3【K】にわかには信じがたいこと
ラットが絶命した。眉間には銃痕がある。おそらく寝ている間に、何者かによってサイレンサーつきのピストルで撃ち抜かれたのであろう。表情には苦悶の翳りもなく、穏やかに亡くなった様子なのが、せめてもの救いだった。ピストルを所持しているとなると、ハンターの犯行である可能性が極めて高い。デジタル家畜たちには、そのような殺傷能力に優れた凶器は授けられていないのだから。
Kは至急本部に引き返し、事実を管理者Xに告げた。
「そうか」、管理者Xはそれだけ言ってしばらく黙り込んだ。そして自らの親指を噛んだ。
「異常事態です」とKは進言した。「即刻犯人の捜索に当たるべきだと考えます」
「言いたいことはわかる。でもあんたには予定通り外回りに行ってもらうで。手筈は整ってるし、先方との約束もあるからな。それは絶対や」
「ラットをやった殺人鬼を野放しにするのですか?」、自然と語気が強くなる。
「そうやない。ただこの件はあたしに預けてほしい。Kには今からでも外回りに出発してもらう」
「バディ不在のこの状況でですか? いったい何が動いているんです?」
「バディならもうそこにおる」、管理者XはKの背後を指差した。
急に悪寒がして腰のガンホルダーのピストルに手をかけ、後ろを振り返ると、入口の側で糸目の男が後ろ手に組んで佇んでいた。
「先日ハンターに昇格したばかりのバイパーや」と管理者Xは顎をあげて言った。「チャカはまだ与えてへん。つまり殺人鬼ではないっちゅうことや」
「バイパーと申します」と男は胸に手を当てて挨拶をした。「以後、お見知りおきを、先輩」
Kはピストルから手を離した。そして、この俺が容易く背後を取られるとは、何者だこいつと不覚にも恥じ入った。やはり熱くなってはいけない。熱くなって心に隙が生じれば、いつか命取りとなる。
「バイパーはここ二、三年、海外の紛争地域で傭兵しとったらしい。腕は確かや。ビシバシしごいたってくれ」と管理者Xは言った。
「是非とも、勉強させてください」、バイパーは一礼した。
Kとバイパーはエレベーターに乗り、指令室を後にした。駐車場に行き、ジープに乗る際、バイパーが「新入りですので僕が運転しましょう」と申し出た。
「街から目的地までの道のりはわかるのか?」とKは尋ねた。
「余すところなく」と彼は言って、にっこりとした。その笑みに悪意は感じられない。笑うと細い目がきゅっと顔の中心に寄った。「もし気に入らない点があれば、存分におっしゃってください」
「わかった」、Kはそう言って助手席に座った。「出発しよう」
それに応えるようにジープのエンジンが微かな唸り声をあげた。
街の出入口はひとつしかない。外堀を埋めるように広がる樹海に、唯一悪路――舗装されていないでこぼこ道がある。その悪路の出入口の前では銃を持った衛兵が四六時中代わりばんこに見張りをしている。バイパーは衛兵の傍にジープを停めるとウィンドゥを開き、管理者からの通行許可証を見せた。衛兵は黙って頷き、構えた銃を下げて、道を空けた。ジープは樹海の中に踏み出していった。
樹海は迷路のようになっている。所々、道が二手、三手に分かれていて、正しい手順を踏まないと、同じ場所をぐるぐると回る羽目になるのだ。ここではコンパスも気休め程度にしか役には立たない。だがバイパーの判断は的確で、ハンドル捌きにも迷いがなかった。経路をしっかりとインプットしている。その上おしゃべりする余裕すら見せた。
「先輩はこの仕事、長いんですか?」
「ああ」とだけKは答えた。道のりをしっかりと確かめながら。もし樹海に呑み込まれでもしたなら、二人とも生きては帰れないだろう。
「外回りというのは、よくあることなんですか?」、バイパーはさらに質問した。
「いや、月に一度あるかないかだ」
「先輩は他のハンターたちも一目を置く、凄腕のハンターだと聞きました」
「そうか」とKは言った。つかみどころのない奴だな、と内心思った。すべてが芝居がかって見える。その点ラットはわかりやすかった。思ったことをすぐ口にする。秘密を持つことができない性分なのだ。それにしても会話なんて楽しんで、道を間違えないだろうか?
