6【Ⅼ】大変喜ばしいことです
母子手帳をもらった。でもリリィには自身が妊娠しているという実感がまだない。お腹だって小さいままなのだ。ただ生理だけはこない。
「経過は順調ですね」、コヨイ先生はにっこりとした。「母子ともに健康です。大変喜ばしいことです」
やはり何かの間違いじゃないんだとリリィは思う。私は妊娠しているのだ。父親のいない子供を。自分に産み育てられるのだろうか? 堕胎しようかとも考えた。ただ命を粗末に扱うわけにはいかない。殺し屋だからこそ私は命の尊さを知っている。それに修道院でも子供たちにそれを説いている。
病院の待合室に行くとアイリスが足を組んで固いソファに座っていた。退屈そうに髪を指で巻いている。視界にリリィを認めると彼女は尋ねた。
「どうだった?」
「どうって——別に異常ないわ」
「よかった」
「心配しすぎよ」とリリィは言った。「通院だってまだ4週間に一度でいいのに」
「そりゃ心配するわよ」、アイリスは人差し指を口に当てた。「可愛い妹の大事なんだから」、その瞳は透きとおるほど澄んでいる。「ひとりじゃ心細いでしょう?」
「まあ、そうだけど」、実際心細かった。
「ただ身ごもっちゃった以上、そのうちシスターはやめないとね」
シスターになるにはいくつか資格がある。従順、清貧、貞潔——つまり貞潔に該当する「生涯独身」であることは絶対だ。調べたところによると、独身だけれど、子供がいるというレアケースも認められないようだった。それだと周りに示しもつかないから。
リリィは他の生き方を知らない。シスターをやめたあとの生活が彼女には見えなかった。
「何も心配しなくていいわよ」、リリィの不安を打ち消すようにアイリスは力強く言った。「全部お姉さんに任しときなさい。あたしがなんとかするから」
しかしリリィはうつむいて何も答えなかった。
アイリスはやれやれと宙を見上げた。
病院から帰宅するとちょうど昼食の時間だった。昼食の席でリリィはずっと上の空だった。アイリスは全部お姉さんに任しときなさいと言ったけれど、それでもここを離れる決心はつかない——たとえ我が子のためとはいえ。
昼食のメニューは酢豚とチンゲンサイのスープだった。彼女の箸が進まないでいると向かいの席のユキとアカネがひそひそと小声で話し合っている。彼女たちはどちらも8歳であり、同じ年齢であることも手伝って仲がいいのだ。どこへ行くにもいつも一緒である。
「シスター・リリィ」とユキは呼びかけた。「どこか具合でも悪いの? 食事の手がとまってるよ?」
「そんなことないよ」、リリィは優しく返す。「あんまりお腹が減っていないだけよ」
「昼食までどこに行ってたの?」とアカネが尋ねる。「朝いなかったわよね?」
「シスター・アイリスとちょっとお買い物に——ね?」
「ほんとに?」
「ほんとに」、子供相手に内心ひやひやした。
「じゃあ、そういうことにしといてあげる」、アカネは涼やかにそう言った。
この子たちともいずれお別れしなくちゃいけないのかなあ。リリィは気持ちが沈んでいた。窓の外からは寒気が、彼女の足もとを冷やしていた。病院の帰り道、アイリスに相談したら「なるようになるわよ」と鷹揚に笑っていた。
「シスター・リリィ、やっぱ顔色が悪いの」とユキが言う。
「そうよ。いつもはもっとしゃんとしているもの」とアカネも言う。
不味い。吐き気がする。つわりだ。リリィはうつむきながらすっと席を立ち、急ぎ足にトイレへと駆け込んだ。
ユキとアカネはきょとんとして顔を見合わす。
「一体なんだったんだろう?」
「さあ?」
その様子をアイリスは遠くの席から見ていた。
トイレでひとしきり嘔吐すると少し楽になった。個室の外でパンジーの声がする。
「リリィ、今日はもう部屋で休んでいてください。あとのことは私たちがするから心配しないで。それと必要なものはある? 届けにいくけれど」
「水」とリリィは答える。
「それだけでいいの?」とパンジーは聞き返す。
「あと、できれば果物とかあれば——」
「わかったわ。あとで持っていく。くれぐれも安静にね」
「ありがとう」
「いえ、礼はアイリスに言ってください。全部彼女の指示なので」
「そう——でもありがとう」
「どういたしまして」
これからどうなるんだろう? 私は一体どうなるの? 自室のベッドに顔を突っ伏し、彼女は考えを巡らせた。アイリスに言われるまで、先のことなんてまるで考えていなかったのだ。ここにずっといちゃ駄目かな? と思う。いや、でもシスターたちの足手まといになるだけだ。自立しなくちゃいけない。なんとしても。
