4【L】これまでに何人の女性の魂を穢した?
タカハシノボルの部屋に入ると、スパイスの臭いが鼻についた。情報通り、男は本当に部屋でカレーを作っていたのだ。リリィは反射的にスパイスの臭いを嗅ぎ分けた。クミン、コリアンダー、カルダモン、シナモン、チリペッパー、ターメリック――中々本格的だ。それと同時に事前に入手した部屋の間取りも確認し、頭の中で照合した。浴室とトイレ、カウンターキッチン、22畳のリビング、6畳の納戸、そして12畳の寝室。部屋は以上で間違いない。
「いい匂いだろ?」、タカハシノボルはそう言って、カレーを煮込んでいるIHヒーターの温度を保温に下げた。
「ええ、とっても」、リリィは無感動にお愛想を言った。
「俺を満足させてくれたら食わせてやるよ」
「ほんとですか?」、まったく割に合わない取引だと思った。でもそれだけの値打ちがあると、この男は真剣に信じ込んでいる。
「ああ、美味すぎてきっと忘れられない夜になるだろうぜ」、タカハシノボルは得意げに眼鏡のブリッジを上げた。
昔からリリィはカレーという食べ物が特に好きではなかった。日本人の大半が――中でもとりわけ男性が――なぜこんなにも、肉と野菜とスパイスをふんだんに鍋に入れて煮込んだだけの食べ物に夢中になるのか理解できない。第一、彼女はカレーに代表される臭いのきついものが苦手なのだ。そういった飲食店の前を通るときはいつだって気が滅入る。そもそも香水さえ好きではない。むせ返りそうになるから。
廊下で手を重ねて下ろしている彼女に、タカハシノボルはいやらしい目を向けた。
「さっさと寝室へ行こう」
そして彼は眼鏡を外した。
寝室に入るなり、リリィはベッドに押し倒された。タカハシノボルが照明をつけ身体の上に強引にのしかかってくる。
「お客様」と彼女は言った。「あまり乱暴すると、お店の者が飛んできますよ?」、もちろんブラフだ。
「かまやしねえ!」、タカハシノボルは下腹部を圧しつけてきた。「うちの親は偉いんだ。そんなもん、いくらでも揉み消してやるさ」
「そうやってこれまで何人の女性を暴行したの?」
「なんだと?」、タカハシノボルの動きが止まった。「てめえ、なんで知ってやがる?」
すかさずリリィは太ももに隠していたガンホルダーからリボルバーを取り出すと同時に撃鉄を起こし、銃口を彼の顔に向けた。見事に無駄のない動きだった。
リリィは言った。「言え。これまでに何人の女性の魂を穢した」
タカハシノボルは固まり、そのあと声を上げて笑い出した。
「なんだそのオモチャは? ヒーローごっこのつもりかよ?」
「言え」、リリィは繰り返した。「これまでに何人の女性の魂を穢した」
「知らねえよ」、彼は可笑しそうにすっとぼけた。「でもみんなすげえ気持ちよさそうだったぜ?」
「下衆め」
リリィはリボルバーでタカハシノボルの脳天を撃ち抜いた。
「万死に値する。地獄で悔いろ」とリリィはベッドから降りると躯を見下ろしてひとりごちた。
命の始末が終わるとリリィは外に出てアイリスを部屋の中に呼び寄せた。
「げ、外でもやたら臭ってたけど、ターゲットの奴、ほんとにカレー作ってたのね」、アイリスはそう言うと、IHヒーターの電源を切った。「強姦魔に変なことはされなかった?」
「多少わね」とリリィは答えた。「でもちゃんと貞操は守ったわ」
「あんたもよくやるわねえ」
「使徒としての職務だもの」
寝室に行くと、つい先ほどまでタカハシノボルだった物は、ベッドにうつ伏せになって事切れていた。彼女たちは協力して、死体を器用に折りたたんでキャリーケースに詰める。その後、部屋の清掃を手短に行った。血痕を残すと不味いことになる。だから証拠は隠滅しなくてはならない。指紋までつかないように、手袋を嵌めて細心の注意も払った。銃声は確かに部屋の外にまで響いたが、これだけ立派なマンションだと、号砲が一回鳴ったくらいでは、近隣の住民が騒いだりしないのを彼女たちは経験的に理解していた。
