Act.9 天使と鬼燈(ほおずき)・5
「・・・ディ? アディ? 返事をして・・・アディ・・・!」
暫し自然の生み出す光の芸術に没入していたアディが、耳元で必死にリサが呼び掛けているのに気が付いた。
「──あ、ああ、すまない」
「何かあったの? 怪我でもしたの? 大丈夫?」
ちょっぴり焦った様子のリサが、矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。
「少し歩くとクレヴァス(氷裂)は無くなるんだが、アイス・ケイヴ(氷窟)が途轍も無くデカいんだよ。高さなんか50メートル近い」アディが前方を見やる。「──それに、トトが中まで氷上車で入らなかった理由が判ったよ」
「何か危険な事でも・・・?」
「ケイヴ(氷窟)自体はリトラでも潜れそうなほど広いんだが、上下左右どこもかしこもデコボコなんだ。アンジュレーション(起伏)なんて生易しいものじゃない。氷床には違いないが、殆ど岩場のハード・トレッキングだよ。柔なハーフ(半装軌)氷上車じゃ、とてもじゃないが走破できない」
アディの言った通りだった。平坦な部分が皆無と言って良かった。
手前側数十メートルほどは、まだ鰐の背のような小さなアンジュレーション(起伏)だが、そこから奥へ行くほどに起伏は大きく畝るように盛り上がり、折り重なるようにどこまでも層をなしている。大きなものでは腰高の駱駝の瘤みたいな小山もある。場所によっては小さいが深そうな水溜まりも出来ていた。
「モンスター・ギガスの腹の中を探検しているみたいだ。其処彼処が海洋軍艦のニール・ノッカー(隔壁跨ぎ)だよ。どこを歩いても骨が折れそうだ」
「──テンフォー(了解)、今行くわ・・・!」
「行くって、リサ──」
アディが思わず振り返る。
「リトラで入れそうなのよね?」
そのリサの声が聞こえたと同時だった。
ケイヴ(氷窟)入口、外から差し込む仄かな日の光の中に、轟音と共に横合いから影がふわりと滑り出て来た。翼を目一杯広げた猛禽類のようなシルエットのリトラが、逆光の中で僅かに機体を揺らせていた。
「無茶するな・・・!」
「ケイヴ(氷窟)のこの幅なら、へっちゃらよ」
「リサ・・・!」
アディが通信機に声を上げたが、リトラの機体が見る見る迫ってくる。何かを言っているリサの声が耳元に届くのだが、凄まじい噴射音が洞内に反響して殆ど聞き取れない。
ランディング・ギア(着陸脚)を出したままのリトラが、アディの目の前、比較的凸凹の少ない氷表にそろりと着地する。機体右のメイン・パイロット(主操縦士)側、撥ね上げたキャノピーから、リサの横顔が垣間見えた。アディが出た後、直ぐに、ちゃんと席を移っていたのだ。
「リサ・・・!」
アディが駆け寄るなり、リトラの機体後部がずるっと傾き動いた。アディは一瞬ぎょっとして立ち止まった。どうやら左翼下のランディング・ギア(着陸脚)が、小さな瘤に乗っていたらしく、それが滑ってずり落ちたようだ。
やっちゃった、とばかりにリサが、てへっと小さく舌を出す。
「どっちが向こう見ずなんだか」アディは小さな氷の瘤を蹴飛ばして、リサが出してくれたボーディング・ラダー(機梯)に飛び付いた。「──にしても、腕は良い」
「でしょ」コ・パイ・シート(副操縦席)に腰を落とすアディに、リサが笑窪を浮かてニッと破顔一笑する。「このまま奥へ進む? それとも引き返す?」
「行ける所まで行ってみよう。トト先生が、中に入ったのは間違いない」
「アイシー・ジューシー(合点承知)」
リサはスティック(操縦桿)を握ると、ブースト・ノブを押し込んだ。
