10【Ⅼ】こちらはほうき星が空に舞い上がりたちどころに朝が来ることでしょう
「もしかして、ゴーストさん?」
リリィはそれを聞き、呆然として隣の男の顔を見上げた。そして言った。
「まさか、シャノワールさん――?」
男は驚嘆しながら答えた。「そのとおりです。僕はシャノワールです」
彼女は戸惑いながら確認を求めた。「証拠は?」
彼は考えた。「星が降り注ぎ大地を揺るがしました。そちらはいかがですか?」
その言葉を聞いて、リリィの胸には後から後から実感が押し寄せてきた。やがて彼女は堪えきれず、涙ぐんで笑った。
「こちらはほうき星が空に舞い上がりたちどころに朝が来ることでしょう」
それはパソコンの画面を通じて、暗殺の依頼のために、二人だけで取り決めた特別な合言葉だった。
「依頼成立ですね」と彼は言って、にっこり微笑んだ。
「シャノワールさんだ」、リリィはそう言って彼の胸に飛び込み、そしてしがみついて泣きすがった。「ずっと——ずっとお慕いしておりました」
「僕のリアルでの名前はKだよ」とKは訂正しつつも、彼女をしっかり抱きとめていた。
「私のことはリリィと呼んでください」
しばし静謐な時を共有する。
間もなくして、Kはリリィの両肩をそっと摑んでその潤んだ瞳をのぞき込んだ。
「いいかい、リリィ。〈ウロボロス〉のボスは僕が始末した。でもまだ終わりじゃない。〈ウロボロス〉の残党が血眼になって我々を探している。だから連中に見つからずにここを脱出しなくちゃならない。わかるね?」
「うん」、リリィは涙をぬぐいながら、こくんと頷いた。それから言った。「でも待って。連れがいるの」
体育倉庫の扉を開けると、バスケットボールや折り畳みマットの発する汗ばむような臭いがむっと鼻をつく。イチカは体育倉庫の隅で怯えたように耳を塞ぎ、しゃがみ込んでいた。が、リリィを認めると、その顔がぱあっと明るくなった。すぐさま駆け寄って彼女の下腹部に抱きつく。
「リリ、くろねこさんとなかよしした?」、くろねこさんとはKのことだろう。
「心配しないで。ちゃんと仲良しした」、リリィはイチカを持ち上げて抱きしめた。それからKの顔を見た。「それにしてもあなたはてっきり〈蛇〉の一味だと思ったわ」
「僕もだ」とKは端的に答えた。
「信じていいのよね?」
Kは力強く首肯した。「もちろん。僕も君を信じる」
「ありがとう」、リリィはもう胸がいっぱいになった。そしてゆっくりとイチカを降ろし、振り返る。「ところでいち早く逃げ出したいのは山々だけど、まだ他にも連れが校舎内にいるの」
「僕もだ」
「できれば合流したい」
「僕もだ」
「そればっかり」、リリィは思わず笑った。そのあと辺りを見まわし、両肘を抱いて身を竦めた。「それにしてもひどく寒い」
「それだけ軽装なら、そりゃ寒いだろう」
Kは脱ぎ捨てたダウンジャケットを拾いあげ、彼女の肩にかけた。
「いいの?」
「穴が空いててよければ」
「はて、穴を空けたのはいったい誰なのかしらね」、彼女はとぼけた顔をしてダウンジャケットに袖をとおす。そのまま両袖で顔の下を覆った。「あったかい——ありがとう」
三人は体育館の壇上に移動して、入口を見つめながらしばらく沈黙した。妙な緊張感が場に張り付いている。たとえゲームの中では能弁に話をしていたとしても、いざ、現実に——実際的な——心弾むような話題の乏しいことを彼女は痛感する。そんな中、イチカが口を開いた。
「パソコン」
「パソコン?」とKは聞き返す。
リリィがはっとして、早口にまくしたてる。「〈ウロボロス〉のパソコンを破壊したの。ハッカーのパソコン。ハッカーは自立型AIでハッキングしていたから、それを失った今、これで〈システム・サクラメント〉も復旧するかもしれない。〈オメガ〉も私が『グングニル』で倒したわ。だからきっとこれで大丈夫なはず」
「ちょっと待って」、Kは慌てた。「情報量が多すぎる。その話、あとでゆっくりと聞かせてくれないかな?」
リリィは相変わらずの自身の口下手に気がついて、思わずはにかんだ。「ええ、もちろん」
「でも君が必死に尽力してくれたのは理解した。偉勲——大手柄だよ。ありがとう」
リリィは嬉しくてたまらず、両手を頭上に差し出した。
Kもその仕草の意図をただちに理解して、自らの両手を伸ばした。
二人で思い切りハイタッチをする。
かつて〈システム・サクラメント〉で何度もそうしたように。
「やりましたね」とKが言う。
「やりました」とリリィも言う。
ふとKは腕時計を確認する。
「ところで、せっかくの気分を盛り下げるようで申し訳ないけれど」とKは言って深刻そうに眉間をつまんだ。「どうやらもう時間がない。これ以上長居するのは危険だ」
「どうして?」
Kは眉間から手を離し、まっすぐに彼女を見つめた。「〈蛇〉の残党がここに向かってる」
リリィは驚いた。「わかるの?」
「勘だけど」とKは肯いた。「お互い連れとの合流は諦めよう。タイムアップだ」
そこでKの背中にそっと銃口がつきつけられた。まったく気配がしなかった。彼の背筋に悪寒が走る。拳銃の主はアイリスだった。
