5【K】安全な場所なんてないな
*少し残酷な描写があります。苦手な方はお気を付けください。
ジープの前方には右にうねる大きなカーブが出現し、そのすぐ右手では黒いXC60が車体をぶつけてくる。
「ブレーキを目いっぱい踏め」とKは言った。
「正気ですか?」とバイパーは尋ねた。「後続車に追突されますよ?」
「後続車もカーチェイスを間近に見て我々を避けて距離を取っている。それとも高速道路から転落して死にたいのか?」
バイパーは息をついた。「わかりましたよ」
「ボルボがぶつけてくるタイミングでかわすんだ」
「了解」
右手のXC60が反動をつけて、車体をぶつけようとしてきた。
「今だ!」とKは叫んだ。
バイパーは思い切りブレーキペダルを踏み、Kもサイドブレーキをすかさず引いた。目の前を右から左にXC60がスライドしていく。そのままフェンスを破り、高速道路から落ちていった。
Kはサイドブレーキを下げた。「まだだ。すぐアクセルを踏め」
「やってますよ」とバイパーはどなった。
ジープはなんとか持ち直し、車列に戻ってカーブを抜けた。
「よくやった」とKは言った。
「これでもそれなりに修羅場くぐってきていますから」とバイパーは言った。
山梨に到着するとすっかり夜も更けていた。この暗さでは樹海には入れない。入ったが最後、確実に迷い込むことだろう。朝にアウルたちが迎えに来るのを待つのが賢明だ。
ビジネスホテルに入り、部屋にベッドが二つあるツインルームに宿泊した。敵をまいたとはいえ、固まって行動した方がよさそうだったから。〈ウロボロス〉の連中には山梨まで追ってくる気概はなさそうだが、先入観はよくない。もしかするとまた襲撃しに来るかもしれない。
「好きな方のベッド使っていいぞ」とKはバイパーに言った。
「マジすか? じゃあ窓側」、バイパーは愉しそうにベッドに飛び込んだ。
バイパーのこういう気持ちの切り替えの早さも戦地で生き抜くコツだったのかもしれないな。少しは見習わなくてはいけない等とKは思う。
「じゃあ俺はシャワーを浴びるから——」
そこでバイパーが真剣に口を挟んだ。「待ってください先輩」
「どうした?」と聞き返す。
「このホテル、なんと大浴場がありますよ」、彼の糸目が見開いた。
湯船に入ると、緊張がほぐれていった。気持ちいい。身体が芯から温まる。本当にこんなところで風呂になぞ浸かっていていいのだろうかとも思う。でも実際に疲れていたし、休めるうちに休んでおいた方がいいだろう。追手ならまいたのだ。山梨にまではやってはこれない。たぶん。
バイパーが湯船から顔だけ出して、ビーバーのように滑るように近づいてくる。
「ほぼ貸し切りっすねえ」
大浴場にはKとバイパーのほか、頑強な中年男性が二人いるのみだった。
「そうだな」
「あんちゃんたち、出張かい?」、隣の中年男性が訊いてきた。
「ええ、まあ」、Kは曖昧に肯いた。「そんなところです」
「ちなみになんの仕事してるんだい?」
「普通のサラリーマンですよ」、言って隣の男の方を向き、目が合う。
男の首筋には〈ウロボロス〉のタトゥーがあった。
「あ」
「あ」
二人はすぐに立ち上がって激しく取っ組み合い、中年男性が足を薙ぎ払ってきたところをKはいなして、相手の後頭部を摑んで壁面のタイルに叩きつけた。鈍い、振動の音がした。
バイパーの方ももうひとりの中年男性の背後にまわって腕をからめて首を絞めあげていた。
「先輩、こいつ人質にします?」
「こいつらは使い捨ての駒だ。人質にはならない。それよりさっさとずらかるぞ」
「あら」、それを聞いてバイパーは即座に男を失神させた。
彼らは着替えるとすぐに駐車場に下りて行ってジープを発車させた。山梨まで〈ウロボロス〉の魔の手が伸びてくるとは、不味い事態になった。とりあえず身を隠すのにもっとうってつけの場所はないものか。
「樹海に行こう」とKは静かに言った。
「マジですか?」とバイパーは聞き返す。
「ああ、ただし中に入るんじゃない。側面で隠れられそうなところを探す」
「オーケーです」
彼らはジープを山の方に走らせ、樹海の側面を注意深く観察してまわった。10分ほどすると、ちょうど車一台がすっぽり隠せそうなスペースがある。結局その日は樹海のそばの茂みで車中泊する羽目になった。
