6【Ⅼ】今さら後戻りなんてできない
ツクヨミ「暗殺ノ依頼デス。『K』ト名乗ル男ヲ抹殺シテクダサイ。
報酬ハ1億7千万円デス」
パソコンの画面に映し出されたその破格の報酬に彼女らは言葉を失った。しばらくするとアイリスが「ターゲットの情報を聞き出して」と言った。リリィはキーボードを叩いた。
ゴースト「『K』と名乗る男とは何者なんですか?」
10秒後。
ツクヨミ「了承シテイタダケナイヨウデシタラ情報ハ開示デキマセン」
ゴースト「ターゲットはどのような罪を犯したのですか?」
10秒後。
ツクヨミ「了承シテイタダケナイヨウデシタラ情報ハ開示デキマセン」
ゴースト「その法外な額の報酬はどこから出ているのですか?」
10秒後。
ツクヨミ「了承シテイタダケナイヨウデシタラ情報ハ開示デキマセン」
「埒があかないわね」、アイリスが言った。「相手は人間なのかしら? まるでAIね。どうする?」
「どうするも何も、やっぱり怪しいわ」とリリィは答えた。「報酬が1億7千万だなんて——ターゲットが罪を犯した人間かもわからないし、正直気味が悪い」
「そうよね」、アイリスは考える。「質の悪い悪戯かもしれないし、先に情報を渡してこないなら断っていいかも」
「うん」、リリィはまたキーボードを叩いた。
ゴースト「先に情報を開示してください。でなければ、お断りします」
しかし返事は何も返ってこなかった。
「こいつ、なんなんだろう?」、アイリスは腕を組んだ。
「わからない」とリリィは言った。「でもおそらく招かれざる者よ」
「そうね。あんたのいうとおり、気味が悪いわね。なんか嫌なものを見せられた気分」、アイリスは難しい顔をしていた。
「でしょ?」とリリィは同意を求める。
「うん」、アイリスはそこで時計を見る。「そろそろ寝ないと。また動きがあったら教えて」
「わかった」
その晩、リリィは夢を見た。異国だろうか? 灰色がかった薄水色の空の下、しんしんと雪の舞い落ちる欧風の街並みで、凍えて白い息を吐いていると、誰かが走って迎えに来た。「遅れてごめん」、その姿は逆光を浴びていた。私は「ううん」と首を振って、その誰かのコートの袖を摑み、引き寄せてその頬に口づけをした。そのまま手をつないで私は誰かに寄りかかりながら、雪の歩道を歩いていった。
そこでノイズが走り、画面が遠のいていく。まるで舞台の客席でひとり、映像を見せられているかのような錯覚を覚える。脳の裏側から声がする。
お前にはこのような幸福な未来は訪れない。
お前にはこのような幸福な未来は訪れない。
だってお前は人殺しなのだから。
だってお前は人殺しなのだから。
だってお前は人殺しなのだから。
今さら後戻りなんてできない。
目が覚めると朝になっていた。額から背中にかけてぐっしょりと汗をかいている。怖い夢を見て、彼女は身を起こし、胸もとを手でぎゅっと押さえる。心臓の鼓動が速くなっていて、何度も深呼吸をする。カーテンの向こうはまだ暗く、鳥がさえずりあっていた。時計を見ると午前5時半で、子供たちが起きだす前にシャワールームに行って汗を洗い流そうと思い、彼女は支度をして部屋をでた。その手は血にまみれている気がした——どれだけ洗っても落ちないほどべっとりと。夢の中の声が言ったとおり、私は人殺しで、今さら後戻りなんてできないのだから。
15歳のとき洗礼を受け、18歳でシスターになった。ちょうど家庭に入って修道院を去ったシスター——それはリリィがピアノを師事していたシスターだ——と入れ替わりに。銃の訓練を積み、身体を鍛え、たくさんの暗殺の仕事をこれまでにこなしてきた。人を殺すことにとくに罪悪感は抱かなかった。それというのもターゲットはどれも生きる価値のない、世にのさばらせてはいけない人種だと思えたから。そういった輩には、きちんと制裁をくわえなければならない。むしろ彼女は使命感さえも感じていた。私がやらなければ、他に誰がやるというのだろう?
