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システム・サクラメント  作者: ミナミミナト
第四部 日常と非日常
32/71

2【Ⅼ】こんな日には大切な人とお出かけでもしたくなる




 カーテンを開くと、太陽の光線が差し込んできた。空は澄み渡っていて果てしなく続いている。こんな日には大切な人とお出かけでもしたくなる。きっと楽しいだろう。

 朝食を終えると、リリィの提案により修道院のみんなで散歩をすることになった。小さな子供はお散歩カートに乗せて、シスターが交代でカートを押した。カートに乗せられた子供たちは柵にしがみついて楽しそうにきゃっきゃとはしゃいでいる。一方で大きい子供たちは会話をしながら自分で歩いていた。ありがたいことに最年長のミナはカートを押すのを手伝ってくれる。見上げる空はどこまでも青かった。気候もよく、日の光を浴びて赤く色づいた紅葉は燃えるようで、まさにお散歩日和だ。そうして修道院の近隣をぐるりとまわっていった。

 リリィがお散歩カートを押しているとカホが隣でそれを手伝った。

「シスター・リリィ、昨日はごめんなさい」

「いいのよ。気にしないで」、リリィは微笑んだ。

「でも——」、カホが言い淀んだ。

「私はね、カホが素直にピアノを習いたいって言ってくれて嬉しいの。本当よ? だっていつもみんなのことを気にかけて遠慮しているでしょう?」

 カホはしばらく黙った。「そういえば楽譜はどうしたらいいのかしら?」

「まだ用意がないから、あとでコピーして渡すわ」

「あ、ありがとう」、カホは決まりが悪そうにそう言った。

 カートに乗っている5歳のトウカが、喉が渇いたと言い出した。

「カホ、ちょっと止まってもいいかな?」

「ええ、もちろん」

 リリィはお散歩カートを止めて、リュックサックから魔法瓶を取り出したら、冷たい麦茶をコップに注いでトウカに渡した。トウカは「ありがとう」と言って、お茶を飲む。すると他の子供たちも「わたしも」「わたしも」とお茶をほしがった。

「待って、順番にね」とリリィが言う。

「ちゃんとお行儀よくしてなさい」とカホも言う。

 先を歩いていたビオラがそれに気づき戻ってくる。

「お茶ならあたしも用意してるよ」、そう言って彼女もリュックサックから水筒を取り出した。

 子供たちが歓声を上げる。

 そのようにして午前の穏やかなときは、着実に通り過ぎて行った。


 修道院に帰るとみんなで手を洗い食堂に行った。メニューは白米と鶏のから揚げにコーンサラダ、それとパンナコッタだ。トウカが箸を棒状に握って鶏のから揚げを突き刺しているのを見て、リリィは箸の持ち方を我慢強く教えた。トウカももう5歳なので、年齢的に箸が使えていいころなのだ。

「リリィ、きょうたのしかった」とトウカは箸を握りながら元気に言った。「もみじきれいだった」

「そうだね」とリリィは笑顔で相槌を打つ。「また行こうね」

「うん、いつ?」

「そうだなあ、ちゃんとお箸が持てるようになってからね」

「わかった、がんばる」、そしてトウカは熱心に箸を扱った。


 驚くべきことにカホは絶対音感を持っていた。絶対音感を持つ人は楽器だけではなく、日常生活におけるすべての音が「ドレミ」に聞こえるのだ。特別なトレーニングなしに絶対音感を身につける確率は1%未満だ。それに気づいたときリリィは、カホは伸びる、と確信した。

 ピアノの練習時間は下記のように決まった。


 15:00-15:30 ミナ

 15:30-16:00 アイサ

 16:00-16:30 カホ


「休符もひとつの音だと思って、おろそかにしないで」とリリィが教えると、ミナとアイサも最初はきょとんとしていたのが、カホは練習初日にしてただちにその意味を理解した。直観に優れ、何よりもピアノに飢えている。その貪欲な姿勢に、この娘はいずれ私よりピアノが上手くなる、とリリィは直感した。

「ねえ、シスター・リリィ、右手練習ばかりじゃマンネリだわ」とカホが鍵盤を叩くのを止めて言った。「両手練習がしたい」

 リリィは考えた。カホはもう初歩の右手練習をマスターしている。きっと楽譜を読み込んでいるのだろう。次の段階に移ってもいいかもしれない。

「わかったわ。両手練習もやってみる? 最初は難しいと思うけれど」

「望むところよ」とカホは言った。「簡単だと練習にならないわ」

「簡単でも基本の反復は大事よ?」

「できるギリギリのところを反復練習したいのよ」、言い分としては一理ある。

「そうね、まず楽しまなきゃだし、マンネリなら練習も次の段階に引き上げましょうか」

 両手練習をするとさすがにカホもリズムが乱れた。左手が右手に追い付かないのだ。

「そういうときは左手だけ練習してごらん」とリリィは言った。

 カホは悔しそうに頷き、左手だけを繰り返し練習する。低音はリズムを支える上でとても重要なのだ。左手が思うように動かないのは多くの人が最初にぶつかる壁である。リリィは厳しく、でも辛抱強く、カホの練習に付き合う。

