8【Ⅼ】落穂拾い
〈ただいま緊急メンテナンス中です。大変ご迷惑をおかけします〉
その文字を前にして、リリィは愕然とした。一体何が起こったの? 彼女は画面をマウスでクリックしてみる。が、どこを触っても何の反応も得られなかった。
「何よ、これ?」、リリィはパソコンの画面に向かって語気を荒げた。
だが、それに返す者はいない。ただ彼女の部屋は静寂に包まれているのみだ。
シャノワールさんはバグだと言っていた。もしバグに呑み込まれたのだとしたら、アカウントはどうなるのだろうか? メンテナンスはいつまで続くのか? またシャノワールさんに会えるのだろうか? シャノワールさんと連絡が途絶えてしまったら〈ウロボロス〉の情報も途絶えることになる。彼の助言なしにやっていけるのだろうか? 様々な疑問が彼女の頭を駆け巡る。
結局、30分待っても〈システム・サクラメント〉はメンテナンス中だったので、彼女はゲームをログアウトした。
「〈システム・サクラメント〉にバグが発生した?」
翌朝、リリィはアイリスの部屋で昨晩のことを報告していた。アイリスはテーブルに身を乗り出すようにして話を聞いている。窓からは日が差し込み、外からは雀や鳩の鳴き声が聴こえる。初冬のしんとした朝だった。
「そうなの」、リリィは相槌を打った。「それで、どうしていいかわからなくて」
「バグが出た上に、こう、予告もなくまた緊急メンテナンスとか、どんだけシステムが甘いわけ? これじゃ暗殺の受注もできないじゃない。こっちは少しでも〈ウロボロス〉の情報がほしいってのに、どうやら自力で〈蛇〉のアジトを探す手段も講じなきゃならなくなるわね」とアイリスは言った。
「でもすぐに復旧するかもしれない——」
「でもすぐに復旧しないかもしれない」
リリィはうつむいた。
「とにかく〈システム・サクラメント〉——つまりシャノワールさんからの情報——抜きの作戦も立てなくちゃ駄目ね」、アイリスはさも頭が痛そうに手で額を押さえた。
部屋のドアが三回ノックされた。
「アイリス」、呼びかけた声はパンジーのものだ。「朝食の支度が整っていますよ」
「わかったわ」、アイリスが扉に向かってどなった。「今行く」、そしてリリィの方を見る。「とりあえず、まずはしっかりと食べて、精をつけましょう。何しろあんたは妊婦さんなんだから」
リリィは力なくうなずいた。
シャノワールと連絡が取れないという事実は、予想以上に彼女を動揺させた。自覚してはいなかったが、実際心の拠り所としていたのだ。それを失う恐怖に彼女は囚われた。その気持ちは恋心などという単純な言葉で片付けられるものではなかった。彼女は何度も〈システム・サクラメント〉のログイン画面を開いては、メンテナンス中であることを確かめ、その度に深い溜息をつき、ゲームをログアウトする。シャノワールさんはこのことを、メンテナンスのことを、どう思っているのだろうか? 案外何とも思っていなかったりするのだろうか? それとも——
「シスター・リリィ、またぼーっとしているわ」、ピアノの席でカホが不満げにそう言う。
席の隣でリリィは我に返る。「ごめん、今度はちゃんとするね」
「しっかりしてよ」
「うん、ごめんね。大事な時間なのに」
「そんなのいいから早く稽古をつけて」
カホはもう「バイエル」を半分以上、より正確にいえば3分の2ほど進んでいた。やはり才能がある。努力だってしている。彼女はピアノのレッスンが終わると、そこに居残って30分——つまり午後5時まで——ひとり自主練に励むのだ。シスターたちもそのことを承知していた——近所迷惑にならない時間帯なら、と。そのせいもあって、今では先にピアノを習い始めたミナとアイサよりもピアノが上達していた。かといって他をおろそかにすることもなく、年少者の面倒もきっちり見ている。根が真面目で、己に厳しいのである。
リリィは彼女のひたむきさに感銘を受けざるを得なかった。そして、やはりピアノを勧めてよかった、と心から思った。
翌日、パンジーはデジタルカメラを片手に、朝から修道院内を写真に収めてまわっていた。礼拝堂で祈っていたリリィは背後に人の気配を感じる。
「一体何を撮ってるの?」
「修道院のホームページの素材よ」とパンジーは嬉々として言った。「やっぱりリリィは素材がいいから写真も映えるわ。朝のしんとした空気、荘厳な礼拝堂、そしてその中で祈る少女。良いです」
「だからってそんなに何枚も撮らなくたっていいじゃない?」