噴射音がどんどん大きくなって、リトラの機体が浮上する。怪獣の咆哮みたいな轟音が、洞内を十重二十重に反響する。リサが何かを言ったようだが、まるで聞き取れない。アディはリサの左肩を突き、キャノピーを閉じるよう手振りした。
「──これ全部、氷よねぇ・・・」
ゆっくりと機体を前に進めながら、リサが鮮青に輝く洞内を眺め回す。
「こんな景色、見たことない・・・!」
「俺も初めてだ。こんな光景を目にするのは」
「何だか不思議な雰囲気。本当に天使が住んでいるのかも」
さらに100メートルほど奥へ入ると、氷窟が左に大きく折れていた。僅かばかり天井部が下がった箇所を、リサは難なくすり抜ける。
その先には、幅が200メートル、天上高も7、80メートルはあるアリーナ・ホール(屋内運動館)のような巨大な空間が広がっていた。ただ地氷表は地面と呼べるものではなく、5メートルを超える小山のような氷塊が、文字通り連峰を作って波打つように延々と奥まで続いている。氷表を歩くと先を見通せないため、間違いなく迷子になる。
驚異的な自然の造形に圧巻されながら飛び抜けると、先が再び狭まって今度は僅かに右に折れている。幅50メートルほどに狭まった氷窟を300メートルほど行くと、今度は右に折れているのだが、その曲がっている30メートルほどの長さの部分がぎゅっと絞り込むように狭くなっているのだ。可変翼を前進全開させたリトラは全幅19.9メートル、ギリギリなのは明白でアディでも緊張する難所だ。
「こりゃ、きつそうだ」アディが少しばかり心配そうに、リサを見やる。「──行けるか? リサ」
「うん・・・何とか・・・よっと・・・!」
リサは正面を向いたまま、ちらっとアディを横目に見て掛け声一つ、スティック(操縦桿)とブースト・ペダルに神経を集中する。前方以外はほぼ死角と言って良い。天井部と地氷表の凹凸具合を先読みしながら、左右からの氷塊の張り出しに気を遣い、機体を右に左にちょこっと傾けてはそろりそろりと抜けていく。
「うひょ」
左の翼端が、飛び出した氷塊を数センチの際疾さで掠め抜ける。
それでもアディは、心底感心していた。
“まったく勘が良い”
こんな曲芸じみた飛行では、お飾りのような機戴モニターでは糞ほどにも役に立たない。展開する両翼端とヴァーチカル・スタビライザ(縦立尾翼)を含めた、肌で感じる機体感覚を研ぎ澄ませていないと、簡単に擦って打つけてしまう。ここは九分九厘、勘で抜けるしかない。
アモンで敵艦を見事に撃退して退けたリサの腕は、誇張でも何でもなかった。
「──抜けた・・・ッ?」
「お見事・・・!」
安堵の声を漏らすリサに、アディは満面の笑みで手を扣く。
再び凸凹だらけの氷窟を200メートル程飛ぶと、氷窟は大きく左へ緩曲していた。氷窟の幅は30数メートル、決して余裕のある空間ではないがリサは難なく抜けて行く。
150メートルほど行くと、少しばかり周囲より明るい光が、右手から漏れ込んでいるのが目に入った。進むにつれ光の帯は徐々に大きくなっていき、100メートル先がちょっとした空間になっていて、光はその右真横から差し込んで来ていた。
速度を落としながら、ゆっくりと光の方へ機首を向ける。
氷窟を抜け出た途端、アディもリサも息を呑んだ。
壁だった。壁に見えた。
目の前が塞がっていた。
リサが咄嗟にスティック(操縦桿)を引き起こし、右へ反転する。途端今度は、右手に氷壁が迫って、リサはブースト・ノブを押し込んで急上昇に転じる。
「──な・・・何なんだ・・・ここは・・・!」
そのままシャンデル機動する機体の中で、アディが驚愕の声を漏らす。
抜けた先は、巨大な縦穴だった。
直径は1000メートル、上方は遥か高みにまで続いていて、上の出口は見えない。否そもそも出口が空いているのかも判らない。元々の氷表の標高を考えれば、天辺まで1000メートルや2000メートルあっても不思議ではない。