「あんた誰え?」、アイリスはそう言ってKの背中をくんくんと嗅ぐ。「〈蛇〉の臭いはしないけど。むしろいい匂い」
Kは降参して両手をあげた。瞬時に気づく。力量が違いすぎると。
「おそらく俺は敵じゃない。俺は〈ウロボロス〉を潰しにきたんだ」
すかさずリリィが声を発する。「アイリス、その人はシャノワールさんよ」
「シャノワール?」とアイリスは拳銃をつきつけたまま、眉を寄せて聞き返した。「あのゴキブリ駆除の依頼主の?」
「そうよ。だから味方よ」
「へえ、男だったんだ」、アイリスは感慨深げに銃をおろした。「ずっと疑問だったんだけど、〈ウロボロス〉のボスを殺ったのもあんたね?」
そうだ、とKは言った。つづけて問い返した。
「そういう君は最強の殺し屋タナトスかい?」
「その呼び名は好きじゃないの」とアイリスはぴしゃりと言った。「だっていたいけな女の子につけるあだ名じゃないでしょ。せめて暗殺の女王とでも呼んでちょうだい」
どこがいたいけなんだと彼は思ったがその言葉はぐっと呑み込んだ。
「——わかった」、無感動に。
アイリスはリリィに訊いた。「やっぱ、こいつ排除しとく?」
リリィはアイリスに飛びついた。「絶対駄目!」
「くろねこさんころしたら、イチカ、アイリスきらいになる」とイチカもアイリスの服のすそを引っ張って懇願する。
「ぐ――わかったわよ」
そこで糸目の男が音もなく暗がりから姿を現した。
「バイパー」とKはその名を呼んだ。
バイパーは頷いて神妙に言った。
「銃声を聞きつけて〈ウロボロス〉の残党が一斉にこの体育館に向かっています。数はざっと50人足らず」
銃声とはおそらくサプレッサーを装着していない(あるいは装着できない)リリィのリボルバーS&WM19のものだ。
つづけて彼は不服そうに言った。「先輩、通信機切ってるでしょ? 心配したんですから、ほんとに」
「すまない。雑念が入るといけなかったんでな」
「いいですよ、別に」、そう言いながらもバイパーは若干ふてくされていた。「それよりもこれはいったいどういった状況です?」
いつの間にかKの身体にはイチカが無邪気にまとわりついている。
「どう説明すればいいんだろう。でも全員味方だ」
「よくわからないんですが、とにかく早く撤退した方がいいですよ」
「ちょっと勝手に話を進めないでくれる?」とアイリスが不機嫌に口を挟んだ。「とりあえずリリィたちを逃がすのが先よ」
「私も戦えるわ」とリリィがそれに反応する。
「あんたは駄目」とアイリスが即座に制止した。「イチカの面倒を見てて」
「でも――」
「最重要任務よ」、アイリスはまた制止した。今度は至極冷徹に。
「イチカ、リリとくろねこさんといる」、イチカはそう言いながらKにしがみついた。
「えらく懐かれたようね?」、アイリスはその有様を見て、Kを冷やかした。「くろねこさん」
そのとき、怒涛の足音が迫りくる。
「いたぞ!」
体育館の入口から、張り裂けんばかりの怒号が響き渡った。
「男二人に女子供三人だ」と先導する男が叫び狂った。「男はすぐに八つ裂きにしろ。女子供は何が何でも生け捕りだ!」
「さっそくおでましね」、アイリスはターゲットを見据えながら、背中から予備のワルサーPPKを素早く回転させて取り出した。
「微力ながら僕もお手伝いしますよ」、バイパーは瞬時に愛用のグロック17のマガジンを入れ替えて、流れるような手さばきでその上部をスライドした。
絶叫と轟音と共に、総勢48人の〈ウロボロス〉の残党が体育館の入口から津波のように押し寄せる。最後になって、地獄のふたが開いたのだ。
「俺も――」とKも胸もとのピストルに手をかけた。
「馬鹿。あんたはリリィとイチカを連れて、さっさと裏口から逃げて」
「いいの?」とリリィが聞き返す。「相手はとんでもない数よ?」
「いけるのか?」とKも問いかける。
「余裕」、アイリスはにやりと微笑した。
「だったら任せる」
「先輩、ちゃんと僕もいますよ、お忘れなく」とバイパーが自己の存在を懸命にアピールしている。そして拳銃をかまえたまま身をよじり、ビシッとおでこの前で敬礼をしながら、にっと笑顔を見せた。「必ず生きてまたお会いしましょう」
〈ウロボロス〉の残党が発砲しながら走り込んでくる。いまに射程圏内だ。
「行きなさい!」とアイリスはKに発破をかけた。
Kはリリィを見る。「一緒に逃げ出そう」
「うん」、リリィは決心したように頷く。
イチカの手を引いて駆け出すと、背後でアイリスが吼えた。
「できるだけ遠くに逃げんのよ!」
体育館の裏口を抜けると、Kはイチカをおんぶした。
「しっかりつかまってろよ」
「あい」
空はすっかり白んでいた。寒風吹き荒ぶ中、Kはイチカを抱いて、敷地の外へとフェンスをのぼる。リリィもすぐそのあとに続いた。ネオンサインのない明け方の新宿は、まるで誰もいないみたいに静まりかえっていて、いやに鴉が啼いていた。さっきまでの出来事がまるで夢のようだ。
大通りに出ると、道路上はすでに車が走っていた。
「どこに行こうか?」とKは尋ねた。
「わからない」とリリィが答えた。「あなたが決めて」
Kは道路の脇に立ち、手を伸ばして、夜明けのタクシーを停めた。
次回、フィナーレ




