5【K】なるべく日の光の差しているときに
東京に来た。東京に来るのは実に三か月ぶりだった。任務で何度か来たことがある。任務というのは主に街中で処分できない荷物の引き渡しだ。そういったものを隠匿するには樹海に潜む〈システム〉ほど都合のいい組織は他にはない。なにしろ市販の地図にさえ載っていないのだから。
「このあとどうしますか?」、バイパーが車を運転しながら訊いてきた。
Kは頭の中で素早くスケジュールを繰った。「荷物の受け渡しの日まで後一日あるな。どこか適当なホテルに入って、一旦解散しよう」
「わかりました」、バイパーは爽やかに頷いた。
神保町のホテルにチェックインした後、Kはジャケットに身を通し、一人で近くのバーに入る。一番端のカウンター席に着くなり、店の主人がオーダーを尋ねてきたので、グレンモーレンジィのハイボールとキューカンバーサンドイッチを注文した。見渡せばカウンターの反対側に男性が二人で愉しげに会話をしている。他に客はいない。そして店内にはマッコイ・タイナーの「スター・アイズ」がかかっていた。一杯目を飲み干すと、きつく締めつけられた頭のねじが少し緩んだ感触があった。それからキューカンバーサンドイッチ(おそらくラップに包んでおいたのであろう。しっとりとして、ほのかに芥子のきいた美味いサンドイッチだった)を頬張りながら、改めて樹海と荷物の引き取りのことについて思いを巡らせた。
まず樹海は生きている。それも注意深く観察しないことには気づけないほど緩やかに。そんなこと、あり得るのだろうか? しかし現実に起こった。これは事実だ。事実は動かしようもなく、受け入れなくてはならない。そしてあの街に帰るには、また樹海を抜けなければならないのだ。どうしたら無事に戻れるのだろうか?
次に荷物の引き取りだ。明日の未明に、人目を忍び、管理者Ⅹの手引きで荷物を受け取る手筈になっている。荷物の中身はわからない。ただその荷物の中身はあまり好ましいものとは思えなかった。「知らんでええ」と管理者Ⅹは言った。そのあと「知らん方がええ」と言い直した。
「お客さん、新顔だね」と店の主人が声をかけてきた。低く、太く、とらえどころのない声だった。
「ええ、まあ」、Kは曖昧に相槌を打った。
「どちらから来たんだい?」
「山梨です」
「山梨?」と主人は特に驚いた様子もなく聞き返した。「あっちには親戚がいるなあ。出張か何かかい?」
Kはひとまず頷いた。「そんなところです」
「お兄ちゃん、なんか深刻そうな顔してるよ? 悩み事? よかったら話聞くけど?」
「いえ、そんなことないですよ。ただちょっと考え事をしていただけです」
「そう?」
「ええ」、Kは微笑んで見せた。
不味いな、と彼は思った。どうやら思考が堂々巡りしているのが表情に出ているようだ。しかしこの世の中において真に「正解」と言えるものが一体どれだけ存在しているというのであろう? ましてや自分が身を置いている状況のことを他の誰かに話したところで、信じるわけはあるまい。頭のおかしい奴だと思われるのが関の山だ。それにあまり詮索もされたくない。潮時だった。
結局Kは答えの出ないまま、二杯目のハイボールを飲み干し、勘定を支払って、その店を後にした。これ以上考えても同じところをなぞるだけであろう。今は前に進んで取っ掛かりを探すしかない。人間にとって時間は有限なのだ。問題はそのあとゆっくり考えればいい。それも、なるべく日の光の差しているときに。
ホテルの部屋に戻るとシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かし、丹念に歯を磨いた。それから部屋の照明を切って枕に顔を突っ伏すと、眠りはすぐに訪れた。
朝が来るとバイパーと合流して、ホテルを出発したら、駐車場に停めておいたジープに乗り込み、夜が来るのを待った。彼らはスーツを着ていた。さらに胸の内ポケットには、念のためにピストルを入れていた。都内各所の景色をインプットするために、適当に車を流す。運転はまたバイパーが務めた。それにしても相変わらず東京は人が多い。ビジネスマンの群れ、場所によっては犬の散歩をしている人、ジョギングをしている人もけっこういた。そうしている内に日はどんどん高くなっていった。