それ以上に言葉を失ったのが、その縦穴中央を貫く、巨大な一本の柱だった。
柱に見えたそれが、“壁”の正体だった。
ところがそれは、“柱”でもなかった。
「──ボーディ・ニルヴァーナ(常世の樹)・・・!」
固唾を呑んだリサが、思わず口走る。
「こ・・・これが・・・ピュシス・プルシャのエターナル・ワールド・ツリー(世界樹)・・・なのか・・・?」
本当に、“樹”と呼んで良いのだろうか──。
2人とも完全に、この神が作ったような巨木に圧倒されていた。
それを幹と呼ぶにはあまりに太い、直径だと優に500メートルはある。色は深緑に枯れた黄色が混じった、それでいて黒鉄に近い鈍い色だ。
真っ直ぐに伸びる柱は一本の幹ではなく、太さが何十メートルもあるストーク(蔓茎)が、無数に畝り捩れながら絡み合って、一本の幹状を形成している。その捩れ絡まる幹茎からは、同じように捩れ絡まるストーク(蔓茎)を、200メートル離れた四方八方の氷壁に向かって枝茎のように伸ばしている。氷壁へ伸びた枝茎は、そのまま氷壁を突き破るようにして、氷床の中へと侵食していた。
こんな大きく太い“樹”が、折れもせず真っ直ぐ伸びているのは驚異的だった。おそらく四方に伸ばしたストーク(蔓茎)が支えているのだろうが、見えている限りにおいて、幹茎は同じ太さを維持したまま真っ直ぐ上に伸びている。幹周りは1500メートルを下らない筈だ。
リサの操るリトラが、氷壁向かって伸びる枝茎を躱しながら、ヴリクシャ(世界樹)の周りを左回りに旋回する。縦穴周囲の氷壁と“ボーディ・ニルヴァーナ・ヴリクシャ(常世の樹)”との間には、200メートル以上の空隙がある。全長22.2メートルのリトラは、天道虫ほどの大きさに等しい。伸びている枝茎にさえ気を付ければ、周回するのはそう難しい事ではない。
「──リサ」
漸くの事で、アディが少しばかり枯れ上がった声を上げた。
「もう一度高度を下げて、飛び出して来た氷窟の付近を・・・」
そう言い掛けて、アディが突如、大声を上げた。
「リサっ! 見ろ! リサ!」
「えッ? 何、何ッ?」
急き立てられたリサが、慌てて外を眺め回す。
「幹茎から伸びてる枝元だ!」珍しくキャノピーにヘルメットを付けたアディが、興奮するように声を上げる。「──見ろ! あそこにも! あっちにも居る!」
「──何が・・・」
首を突き出し見回すリサが、直ぐさま気付いてそのまま絶句した。
最初は、巨木に着生している、白っぽい蘚苔類か地衣類にしか見えなかった。
見下ろす視界の中、氷壁にまで伸びている多くの枝茎の、その太幹側の袂に、びっしりと密生している。よく見ると、白い苔のようなものは、波打つように微かに蠢いている。
「何よ・・・あれ・・・」
リトラをホバリングさせたリサが、絞り出すような声を上げる。
白く着生しているものは、蘚苔類か地衣類ではなく、小さな生物が密集しているものだった。小さいと言っても寄り付いている巨幹に比してであって、個体としては多少差異があるものの、全長は6、7メートル、体高も1.5メートルはありそうだ。
「リサ、右下の枝茎だ! 見てみろ! 枝を渡ってる・・・!」
その生物はばらばらながらも列をなし、氷壁側から幹茎の方へのそのそと移動していた。氷壁の方には、伸びて纏わりついた枝茎が侵食して氷床に食い込んでいる。白い奇っ怪な生物は、枝茎が食い込む際に穿ったと思しき穴の隙間から、這い出て来ていた。
「まさか、あれが・・・」
そこまで口にして、リサが言葉に詰まる。
「ク・・・クローリング・・・エンジェル・・・?」
アディが喘ぐように言った。