 午後4時半になる。レッスンは終了となる。

「ちょっと待ってくれないかしら」とカホが言う。「もう少しだけ、ピアノを触っていてもいい?」

「いいわよ」、リリィは微笑んだ。「でも近所迷惑になるから5時までね。そのあいだ私の楽譜も置いといてあげるから使っていいわよ。終わったらちゃんと蓋を閉じておいてね」

「わかったわ」、カホは頷いた。

 そのあとリリィはラベンダー色のトレーナーと白いスキニーパンツに着替えて、近所の書店に行った。店の奥で欠伸(あくび)をしている店主に「楽譜を置いていないか」と訊くと、「うちみたいな小さな書店にゃ置いてないよ。取り寄せならできるけど、どうする?」と言われた。リリィは注文票を渡され「バイエル」を取り寄せる手続きを行った。また大型書店まで買いに行くと他のシスターたちに迷惑がかかるから。

「だいたい3日から2週間かかるから、ご了承してね」と店主は眠たそうに言った。「あとキャンセルもできないよ」

 問題ない、とリリィは言った。

 修道院に戻ると午後5時をまわっていた。礼拝堂に行くとカホの姿はなく、ピアノは屋根を閉じ、鍵盤蓋も閉じられ、その上にはリリィのバイエルが綺麗に置かれていた。たぶん以前からリリィがピアノを片付けるところを観察していて見様見真似で覚えたのだろう。そう思うとリリィは少し嬉しくなった。

 夕飯はミートボール・スパゲティーだった。修道院の数あるメニューの中でも子供たちがトップクラスに好きな一品だ。パプリカのサラダとヨーグルトもついている。

 イチカは不器用にフォークでスパゲティーを掬いながら、ちゅるちゅると吸い上げて食べている。

「イチカ、ちゃんと野菜も食べなきゃ駄目よ」、その隣でリリィが言う。

「ピーマンきらい」とイチカは言う。

「これはピーマンじゃなくてパプリカだよ」とリリィが言う。「全然苦くないよ?」

「ピーマンみたいできらい」

「美味しいよ、ほら」、リリィは実際にフォークを使って食べて見せる。

「いやなのはやなの」

「むう」

「リリィ、無理に食べさせるのは逆効果よ」と向かいでアイリスが口を挟む。「イチカの年齢は一般的に好き嫌いが多いもんなのよ。そのうち食べられるようになるから。強引に食べさせようとすると頑なになって逆効果だわ」

「そうかもしれないけれど——」とリリィが口ごもる。「せっかく調理スタッフの方たちが作ってくれたのに」

「気持ちはわかるけどね」とアイリスは言った。そしてイチカの方を向いた。「イチカ、ピーマンもどきはよけてもいいから他は全部食べなさいよ」

「あい」とイチカはミートボールを食べながら返事をした。

 子供は正直だ。好きなものと嫌いなものを一緒に出しても、好きなものだけを食べて、嫌いなものは絶対に食べない。他の人が美味しそうに食べて見せてもあまり効果はない。わざわざ味噌汁のネギだけを残す子だっている。だから調理スタッフの人たちも、どうやったら子供たちに食べてもらえるか日々頭を悩ませる。食育はトライ・アンド・エラーの毎日なのだ。あまり叱りすぎると食事そのものが楽しくなくなってしまうし、だからできたときは精一杯褒める。まるでママのように。


 夜になり、リリィは〈システム・サクラメント〉にログインした。相変わらずシャノワールからの連絡はない。リリィは試しにひとりで難易度16の〈強欲〉のミッションにトライした。しかし何度やっても途中で湧いてくる狙撃手の集団を撃破できない。リリィは諦めて〈システム・サクラメント〉をログアウトして、パソコンをシャットダウンした。

 なんだか無性に喉が渇いていた。修道院には共同の大型冷蔵庫がある。リリィはそこから缶のコーラを取り出し、蓋を開けるとごくごくと飲んだ。喉の奥で炭酸が弾けて気持ちいい。身体の細胞が息を吹き返すようだ。そうしてリリィは冷蔵庫の扉に背中を預け、ただただ暗い天井を見上げていた。




シスターは外出している際は修道服ではなく私服です。

ちなみに楽譜は大型書店や大きな楽器屋にしか置いていないことが多いです。

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