんなことは無い。 


 それは何故か。 

簡単なことである。生まれ持った性格。 

そう。気まぐれなだけ。



今夜は気まぐれだった。 

本日最後のニュースで切羽詰まった演技をしながら女性アナウンサーが口にした言葉は・・・・


 ・・・・・他殺事件


 そう、隣部屋の奴は誰かに殺されたのである。 


 先日の頻繁な家宅捜索で何かが見付かったのか、はたまた、死体からそう断定したのかは分からないが、とにかく奴は殺されたのである。

しかし、隣部屋の奴が殺され、私が犯られた。 


 まさか、このアパートに何かがあるのではないのか。


 この一つ屋根の下、人殺しと共存しているなど考えたくもないが、状況はその可能性を否定していない。 

 だとしたら、奴同様、私も知らないうちに誰かに迷惑を掛けているという事か。

私は静かに廊下を歩き、部屋では息を潜めるように暮らしている。 


 嫌という程に周囲に気遣いをしているのだ。 


 そんな私が恨まれるはずは無い。 


 ・・・・・・・しかし。

狙われたのは確かなこと。 

 身に覚えの無いことで的にされたのなら、あれは警告ということか。 


 だとしたら、次は命を・・・・



警察には何度言おうかと考えた。 


 しかし、タイミングが悪過ぎる。 


 いわれもない事で冤罪を掛けられてしまう事もゼロでは無いだろう。 


 おまけに、犯られたことを一部始終聞かれるのは分かり切っている。 


 それも事細かに・・・


 そうなった場合、あの夜の記憶が定かとは言えない私は、道理に合わないことを言う不審人物と化し、喜ぶのは警察と犯人だけ。 

 とてもじゃないが、そんな残酷な結果は私は要らない。

この件については口をつぐむことを心に決め、胸のずっと奥にしまい込んだ。 

 犯人は、隣部屋と私の部屋の近くに違いない。 


 そうなると、やはり原因は騒音だということか。


 ・・・・・・真下? 


 この部屋の下か隣部屋の下の部屋の住人が犯人なのか?


 どちらにせよ、面識はない。 


 男なのか女なのか、若いのか中年なのか、今の私には情報が貧し過ぎるのは明らか。 


 見えない人間ほど怖いものである。


翌日から時間を決めて張り込んだ。 


 一般的な出勤時間となる朝と帰宅すると思われる夕方の二回。 


 自分の出勤に影響を及ぼさない範囲で道路に立つ。 

 あくまでも自然体で。



 しかし、どちらの部屋の住人もその時間帯には姿を見せなかった。 


 ・・・・・・逃亡か


 私と同じく警察から職質は受けてるだろう。 


 まあ、それならそれで私の疑いは消えて無くなるから好都合ではあるが。

 その翌日、またもやインターホンが鳴り、またもや自慢気に警察手帳が画面に映し出された。 


 ドアを開けると、「警察です」と改めて言われた。 

 刑事は、この前と同じ人物であった。



「今度は何の御用ですか?」


 さすがに私もうんざりとする。 


「いや、何。今度は他の部屋の人が居なくなりましてね」


「それが私と何の関係が?」



「行方不明になったのは、この部屋の隣の人と真下の部屋の人なんですよ。何かね、貴女を残して周りの人達が殺されたり行方不明になったりで・・・・それで」

「それで?」


「あ、いや。何か気付いたことでも無いかと思いましてね」 


 刑事はいかにもバツが悪そうに作り笑いをした。 

「いいえ、何も」


「音とか声とかは?」


「いいえ、何も気付きませんでしたが」


 私は考える素振りを見せるよりはハッキリと言い放ったほうが良いと思った。さっきの言い方だと私に疑いを掛けているのは手に取るように解る。いや、解るというよりもわざとカマを掛けて私の表情とか振る舞いを観察している。顔はニヤニヤしているが、目は狼そのものである。



「そうですか。付近を聞き込んだのですが、何せ情報という情報が何一つも無くてですね。では、何か思い出したら連絡下さい」


 刑事は、浅村佳祐と書いてある薄っぺらな名刺を差し出すと、「では、また」と行って帰っていった。  私は、部屋に入るなり浅村の名刺を丸めて部屋の角に置いた小さめの黒いゴミ箱に放り込んだ。








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