「大丈夫ですよ」、バイパーは心を読んだかのように微笑した。「昔から僕は地図を見るのは得意なので、絶対に間違えたりはしません。なんなら眠ってくれてもけっこうですよ。とは言っても、この悪路だと、振動で快適な眠りは保証できませんが」
「悪いがまだ警戒させてもらう」
「どうぞ」とバイパーは言った。「お好きに」
車内は静かになった。走行も順調だ。しかし、しばらくするとバイパーが突然車のブレーキを踏んだ。
山肌に沿って、前方には枯れた大木が見るも無残に倒れていて、道を塞いでいる。土壌がしっかりした森の中では珍しいケースだが、どうやら土砂崩れがあったようだ。
「参りましたね」、バイパーはそう言ってジープから降りた。
Kもその後に続いて降りた。
「先輩、この木はどかせられそうもないですよ」、バイパーは靴の先で倒れた大木をこづいた。「どうします?」
「そうだな」、Kは違和感と同時に嫌な予感がした。以前に樹海を抜けた時に比べて、どこか景色がいびつなのだ。道筋に間違いはないのに、何かがおかしい。彼は試しに仮説を口にしてみた。「森は変容を遂げているのかもしれない」
「なんですって?」
「樹海は生きている。俺たちは呑み込まれたのかもしれない」
「樹海が生きている?」とバイパーは聞き返した。「にわかには信じがたいことですが、それでは、今から急いで引き返しますか?」
Kは首を振った。「もう手遅れだろう」
日は真上に差し掛かっていた。繁った木の葉が空を殆ど覆い隠している。
「日が落ちると不味いですね」、バイパーが目を細めて天を仰いだ。
やはり森は変異していた。彼らは周辺の捜索を行った。辺りにはヒノキやモミなどの針葉樹がびっしりひしめいていて、進路を塞いでいる。枯れた大木も、押しても引いてもぴくりともしなかった。そうして日は着実に傾き、夕暮れが差し迫っていく。今一度Kは地図を眺めてみた。他に道はないものか。しかしどうにも地図とは景色が違っていた。そうこうしているうちに、遠くまで散策に行っていたバイパーが、姿を見せ、駆け寄って来た。
「先輩、道がありました。地図には載ってない道です」
言ったとおり、行き止まりになってしまったところから400メートルほど戻った場所の樹林の間に、地図にはない道ができていた。まるで迷子の二人を誘い込むかのように。見通しは悪く、命の保証もない。それでも前に進むしか選択肢はないのだ。
「行くしかないか」とKは意を決して言った。
「ですね」、バイパーは静かに頷いた。
彼らはジープに乗り込み、400メートルほどバックしてから、発見された踏み分け道に入って行った。そして木陰の中を車は進んで行った。
「以前戦地に赴いていた時に」とバイパーはハンドルを握りながら言った。「グールの群れに出くわしたことがあるんですよ」
「グール?」とKは聞き返した。
「人間の死肉を喰らって生きている人種のことです。出くわしたのはちょうどこの森のような人気のないところでした。思い出すなあ。見た目は人と同様なので、襲われて危うく殺されるところでしたが、銃撃して難を逃れました」
「そうか」、グール、と今度は口に出さずにKは思った。
周囲はさらに鬱蒼としていた。その中を慎重にジープは走っていく。樹々のざわめきや鳥の声は不吉にも激しさを増していた。野生動物を轢かないようにバイパーは慎重にハンドルを握り、Kも周囲の警戒を怠らなかった。バイパーが語ったグールの話が妙に頭をよぎった。そんな二人を嘲笑するかのように、道はただただ導くようにまっすぐに伸びていた。
やがて樹海を抜けて彼らはほっとした。解放されたのだ。ついに人里に下り、国道に出た。日は没しようとしているが、まだ気は抜けなかった。Kはバイパーと運転を交代し――彼の神経はいくらか擦り切れている様子だったから――高速道路に乗り、都心を目指した。しかしながら、Kはどこかで休息を取る必要性を感じた。
二人は箱根のビジネスホテルに入り、それぞれの部屋に別れた。せっかくですから一緒に温泉に入って一杯やりませんか、というバイパーの提案をKは断った。そして部屋でシャワーを浴び、ホテルに常備されている自動販売機で缶ビールを一本きり買い、テレビのニュースを見ながら飲み干すと、すぐにベッドに横になった。
翌朝、バイパーの申し出により、また彼がジープを運転することになった。
「ここら辺の地理は頭に入っています」
Kは助手席に座り、窓の外を眺め、行き交う人々の群れを眺めた。若いカップルが仲睦まじく手を繋いで歩いている。こういうことを考えるのは野暮だが、もし運命が違えば、ああいう生き方も俺にもあったのかもしれない。しばらくすると車は高速道路に乗り、何度か渋滞に捕まった。取るに足らないような小さな事故が所々起きていた。乗用車がレッカーされている横を、彼らは四度通り過ぎた。
「そろそろ入ります」とバイパーは言った。
「入ります?」、Kは聞き返した。
「つまり、目的地――東京都に」
Kは目を閉じて、任務のことを考えた。もう後戻りはできない。やるしかないのだ。運ぶべき荷物というのはおそらくろくでもないものなのだろう。でも俺は任務に忠実なハンターだ。今さら他の生き方もできまい。何か弊害があれば、その時はその時考えればいい。
「行こう」とKは目を開けて言った。「この国の首都へ」
バイパー「先輩、冷たくないですか?」
K「スンッ」