体表の白が、まるでゼリーのように透明感があって輝いている。
両棲類を思わせる粘膜質っぽい皮膚被覆なのだが、ヌルヌル、ヌメヌメと表現するより、キラキラ、ツヤツヤと形容する方が相応しい。まるで腹足海牛のようなその躰は、全体が嫋やかそうで、尾のような部位まで一体に流れるような形態をしている。胴体最前部は首のような僅かにくびれた箇所があって、洋梨を逆さまにしたような頭らしき部分があるが、角のような一対の小さな突起が生えているだけで、目や耳などに類する明確な感覚器官が見当たらず、勿論口吻のようなものもない。
何と言っても一番目を引くのは、胴体前部、中部、後部の3箇所にある左右対になった、拡げた人の手のような6つの翼状の触手だ。先端部分が鮮やかな青色をしており、前部の触手が一番大きく、後部のものが一番小さい。移動する際には、躰全体で一定のリズムを刻むようにして爬行させ、同時にこの6つの触手を波打たせて、滑るように地を進む。扇が拡がるように動く翼状触手は正しく翼のようで、先端の青色が連綿とした軌跡を奇麗に描く様は、見事と言うしかなかった。
ただ、軟体腹足動物や環形蠕虫動物、それこそ爬虫類とも哺乳類とも付かない、得体の知れない生物なのに、不思議と気味が悪いとは感じない。その上、群れを成しているのに、不用意に侵入して来たリトラに対して逃げ出す事もせず、さりとて外敵として排除しようとする攻撃的な雰囲気も全く見せない、謎めいた生物だった。
「ホワイト・サファイア(白い宝石)が泳いでいるみたい・・・」
思わず口を衝いて出たリサの言葉に、アディが大きく頷く。
奇麗、と言っても良いかも知れない。美しい、と表現しても強ち間違いではなかった。
「動いているの、見て。天使が翼を広げて泳いでる」
正しくクローリング・エンジェル(這う天使)だった。
「あの“ワールド・ツリー(世界樹)”と、共生してるのか・・・?」
独り言のように呟くアディが、巨木を振り返る。
「あのデカい木に、糧餉みたいな物が・・・」
そこまで言い掛けたアディが、いきなり声を張り上げた。
「あれ、人じゃないか・・・ッ?」
「──えッ・・・?」
リサが慌てて、枝茎の上を爬行している白い一団を眺め回す。
「そっちじゃない。ワールド・ツリー(世界樹)の幹の方だ」
「え・・・? どこ?」
指差すアディの言葉に、リサが腰を浮かせて覗き込む。
「俺たちが出て来たアイス・ケイヴ(氷窟)の出口から、左回りに4、500メートルほど行った辺り。氷壁にまで伸びてる枝茎の枝元、樹の幹のところだ」
「え・・・? あれ・・・人・・・?」
首を巡らせたリサが、菖蒲色の瞳を眇める。
「クローリング・エンジェル(這う天使)が、2匹ほどいる横だ。寄れるか・・・?」
「大丈夫!」
リサはシートに腰を落とすとスティック(操縦桿)を握り直すと、慎重にマニューバ・ペダルを踏み込む。高度を落としながら、機体をじわりと壁のような樹の幹に寄せて行く。
それは確かに人だった。
手前に寝そべる白い天使の巨躯の陰に下半身が隠れているが、どうやら枝茎の元に座って幹に凭れ掛かっているようだ。アーバン・ブラウンのインシュレーション(断熱綿材)入り防寒着を着込み、下ろしたファー・フードの中に顔を半分埋め、ぐったりとしている。
ざんばらに乱れた白髪が、顔の殆どを隠しているので表情は定かでないが、角質化した耳介の耳が顎関節より下にあり、鼻筋にも角質化した部分が垣間見えるので、チルソニア人らしい。
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written by サザン 初人 plot featuring アキ・ミッドフォレスト