「あとで吟味するからたくさん写真がほしいのよ」、パンジーはカメラを抱えたまま言った。「大丈夫よ。ちゃんと顔は映らないようにするし、万が一映ったら加工するから。ほらもう一枚、背中を向けて」
しかたなくリリィはパンジーに背を向けて祈祷を捧げる。ステンドグラス越しの光を帯びて神秘的だった。それを見てパンジーは気分上々にシャッターを切り続けた。
朝食のあと、会議の席でパンジーがにっこりして言った。
「今日は落ち葉拾いをしましょう」
「ああ、そういや最近ごたごたしてて忘れてたわね」とアイリスが頬杖をついて言う。「いいんじゃない?」
「でも何も用意してないわ」とリリィが口を挟む。
「問題ありません。服と道具ならばっちり用意しておきました」
「パンジー、やけに乗り気だね」とビオラがやや面倒臭そうに言う。
「ホームページの素材がほしいので」、パンジーは瞳を輝かせた。「みんなで落ち葉拾い。きっと画になるはずです」
そういうわけで、さっそく子供たちも集めて皆で庭の落ち葉拾いをすることになった。改めて見ると広い庭はかなり雑然としていた。枯葉がそこかしこに——まるで分厚い絨毯のように——こんもりと落ちている。枯葉の色はくすんで黄色や茶色をしていた。
「うわあ、これは大変そう」
「確かにこれはほうっておいたら駄目ね。印象も悪いし、落ち葉が敷地の外に出たら問題よ」
シスターたちは使い込まれた作業着を着ていた。パンジーがリリィとアイリスとビオラの三人に麦わら帽子を渡す。
「写真に顔が映り込まないように、被っていてください」
「オーケー」
子供たちはみんな普段着だった。暇を持て余していたので、突然のイベント事にきゃっきゃとはしゃいでいる。ひとりが枯葉踏むと、その音と感触が気に入ったのか、こぞってみんな枯葉を踏み出す。
「こらこら」とアイリスが言った。「作業の邪魔しちゃ駄目よ。みんな協力して。とりあえず熊手で奥の落ち葉からかきだしましょうか」
「賛成」とリリィとビオラも言った。
「熊手が入らないところは素手でお願い」
「はーい」と子供たちが返事をする。
ビオラが言う。「パンジーは何すんのさ?」
パンジーはカメラを手に穏やかに微笑んだ。「私は記録係」
熊手で落ち葉をかきだしたら、中央に集めていく。それを子供たちがほうきとちりとりを使ってごみ袋に詰めていく。日は高く昇り、リリィはじんわりと汗をかいた。見上げると晴天がそこにある。
ごみ袋は六つ、ぱんぱんになった。パンジーは相変わらず写真を撮り続けている。彼女は写真が好きなのだ。いつの間にかイチカはミナの膝の上で眠っていた。
大方片付くと皆で細かい葉っぱを拾っていく。リリィとアイリスとビオラは、話をしながら近くに固まっていた。
「ストップ」とパンジーが大きな声で言う。
「なんなのさ、急に?」とビオラが返す。
「いいから三人とも今の姿勢のままうつむいていてください」
パンジーが真剣にカメラのシャッターを何度も切る。
「いい、すごくいい」
写真を撮り終えるとアイリスが尋ねた。「一体なんだったの?」
「構図がミレーの『落穂拾い』みたいだったので、つい。でも上手く撮れていますよ?」
「ミレー?」
「ジャン・フランソワ・ミレー。近代のフランスの画家です。『落穂拾い』は貧しい人びとの姿を描き、尚且つ旧約聖書の『ルツ記』に基づいた作品です」、パンジーの趣味は絵画の鑑賞なのだ。
「誰が貧しい人びとじゃ」
「演出ですよ。演出」、パンジーはにっこりした。
他のシスターたちはカメラの画像を確認する。
「よく撮れてる」とリリィが言う。
「ほんとに」とビオラが同意する。
「まあ、わかったわ」、アイリスは納得したように言う。「任せる」
「任せてください」、パンジーは胸を張った。
その夜、リリィはまた〈システム・サクラメント〉にログインした。黒い画面にはやはり「ただいま緊急メンテナンス中です。大変ご迷惑をおかけします」というピンクの文字が浮かび上がっている。メンテナンスがいつ終わるかも見通しが立たない。果たしてまたシャノワールさんと連絡が取れるのだろうか? 彼女は不安に駆られつつも、ゲームをログアウトしてゲーミングパソコンをシャットダウンする。それからベッドに仰向けに寝たまま、眠りが訪れるまで、ひたすらに、天井の一点の疵を見つめていた。どこかで赤子が泣いているような、雌猫の嬌声が聞こえた。
ビオラ「ちゃんと可愛く撮ってよね」
パンジー「姉さん、顔出しはNGよ」




