6【Ⅼ】そん時はそん時考えよう
FMからはグリーグの〈ピアノ協奏曲イ単調〉がかかっていた。猛烈な台風の中、パンジーがスーツを着て運転席で車のハンドルを握る。助手席ではアイリスが宅配便の業者の恰好をして窓の外の景色を眺めていた。後部座席ではリリィも同じく宅配便の業者の恰好をして前方を見据えている。苛烈な嵐のおかげで車道は空いていて、辺りの店舗は殆ど休業しており、時折外のガレージのシャッターが激しく波打っていた。フロントガラスの向こうでは街灯や信号の明かりが雨に滲んでいて、どこか非日常的な雰囲気を漂わせている。その明かりが遠く背後に過ぎ去っては、また新しい明かりが流れてくる。そうしている内に午後8時半、目的地の新宿に到着した。
シャノワールからの情報によるクズノヒトシが根城にしている元ライブハウスの前に、彼女たちを乗せたセダンは停車した。
「リリィ、レインコートを着て」とアイリスは言い、さっそく自らも半透明のレインコートを着始めた。
「わかった」、リリィもそれにならう。
アイリスとリリィはレインコートのフードを目深にかぶりセダンから降りた。
「どうか、くれぐれもお気をつけて」とパンジーが祈るように声をかける。
「ありがとう、行ってくる」とアイリスが答えた。
車から降りると吹き飛ばされそうなくらい強い風が吹いていた。見上げる空は暗く、薄汚れた濁流のようにも見える。元ライブハウスというだけあって拠点は地下にあり、入口は外階段を下りる造りになっていた。その奥は不気味に、より一層暗くなっている。
「待って」とアイリスが言って立ち止まった。
彼女はリボルバーを取り出し、弾丸を発射した。弾は階段の隅に命中した。
「監視カメラがあったわ」とアイリスは言った。「おそらく中にも仕掛けられている」
リリィは深刻に頷いた。
階段を下りるとアイリスはインターホンを押した。しばらくするとスピーカーから声が返ってきた。
「なんだ?」、威嚇するような低い男の声だ。
「お届け物です」、アイリスは明るく言った。
「ああん、ちょっと待ってろ」
ドアが開いた瞬間、アイリスは扉を開けた男の眉間をリボルバーで撃ち抜いて彼女らは中に押し入った。
「あたしが敵をやる。リリィは監視カメラをお願い」
「わかった」
その部屋には麻雀卓が置いてあり、屈強な男が四人、何事か異変に気づいてピストルを手に辺りの様子をうかがっていた。天井には監視カメラが三つある。リリィは壁に隠れながら、監視カメラをひとつずつリボルバーで銃撃した。
アイリスは猫のように身をかがめて部屋をぐるりと疾走する。とたんに銃撃戦が行われる。男たちはアイリス目がけて銃弾を放つもその弾はすべて空を切った。彼女が部屋の反対側に回り込むころには、男は三人脳天を撃ち抜かれて、事切れていた。
残った男のこめかみにアイリスは銃口を突き付ける。
「銃を置いて、手を上げなさい」
男はそれに従った。
「今からあたしの質問に答えて」
「お、お前、まさかあの最強の殺し屋タナトスか? まさかこんな若い女だったなんて──」
アイリスが瞳孔を開いて睨んだ。「質問していいのはこっちだけよ」
男は身震いした。「わ、わかった」
「クズノヒトシはどこ?」
「あ、兄貴なら奥の部屋だ。楽屋を寝室に改装している」
「そう」
そして彼女は引き金を引き、銃声が鳴った。
「リリィ」とアイリスは呼びかけた。
「何?」とリリィが聞き返す。
「監視カメラの方はオッケー?」
「ちゃんと全部破壊したわ」
「それじゃあ、ボス戦といきますか」
アイリスが店の奥に歩を進める。リリィはそのあとを付いて行った。
通路を渡り、奥の部屋の扉を開けると、汗と精液の臭いが鼻をついた。20畳ぐらいの部屋の正面の壁際にはキングサイズのベッドが置いてある。そのベッドの上では禿げた頭にでっぷりと太った中年の男と少女が三人、肌を露わにして戯れていた。少女たちは男のそそり立った陰茎を愛撫し、男はベッドに仰向けになって恍惚としている。
アイリスとリリィが部屋の中に踏み出すと、そのかまえた拳銃を見て少女たちは甲高い悲鳴を上げた。そしてその場から離れようとする。
「あんたがクズノヒトシ?」とアイリスは太った中年に訊いた。
「そうだが俺をやりにきたのか?」とクズノヒトシは答えた。
「今楽にしてあげる」
「言っとくが俺たちを敵にまわすのはやめたほうがいいぜ?」、クズノヒトシはほくそ笑んだ。「〈蛇〉が必ず報復しにくる。最も残忍な手段でな」
「言い残した言葉はそれ?」、アイリスは冷静に銃口を向けていた。「冴えない文句ね」
