7【K】その可能性は否定できないな
紺色の911カブリオレは、街灯の下、夜の闇に紛れ、バイパーの運転するジープとの距離を後方から詰めていた。深夜だけに、国道上はやけに静かだった。他に車が走っていないのだ。Kは後ろを振り返り、その様子を確認しながら、ジープのウィンドウを全開にした。
Kが尋ねた。「振り切れそうか?」
バイパーが答える。「無茶言わないでくださいよ。あっちは最高速度時速300キロ近くあるスポーツカーですよ? こんなおんぼろのジープじゃ――豹とアルパカくらい走りが違いますよ」
「だったら合図を出す。俺の言うタイミングでハンドルを切ってくれ」
バイパーは深く息を吸い込んだ。それから諦めた面持ちで一気に息を吹いた。
「了解」
911カブリオレはルーフ(屋根)を開けていた。助手席側の黒いニット帽の男がフロントウィンドウに身を伸ばしてライフルをかまえる。走行しているにも関わらず狙いを定めてきた。
「今だ!」とKはどなった。
ジープは右手の追い越し車線に一気にスライドした。ライフルによって、辺りに銃声が響き渡り、前方のアスファルトに命中する。その際、Kはすかさず車の窓に身を乗り出して、ピストルで911カブリオレのタイヤを撃ち抜いた。ほんの一瞬の出来事だった。
Kの銃撃によってタイヤがパンクした911カブリオレは減速しながら、路肩に移動する。
「今のうちに一気に突っ切るぞ」とKはバイパーに言った。
「ハハ、すげえや」、バイパーは安堵し、それに応じた。
念のために昨日とは滞在先を変えていたホテルに戻ると、彼らはそれぞれの部屋で急いで荷物をまとめた。自らが泊まっていた痕跡を残さないために。そしてぴったり五分後にホテルのエントランスに降りて合流する。ホテルの料金はもちろん前払いシステムなので、深夜にチェックアウトしてもなんら問題はない。むしろフロントが無人のほうが都合もよかった。二人はルームキーを回収ボックスに入れて、その場を後にした。
キャリーケースをジープのトランクに詰め込むと、運転はまたバイパーが担当し、Kは助手席で周囲を警戒することになった。
「これからどうします、先輩?」とバイパーは尋ねた。
「また襲撃があるかもしれない」とKは答えた。「面倒だが、一刻も早く〈システム〉に戻ろう。とにかくさっさと東京から出た方がいい」
「わかりました」
車のエンジンは唸りを発し、山梨に向けて進路を取った。
「しかし何者なんでしょうね? 襲撃してきた奴らは。ライフルまで持ってましたよ」
「わからないな」、Kは首を振った。「もしかすると厄介ごとに巻き込まれたのかもしれない」
「〈システム〉の情報が外部に漏れてたってことですか?」
「あの用心深い司令に限ってそんなヘマをするとは思えないが、その可能性は否定できないな」
「それはトランクの中のブツと関係しているんでしょうか?」
「どうだろう? もしかすると我々ハンターを狙っていたとも考えられる。だがどのみち相手はプロではない。プロならもっと慎重に、尚且つもっと執拗に我々を追い詰めてきたはずだ」
「なるほど」、バイパーは目を細めながら小さく感嘆の息を洩らした。
「今のところ追跡の気配はない。とにかく制限速度ぎりぎりまで飛ばしてくれ。くれぐれも警察の検問には引っかからないでくれよ」
「心得ています」
ジープは新宿から高速道路に乗り、河口湖を目指した。深夜なので道路上は空いており、渋滞に引っかかることもなく、運転はスムーズだった。追跡の気配もなく、東京を出ると「ここまで来ると、そうそう追っ手も来ないだろう」とKが言い、バイパーは安堵してひたすらにアクセルを踏んだ。
「問題はここからだ」、しばらくしてKは言った。「あの街に帰るために、どうやって樹海を抜けるか」
フロントガラス越しに見える景色は果てしない森だった。侵入者を拒むように樹々が生い茂り、その幹が行く手を阻んでいる。前回通ったような車が通れそうな踏み分け道は木によって閉ざされており、さらに探索する必要がある。その前に少し休憩した。ジープの中でアップルシナモン味のレーションを食べ、ペットボトルの水を飲んだ。しっかりエネルギーを補給しておかなければいけない。レーションはまだいくらか用意があるし、携帯食も買い置きした。ここに来るまでに飲み水も大量に買っておいた。
「こんなエネルギーバーみたいのだけじゃ、満足感ないですね?」とバイパーがレーションを口にしながら愚痴をこぼした。
「以前は傭兵やってたんだろう?」とKは釘を刺した。「食料があるだけまだマシだと思え」
「まあ、そうですけど――」、バイパーは言葉を詰まらせる。そのあとにっこりした。「せめてすき焼き風味とかあればいいのに」
「とにかく節約しても食料は後四日も持つかわからない」