抜かりなく清掃を終えたら、リリィもアイリスの用意した宅配便の業者の恰好に着替えた。返り血を浴びていたから。それから二人はキャリーケースを引いてマンションを後にした。彼女たちは黒いセダンのトランクにキャリーケースを押し込み、車に乗ってT駅に向かう。運転はまたアイリスが引き受けた。道中、FⅯではジャズのコーラス特集をやっていた。
「あんた焦っているように見える」、発車してから間もなくアイリスは言った。
「どうして?」、リリィが尋ねる。
「緊張感がひしひしと伝わってくんのよ。側にいるときなんて特に」
リリィは前方に顔を向けたまま答えた。「それは緊張するわよ」
「まあ、仕事が仕事だけに、仕方ないっちゃ仕方ないんだけどさ、それでも尋常じゃないくらいの身の入れようよ。他にもシスターはいるんだしさ、あんたばかりが汚れ仕事を引き受ける必要もないのよ。神父様だって話せばきっとわかってくれるはずだわ」
「他のシスターの手はなるべく汚させたくない」
「はあ?」、アイリスは怪訝な表情で声を上げた。「あんた本気? あたしたちだって覚悟はできてんのよ。独りよがりのお節介もはなはだしいわ」
「でも――」とリリィは言い淀んだ。
「でも、じゃない」、アイリスはぴしゃりと言い放った。
リリィは何も答えず、アイリスは深い溜息をついた。
「これだけは覚えておいてね」、しばらくするとアイリスは言った。「あたしはあんたのことをとても大切に思ってる。だってずっと一緒に育ってきたんだもん。家族同然にね」
リリィはうつむいて黙っていた。少し間を置いてから彼女は言った。
「私もよ」
アイリスは静かに頷いて、運転に意識を集中した。
指示された駅前のロータリーに到着すると彼女らは停車させた車から降りた。周りに人の目はない――監視カメラは別にして。そして最近設置されたのであろう青い宅配ボックスを視界に捉えた。二人は車のトランクからキャリーケースを引っ張り出した。地面に下ろすとゴトンという音が響き渡った。それから宅配ボックスの一番大きなボックスから神父が用意して入れておいたゴルフバッグを取り出して、代わりにキャリーケースを入れた。4桁の暗証番号を設定する。4229。
「後のアリバイ工作は神父様がしてくれる」とアイリスは額の汗を拭いながら緊張が解けた顔で言った。「こんなとこさっさとおさらばするわよ」
「そうね」、リリィはゴルフバッグを肩に提げて真顔で頷いた。「帰りましょう」
修道院に戻ると、彼女たちはシャワーを浴び、修道服に身を包んだ。二人して神父のところに報告に行く。神父の部屋のドアを三回ノックすると、いつも通り「お入りなさい」という声がした。言われたとおり彼女たちは中に入った。
神父はバスローブを着て、窓側のラタンチェアに座り、赤ワインを飲んでいた。
「進捗状況はどうですか?」
「指示通り、万事怠りなく」とアイリスは厳かに答えた。
「ターゲットを確実に『あちら側』に送ったわけですね?」
「はい」
部屋を沈黙が支配した。
「それはけっこうなことです」と神父はワイングラスを眺めながら言った。「神のご加護があらんことを」
「ありがとうございます」と彼女らは言って頭を下げた。
「シスター・アイリスは退出してください」と神父は穏やかに言った。「シスター・リリィにお話がありますので」
彼女たちは目を合わせ、リリィは微かに頷いた。
「わかりました」、アイリスは深々と頭を下げた。そしてドアを開けて部屋から出て行った。
説教かしら? リリィは何か自分に不手際があったのではないだろうかと懸念した。そして戸惑った。人には必ずデッドスポットがある。自らが完璧に思えても、見えてはいない視点が確実に存在するのだ。
神父は言った。「シスター・リリィ。こっちへ来なさい」
リリィは黙って神父の傍へ行った。すると神父はワイングラスをスツールに置き、彼女の手首を摑んだ。神父は立ち上がり、腕を引っ張って、背後から問答無用に彼女を抱き締めた。その弾みでワイングラスがスツールから落ち、砕け、真っ赤なワインが周囲に飛び散った。
「やめてください」とリリィは震える声で言った。
「やめません」と神父は強欲に囁いた。
拳銃を持つと人が変わるリリィ……