翌朝、樹海の入口で待っていると、ハンター・ゴートがアウルをジープの助手席に乗せてやってきた。午前7時ぴったりだった。ゴートとアウルがジープから降りてくる。
「話は後だ。追われている」
ゴートが思慮深く頷くと、2台のジープは一列に並んで樹海を突き進んでいった。相変わらず入り組んだ森だ。車がとおれる場所は限られている上、道は二手三手に分かれている。空は晴れていたが、樹海の中は鬱蒼としていて、わずかな木漏れ日を頼りに彼らは前進する。そのあいだ鳥は警告するようにしきりに啼き続けていた。2時間ほどそうしているうちに街が見えてきた。街に到着するとKとバイパーはやっと胸をなでおろした。
「また苦労かけたな」
司令室で管理者Ⅹは椅子に深く腰掛けて開口一番そう言った。
「今度こそ本当に死ぬかと思いましたよ」とバイパーが言った。
管理者Ⅹは椅子に肩肘をついた。
「今後の活動はもっと険しいもんになる」と彼女は言った。「弱音吐いてる暇はないで」
「チェリーブロッサム社さんのCEOに会いましたよ」とKは言った。「司令の妹さんだったんですね」
「びっくりしたやろ?」、管理者Ⅹは口の端を軽く持ち上げた。
「そりゃ、まあ」
「でもここだけの話にしといてくれ」と管理者Ⅹは言った。「これ以上妹に迷惑かけたないしな」
「承知しました」
「武器と弾薬の補給はご苦労やった」
「あれだけの武器と弾薬、戦争でもおっぱじめるつもりですか?」、Kは尋ねた。
「それはどうしようもなくなったときの最後の切り札や」
「〈ウロボロス〉は今後どうするんでしょうか?」とバイパーが訊いた。
「それな」と管理者Ⅹは言った。「どうするべきか迷てる。ハンターを総動員しても勝算は五分五分やな」
「でも情報は盗まれているんですよね?」とKが尋ねた。
「わからん」と管理者Ⅹは言った。「どこまでうちらのことを摑んでるか」
「山梨のホテルまで追いかけて来ましたよ」とバイパーが言う。
「そうか」、管理者Ⅹは親指を噛んだ。そしてしばらく黙った。「安全な場所なんてないな」
Kとバイパーは黙っていた。
「そうや」と管理者Ⅹは言った。「〈ウロボロス〉に捕らわれとったハンター・フロッグが昨日の夕方に戻って来たで。会うてみるか?」
二人は顔を見合わせ、そのあと黙って頷いた。
〈システム〉本部の地下2階に昇ると救護室でハンター・フロッグが医療用ベッドで眠っていた。全身に包帯が巻かれ、右目には眼帯をしている。「拷問で失明したんや」と管理者Ⅹは言った。Kはフロッグの脇に立ってその様子を観察した。フロッグは寝ているというよりは昏睡状態に近かった。どれだけひどい拷問に耐え、どのような思いで帰ってきたのか。そう思うとKは気が滅入った。管理者Ⅹはそばの椅子に腰かけ、両手でフロッグの手を握った。そして念じるように目を閉じた。
「フロッグ、すまんかったな」
フロッグの指には爪がなかった。Kはそのやるせなさに顔を背けそうになった。
そのあと解散した。無事に帰って来たものの気分が悪かった。家にはアウルが待っていて、Kがいなかったあいだの話をたくさん聞いてほしそうだったが、Kは「また明日な」と言って自室にこもった。そしてベッドに横たわる。シャワーを浴びなくちゃな。歯も磨かなくちゃな。でもなんだか億劫だった。ふと〈システム・サクラメント〉のことを思い出す。これも仕事だ。Kは机の前に座り、ゲーミングパソコンの電源を入れた。
起動するまでのあいだなんとかシャワーを浴び、歯も磨く。
パジャマに着替え〈システム・サクラメント〉にログインすると、ゴーストからDMが届いていた。
〈シャノワールさん、こんばんは。よろしければ高難度ミッションの続きを一緒にやりませんか? もし、都合がよければですが、こちらも夜は大抵ログインしていますので、いかがでしょうか?〉
しかしKはそれに返信しなかった。
今はそういう気分ではないのだ。ただ今はそういった気分にはなれないのだ。
Kは自室のオーディオでビル・エヴァンスの「アローン」を聴きながら、壁に寄りかかり、ぶつぶつと独り言を繰り返し言い続けていた。
男の入浴シーンは誰得なんでしょうね?
しかも乱闘まで……