「先輩、お腹空きましたね」とバイパーが呟くように訊いてきた。
「そうだな」、Kは自身で訓練を施していたので空腹をあまり感じないが一応相槌を打った。
「ハンバーガー食べませんか?」とバイパーが無邪気に提案する。「ポテトもつけて。〈システム〉にはジャンクフードすらないですし」
「わかった」、Kは了承した。
ハンバーガーショップの駐車場に車を停めると、バイパーはBⅬTバーガーにフライドポテトのセット、飲み物はコーラを注文した。Kはチーズバーガーにサラダのセット、飲み物はホットコーヒーを注文した。
店内は混んでいた。彼らは空いているテーブルに座り、食事をとりながら声を細めて会話をした。
「先輩、これからどうします?」とバイパーがフライドポテトを口にしながら尋ねた。
「そうだな」、Kはコーヒーをブラックで飲んでいた。「少し身体を動かしたい。都営のジムの前で車から降ろしてくれないか?」
「本気ですか?」とバイパーが思わず声を上げる。「身体なんて〈システム〉でも鍛えられるじゃないですか? せっかくの外回りなのに」
「身体がなまれば任務にも支障がでる。あまり休ませると筋肉はすぐに衰える」
「わかりましたよ」、コーラを飲んでから、バイパーは渋々承諾した。
Kはシャツとパンツに着替えると、じっくりストレッチを行い、適切なインターバルを挟みながら、各種マシンで身体を鍛えていった。鎧のような筋肉は身体を重くする上、人目にもつくから不都合だ。だからあえてそうならないように、まずランニングマシンで身体を温めたなら、そのあと特に背筋とハムストリングスに重点を置いてマシンに力を加えていった。筋肉が悲鳴を上げ始めると、心地良い疲労感を覚えた。筋繊維が破壊されているのだ。そこで栄養をしっかりと補給してやると、筋繊維は修復され、肥大化するであろう。
一時間しっかり汗を流すと、シャワーを浴び、スーツに着替えた。ジムを後にし、その建物の近くの歩道で待っていると、時間通りバイパーがジープを運転して迎えに来た。
「顔色よくなってますね、先輩」、バイパーは彼特有の糸目を見開いた。
「血流がよくなったんだろう」
「僕もお供すればよかったかな」、残念そうに言う。
Kは何も答えずに微笑した。
「もうすぐ夕方ですね」
「一旦ホテルに戻って仮眠しよう」とKは言った。
「わかりました」、バイパーは頷いた。
深夜3時、彼らはT駅の駅前にある青い宅配ボックスの前にいた――人目を忍びながら。そして一番大きなボックスに4桁の暗証番号を入力する。4229。ボックスのロックが解除され、開けると中には大きなグレーのキャリーケースが入っていた。
「これが荷物ですかね?」とバイパーが慎重そうに尋ねた。
「おそらくは」とKは周囲を警戒しながら答えた。「司令の指示通りなら、まず間違いはないだろう」
「なんか気味が悪いですよ。中にヤバいものでも入っているんじゃないですか?」
「そうだな」、Kは頷いた。「でもこれも仕事だ。それにキャリーケースはロックされている。中身の確認はしようがない。とにかく誰かに見られる前に、さっさと仕事に取り掛かろう」
彼らはキャリーケースを取り出すと、宅配ボックスの扉を閉じ、それをジープのトランクに詰めた。そして辺りに人がいないことを確認すると、ジープでその場から立ち去った。下道を走り、チェックインしているホテルに戻る。その間、バイパーはハンドルを握りながら何度もバックミラーを確認していた。
「先輩」と彼はやや緊張した声で言った。
「どうした?」
「思い過ごしだったら良いのですが――」、バイパーは深刻そうに言い淀んだ。
「言ってくれ」とKは促した。
「おそらく何者かによって追跡されています。紺色の911カブリオレです」
バイパー「先輩、何を飲んでるんです?」
K「プロテイン」