「あれ、もっと貯えありませんでしたっけ?」
「二人分だからな」
「先輩」、バイパーは思わず感動に打ち震えた。いつしか信用してもらえていたのだ。バディとしての証だと彼は受け取った。
「必ず生きて帰るぞ」
「はい!」
休憩を終えると、樹海の周りをジープでゆっくりと走行した。どこかに入口がないか、二人ともつぶさに目を凝らしながら。いつしか夜は明けていて、薄明るい空には黄金色の太陽が、叢雲の雲底を染めていた。森の奥ではシジュウカラやメジロがしきりに囀りあっている。45分後、ついに森の側面に切れ目が見えた。バイパーはジープを停め、彼らは車を降りて、森の切れ目を確認した。
樹々が口を開くように、洞穴のごとく丸く道を作っている。奥はよく見えない。
「間違いない」とKは地図にチェックを加えながら言った。「ここが今回の樹海への入口だ」
樹海の入口を前にして、バイパーは息を呑んだ。
「入りますか?」
「もちろん」、Kは頷いた。「夜が明けたところだ。むしろ好都合だ」
彼らはジープに乗り込むと、ゆっくりと樹海に入っていった。
想定していたとおり、中は自然の迷宮になっていた。前回とはまるで道が変化している。Kは地図に鉛筆でチェックを入れながら指示を飛ばし、バイパーはそれに従って車を進めた。が、景色が少し変化するだけで、樹海に潜むあの街に向かっているという確証は微塵も得られなかった。コンパスも反応なし。鳥は鋭く啼き、樹々は非難するようにざわめき続けた。そして道はどこまでも誘うように続いていた。
何度も道を往復するうちに、わずかに差し込んでいた木漏れ日が徐々に失せていく。不味いな、とKは思った。大した収穫も得られないまま、もう夜を迎えようとしている。それも体感としてあっという間に。樹海での夜は彼も経験したことがなかった。何が起こるか予想もつかないのだ。とりあえず夜が明けるまでじっと待つしかないのかもしれない。
日が暮れかけるとKは言った。
「今日はここまでにしよう。真っ暗になる前に野営の準備をした方がいい」
「賛成です」とバイパーはそれに応じた。
彼らは完全に日が暮れる前に、落ちている枝や枯葉、松ぼっくりを拾い集めて、薪を組み、焚火をした。火はバイパーがナイフで枝を細かく切ってつけた。どうやら傭兵時代に身に着けた技術らしい。
「懐かしいな」、バイパーは地面に腰を下ろし、焚火に木の枝をくべながらそう言った。「紛争地域で敵軍に追われた時とか、何度か野営しましたよ」
「助かったよ」、Kは礼を言った。「俺一人じゃ焚火に火をつけられなかった」
「いえいえ、バディとして当然の働きです」、そう言うとバイパーは具合が悪そうな表情をした。「っと、ちょっと小便してきていいですか、先輩?」
「もちろん。火は俺が見ておこう」
「すぐ戻りますんで」、バイパーはそそくさと森の茂みに入っていった。
大木の根元でバイパーは機嫌よく、鼻歌まじりに小便をした。やっと先輩に認めてもらえた。それも走っている車から正確な射撃をするような離れ業を容易くやってのけるような先輩に。そんなことを思いながら放尿していると、頭上に違和感を覚えた。なんだか寒気がする。バイパーは恐る恐る木の上を見上げた。
えらく長い小便だな。一方でKはその時、火の見張り番をしていた。もしかすると迷子になったのではあるまいか。ちょっと様子を見てくるか。そう思っているとバイパーの叫び声が聞こえた。
「わ!」、その声は静けさの中、辺りに響き渡った。
Kは手に持っていた枝を投げ捨てて、急いで声がした方に駆けだした。野営地の10メートルほど先の茂みでバイパーがズボンを下げたまま、天を仰いで固まっている。
「どうした?」とKはどなった。
バイパーは上空を指差して振り返る。「先輩、上見てください、上」
彼の前の大木の枝にはロープが張られ、中年のビジネスマン風の男が首を折り、宙に浮かぶようにぶらさがっていた。きっと首を吊って自死したのだ。我々のように生きるために樹海に入るものもいれば、自らの死を求めてやって来る者も少なくない。ハンター歴の長いKもそれをよく熟知していた。
「降ろしてやろう」とKは言った。
「そうですね」、バイパーはズボンを穿き、腰のベルトを締めた。
バイパーは猿のように木に登り、ナイフで死体を吊るしているロープを切った。死体がドサッという音を立てて地に落ちる。そのあとバイパーは身軽に木から飛び降りて着地した。
「せめて埋葬してやりたいところだが」とKは言った。
「スコップがないですね」とバイパーは補足した。
その時、周囲の茂みがガサガサとざわめいた。そのあと声がした。
「ソノニンゲンヨコセ」
「ソシタラミノガシテヤル」
Kとバイパーは何者からによって取り囲まれている気配を感じ取り、辺りを見渡した。
バイパー「猩々?」