その瞬間、クズノヒトシが枕の下からハンドガンを取り出してアイリスの顔面を銃撃した。アイリスは迷いなく首を振って顔に飛んできた弾丸をかわす。相手の視線と銃口の向きで弾道を予測したのだ。それを見て、後方にいたリリィがすかさずクズノヒトシの脳天をリボルバーで撃ち抜いた。
クズノヒトシはまたぐでんと仰向けになり、少女たちの悲鳴はさらに大きくなった。
「黙らっしゃい」とアイリスはそれを一喝した。
少女たちは怯えて大人しくなる。
「あんたたち、このハゲの仲間?」とアイリスは少女たちに訊いた。
「違います」とひとりの少女が震えながら答えた。「借金の形に無理やり関係を迫られて—―」
「だったらさっさと着替えてここから出て行きなさい」とアイリスは言った。「言っとくけど、このこと、誰かにチクったら殺すからね」、その鋭い目つきには確かな説得力があった。
「は、はい!」
三人の少女は震えながら急いで服を着ると、一目散にその場を後にした。
「これからどうするの?」とリリィが尋ねる。
「帰ろう」とアイリスは答えた。「あたしたちの家に」
外に出ると風雨は弱まっていた。風が髪をなびかせ、雨はしとしとと降っている。雲の切れ間から少し欠けた月が見えた。台風は通りすぎたのだ。
パンジーはセダンの運転席でずっと二人の帰りを待っていた。二人に気づくと車のドアのロックを解除した。
「いやあ、一瞬でずぶ濡れんなったわ」、アイリスが助手席でレインコートを脱ぎながら言った。
「二人ともご無事で何よりです」とパンジーが言った。彼女の悪い予感は外れたのだ。
「殆どアイリスの独壇場だったけどね」とリリィは言う。
「それ、想像つきます」、パンジーは口もとに手を当ててくすりと笑った。「ついさっき若い女の子が三人中から飛び出てきたけれどほっといてよかったかしら?」
「いいのいいの」、アイリスは助手席で背伸びをしながら答えた。「ターゲットじゃないからね。それより遺体の処理はこのあと来るプロに任せて帰りましょうか」
「異議なし」
そしてパンジーは車のサイドブレーキを下げ、アクセルを段階的に踏んでいった。
修道院に着くと雨はあがっていて、風も穏やかだった。空気も澄んでいる。台風が大気中の淀みを追い払ったのだ。セダンから降りるとリリィは小さくくしゃみをした。
「爽やかな気候になったけれど、ちょっと肌寒いわね」とアイリスが両肘を抱きながら言った。「みんな風邪ひかないように」
「そうね、早く中に入りましょう」とパンジーが答えた。
修道院の広間に行くと、留守番をしていたビオラが駆け寄ってきた。パジャマ姿にスリッパを履いている。
「子供たちはみんな寝たわ。そっちは大丈夫だった?」
「余裕」、アイリスが冷ややかに微笑んだ。「でも『〈蛇〉が必ず報復しにくる』ってわけのわからないことを言っていたわね。〈蛇〉ってなんだろう?」
「組織の隠語じゃないかしら?」とリリィは口を挟んだ。「つまり奴らのバックには何者かの後ろ盾があるのよ」
「やっぱり悪い予感がします」とパンジーは深刻そうに言った。
「でもまさか修道院のシスターが暗殺稼業をしているなんて誰も思わないでしょ?」とビオラが能天気に言った。
「尾行はなかったわよね?」とアイリスはパンジーに尋ねた。
「ありませんでした」、端的に答える。
「ならよし。そん時はそん時考えよう」
「アイリスがそう言うのでしたら——」とパンジーは言い淀んだ。
「とにかく夜も遅いし解散」、アイリスが手を叩いた。「今日は一段と冷えるし、みんな、暖かくして眠るのよ」
リリィとアイリスとパンジーはシャワールームに行って身体を洗うと、パジャマに着替えて「おやすみ」と言い合い、それぞれの部屋に入った。リリィはゲーミングパソコンを起動しているあいだに歯を磨く。鏡を見るとなんだか少し疲れたような顔が映った。口をゆすいだら、テーブルにつき、〈システム・サクラメント〉にログインした。シャノワールは昨日の晩からログインしていない。彼女は任務完了の報告をシャノワールのDMに送信した。
〈ゴキブリ駆除、完了しました〉
それからゲームをログアウトしてベッドに入る。眠りが訪れるまで、クズノヒトシの捨て台詞がなんだか妙に耳にこびりついていた。
「言っとくが俺たちを敵にまわすのはやめたほうがいいぜ?」とクズノヒトシはほくそ笑んだ。「〈蛇〉が必ず報復しにくる。最も残忍な手段でな」
アイリス「またタナトス言われた。タナトスってギリシャ神話の男性神なのに……」
リリィ「あら、カモフラージュになっていいじゃない?」