驚くことに、世間には法では裁かれない凶悪犯罪者がごまんといた。そしてその餌食になるのは、総じて弱い者たちだ。シスターたちは元神父に言われるがまま、そういった凶悪犯罪者を次から次へと、際限なく始末していったし、これまで危険な目に合わなかったといえば嘘になる。実際、死の恐怖を感じたことも何度だってある。だからといって投げ出すわけにはいかない。世の中には弱者にとっての救いが絶対に必要なのだ。死を以てしても償えない罪の多さ、重さ。せめて悪人を屠ることで、被害者の安息を願おう。そのようにして私たちは未来という物語を編纂する——
「シスター・リリィ」
その声でリリィは我に返る。
「伴奏が止まっているの」とアイサが言った。
今はアイサにピアノの稽古をつけていたのだ。
「ごめんごめん。えーっと、どこからだっけ?」
「8ページ目なの」
「うん、今度はちゃんとやるね」
「ねえ、シスター・リリィ。男の人にふられたって話、本当なの?」とアイサが心配そうに尋ねる。
「そんな、全然」とリリィは慌てて言う。「好きな人なんていないし、誰にもふられてなんていないよ?」
「そう」
「どうも噂になっているみたいだから、みんなにも言っておいてくれないかな?」
「わかったの」とアイサは答えた。「シスター・リリィはふられていない」
「そう、私はふられていない」
「周りに言っておくの」とアイサは言った。
「ありがとう」、リリィは心底感謝した。
そのあとリリィはトレーニングルームにてスポーツウェアに着替えてから、ランニングマシンに乗った。気分が晴れないときは身体を動かすに限る。時速12キロメートルで走りはじめて5分ほど経つと額にじんわりと汗をかき、全身が暖まってくる。そのあいだ彼女は走ること以外は何も考えないように努めた。そうやって頭の中のノイズをキャンセルしているのだ。30分走るとリリィはベンチに座り、タオルで汗をふきながら、ペットボトルのスポーツドリンクを飲んだ。彼女の頬は紅潮し、昨晩見た夢のことなどもうきれいさっぱり忘れてしまっていた。ただ無性に喉が渇いていた。
その夜、手鍋でホットココアを作り、マグカップに入れる。それから〈システム・サクラメント〉にログインする。相変わらずシャノワールからの返信はなかったが、履歴を見ると、シャノワールは10分前までログインしていた様子。どうにも入れ違いの形だ。おそらくシャノワールは彼女からのDMを読んだはず。それでもなんの返事も寄こさなかったことに対してリリィはネガティブな感情に沈む。リリィは〈システム・サクラメント〉をログアウトして、椅子に両膝を立てながら、ホットココアを飲んだ。ホットココアの味はほのかに甘く、ほのかに苦く——そして身体に染み入るほど温かかかった。
もうすぐ冬がくる。
窓を開けると冷たい空気が吹きつけてきて、外は街明かりによって薄明るかった。庭ではコオロギやスズムシがしきりにざわめくように鳴いている。月はほとんど欠けていて、今にも落っこちてきそうなくらい頼りなく見えた。
「しっかりなさい、リリィ」、そう自分に言い聞かせる。
リリィはゆっくりと窓を閉めて鍵をかけた。
気を取り直して彼女は毛糸と棒針を取り出して、子供たちのための手袋を編んでいった。こつこつと編んでいるうちに今では5双できあがっている。子供たちは11人いるから約半分だ。材料と時間が余ればアイリスたちや調理スタッフの人たちの分も編んであげよう。果たしてみんな喜んでくれるかな。そうしているうちに視界が徐々にぼやけてきた。手もとに雫が零れ落ちはじめる。おかしいな、子供たちの喜ぶ姿や、楽しいことばかり考えようとしているのに、どうして涙がでるんだろう。リリィは顔を覆い、そうしてしばらく声を殺して泣いた。
そのあいだ夜の静寂は優しく彼女を包み込んでいた。ただホットココアの苦みだけは妙に舌にこびりついている。
アイリス「リリィ、朝から目が真っ赤よ」
子供たち(やっぱりふられたんだ……)