部屋の扉が3回ノックされる。パンジーのものだ。リリィはベッドの上で居住まいを正して、息をつく。
「どうぞ」とリリィはどなった。
扉が開く。パンジーがペットボトルの水と皿に載せた苺を持って部屋に入ってきた。それを見てリリィは歓喜する。まさに今ほしい甘酸っぱいものだ。
「苺だ」
「フフ、食堂のスタッフに表向きの事情を説明していただいたのよ。水は500ミリリットルで足りる?」
リリィは大きく2度首肯する。
「パンジーも食べていきなよ」
「私は大丈夫よ。たまに食堂の冷蔵庫から余ったプリンやヨーグルトこっそり盗み食いしているし——」
「え?」
「あ、今のなし」、パンジーはおしとやかに額をこづいた。「内緒よ」、そしてチャーミングに舌を出した。
パンジーが部屋から去るとなんだか静かになった。リリィはテーブルの前に座り苺を食す。甘い苺だった。食べ終えると皿を流し台で洗い、簡易の水切りで干した。
窓の外は青空で、その中空を雲がたなびいていた。良い空だった。外から冷たい風が入ってくる。リリィは窓を閉めると、ベッドの下から段ボール箱(そこには編みかけの手袋が入っている)を取り出し、オーディオでモーツァルトのピアノソナタを聴きながら、クリスマスプレゼントのための編み物を始めた。夕方、子供たちの分がやっと全部編み終わる。彼女は段ボール箱にまとめて手袋を入れその正面に「クリスマス・こどもたち」と太いペンで記載してベッドの下にしまった。あとはシスターと調理スタッフの方たち——大人たちの分だ。毛糸は十分にあったので彼女は棒針をするすると糸にとおした。
夜になるとビオラが夕食をトレイに載せて持ってきた。パンとシチューだ。みかんもある。ビオラはテーブルに食事を置くとさっぱりとした顔をした。
「調子はどう?」
「おかげさまで、だいぶ落ち着いたかも。でもまだ軽い吐き気と頭痛があるわ」
「ちゃんと休んでたの?」
「まあ、無理はしてないわ」
「駄目よ」とビオラは強く言った。「しっかり養生しないと。お腹の子のためにも、リリィが倒れでもしたら大変よ」
リリィはしゅんとした。「ごめんなさい」
「そんな、こっちこそごめん。べつに落ち込ませようとしたわけじゃないから」
「でもビオラの言うことはもっともだわ」、リリィは毅然と答えた。
良い意味でビオラは普通の人だった。あまり暗殺業には向いているとは言い難い。暗殺業に向いている人間は、基本的に頭のネジを瞬時にきつく、限界まで締められる類の人種なのだ。感受性が強く、他者に感化されやすいビオラにはそれができない。
「また一時間後に下げにくるから」、ビオラはそう言って部屋を出た。
部屋が静かになった。
「子供たちに会いたいなあ」とリリィはひとりごちた。
そして黙々と食事をとった。
食事を済ませるとビオラがトレイを下げにきた。
「色々とありがとう」とリリィは礼を言った。
「あまり大したことはしてないわ」、ビオラは満更でもなさそうに答えた。
しばらくすると部屋のドアが開いた。部屋の入口にはイチカがいる。イチカは彼女を認めると「リリ」と言って走り寄ってきた。リリィのお腹に抱きつく。
「まだ寝なくていいの?」
「ねむくない」とイチカは答えた。
「仕方ない子ね」、リリィはイチカを抱き返した。
「えをかいたの」
「どんな?」
「リリとくろねこさんがころしあうの」
「また?」、リリィは冗談半分に聞いていた。
「ほかにもかいたの」
「どんな?」
「あたしがおとーとといっしょにくらすの」
イチカがどこまでわかっていて言っているのか彼女には判別できなかった。でも引っかかるところはあった。
そうこうしているとパンジーがイチカを迎えにきた。
「リリィ、ごめんなさいね。気づかなくて」
「全然」
「さ、イチカ。行くわよ」
パンジーはイチカの手を握って部屋を後にした。
もう来客はなさそうだ。体調もよくなっている。リリィは脳みそを一旦弛緩させた。そしてゲーミングパソコンを起動する。起動するまでのあいだ、彼女はお湯を沸かし、ホットココアをマグカップに入れた。そして膝掛けを膝に載せる。ホットココアを飲みながら待っていると、パソコンの画面が完全に起動し終える。彼女は姿勢を正し、マウスを操作する。
彼女は〈システム・サクラメント〉にログインした。
ビオラ「ないなー、ないなー、あたしのプリンないなー」
パンジー「誰かが食べちゃったんじゃない?(しれっ)」




