2【L】世界はこんなにも美しい
「ここのところ、リリィの元気がないようです」
「何? もしかして失恋?」
「こらこら、あんたはすぐそういう話に結びつけたがる」
「でもなんだか心を閉ざしているみたい」
「だから、きっと失恋だって。昨日出かけてたのも男と会ってたんだね」
「もう本人に直接訊くしかなさそうね」
シスターたちは大部屋の外の通路で井戸端会議をしていた。部屋の中ではリリィが心ここにあらずといった様子で子供たちの面倒を見ている。そこにアイリスが歩み寄っていった。
「リリィ、最近悩んでることとかない? 話聞くわよ」
リリィは上の空で顔を上げた。
「ええっと、とくに何もないよ?」、笑ってはいるが、その瞳はどこか焦点が定まっていなかった。まるで遠くでも見ているかのように。
アイリスは腰に手をあて、身体の重心を右足から左足に移し替えた。
「うそおっしゃいな。朝からずっとぼーっとしてんじゃないの?」
「ごめんごめん」、リリィは謝った。「ちゃんとするから、ね?」
「いいのよ」とアイリスは言った。「べつに無理しなくても」
「無理してないよ。ちょっと考え事していただけだから」
「そう?」
「そう」
そしてリリィはえへへとはにかんだ。
ミナとアイサにピアノの稽古をつけているあいだもリリィはなんだか心にぽっかりと穴が空いたようだった。それでも右手の練習に辛抱強く付き合い続ける。
「シスター・リリィ、どうかしたの?」とアイサが言う。
リリィははっとして笑顔を作る。「なんでもないよ」
「うそ。なんだか別のこと考えているみたいなの」
「ごめんね。ちゃんと見るからもう一度やってごらん」
「うん」
ピアノの練習が終わるとリリィは自分のメトロノームを二人に貸した。
「リズムに合わせて手を叩いてみて」
「こうかな?」、ミナがメトロノームの音に合わせて手を叩く。
「上手上手」と彼女は言った。「リズムが乱れるとメロディもばらけるから、暇があったらやってごらん」
「わかった」とミナとアイサは元気に言った。
子供たちが帰っていくと、礼拝堂にアイリスがスーツを着て現れた。
「これから出かけるから、あんたもスーツに着替えてきて」
「どこに?」
「いいから早く」
リリィはわけもわからず、自室に戻り、修道服を脱いだら、スーツに着替えた。玄関に行くとアイリスは腕を組んで壁にもたれていた。
「どういうこと?」とリリィは訊いた。
「まあいらっしゃいな。付いてきて」、そう言ってアイリスはリリィの腕を引っ張った。
外に出ると、空は青かった。ぽかぽかと暖かくまさに小春日和だ。電線の上では一羽の百舌鳥がしきりに啼いている。心なしか大きなわたぐももどこか心地良さそうだ。今の私の気分とは正反対だな、と彼女は思う。
アイリスがステップを踏んで前に躍りでて、さらに振り返って笑う。
「早く、こっちよ」
彼女らは日比谷線に乗って千代田区に行った。東京駅を降りると人ごみを掻き分け——人波がどこまでも続いている——歩いて丸の内のビジネス街を目指す。通りに面した奥に、28階建てのその豪壮なビルディングはあった。〈システム・サクラメント〉を運営している、チェリーブロッサム社の本社だ。
「ささ、行くわよ」、アイリスがリリィの背中を押す。
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで?」、リリィはわけがわからない。
「今から糞ゲーの正体を確かめにいくのよ」
「だから、それがわからないって」
「いいから。お姉さんに任せときなさい」
そうしてアイリスは前にでて、今度はリリィを強引に引っ張っていった。
「アポイントのない来館者さまは、中にお通しできません」
チェリーブロッサム社のフロント係の女性はとりすました笑顔で繰り返しそう答えた。
「なんでさ? 大手のゲーム会社だって、社内見学やってるとこあるわよ?」
「申し訳ございません」、フロント係の女性は頭を下げた。そして同じことをまた言った。「アポイントのない来館者さまは、中にお通しできません」
「どこがいけないのよ? なんで入れないのさ?」とアイリスは言った。
「何度も申していますとおり、失礼ですが、アポイントのない来館者さまはこれ以上中にはお通しできません」とフロント係の女性は笑顔で言った。
その様子をリリィはハラハラしながら眺めていた。ふと、男性の二人組が隣にいる。全然気配に気づかなかった。もしかして同業だろうか? 目をやるとショートカットの男の人と目が合った。その瞳には奥深いものがあった。
「失礼」と彼は言った。
それから彼らはその隣のカウンターのフロント係の方へ行った。
「本日はどういったご用向きでしょうか?」、もう一人のフロント係の女性が彼に尋ねた。
「猫の使いで来ました」、彼はただそう言った。
「ご案内します。こちらです」
彼らはフロント係の女性の後を付いて奥に入っていった。
「なんであいつらは入れんのよ」とアイリスはどなった。
ねこのつかい? 確かにそう言ったような? 何かのサインだろうか? リリィはしばし黙りこくった。
空は夕焼けに染まり、太陽は黄金色に輝いていた。彼女らは皇居外苑のベンチに座って、コンビニエンスストアで買ったおにぎりを食べた。
「鮭と辛子明太子どっちがいい?」
「うーん、鮭かな」とリリィが答えた。
「王道ね」
そして二人して、ペットボトルの緑茶を飲んだ。
「ところで、なんだってあんな無茶したのよ?」とリリィは尋ねる。
「単なるパフォーマンスよ」とアイリスは答えた。「どういう会社か知りたかったからね」
「それで――何かわかったことあった?」
「『何もわからない』ということだけわかったわ」
「何それ」、リリィがくすりと笑う。
「あ、やっと笑った」、アイリスは嬉しそうにリリィを指さした。
「そう?」
「うん」、アイリスは頷いた。「あんたずっと暗い顔してた。無理して笑顔作ってる感じ」、彼女はペットボトルのお茶を飲んだ。「リリィには心から笑っていてほしいのよ。子供たちのためにも。あんたはすぐに思いつめすぎる嫌いがある。何事も」
「ごめん、気を使わせているね、私」
「全然、あたしは言いたいことあったらはっきり言うし」
リリィは黙って頷いた。
「見て」、アイリスは太陽を指さした。夕日の落ちる瞬間だった。空はオレンジと紫と紺のグラデーションに染められていた。ただよう雲の底が明るく照らされている。
「綺麗」とリリィは言った。
「うん、世界はこんなにも美しい」とアイリスは同意する。そして立ち上がった。「帰ろう。子供たちのところに」
「うん」、リリィは頷いて席を立った。「帰ろう」
日も落ち、修道院に帰ると、いつものようにみんなが出迎えてくれる。
「お土産は?」と小さな子供たちが目をきらめかせて催促する。
アイリスは箱に入ったもなかを渡した。子供たちのあいだで歓声が湧き起こる。
「遅かったじゃない」とビオラは言う。「もう夕食済ませたわよ」
「心配しましたよ」とパンジーも手を組んで言う。「何か面倒はありませでしたか?」
「子供じゃないんだから」、アイリスは苦笑する。「ちょっとこの目で確かめたいことがあったのよ」
「何を?」
「パンダの尻尾は白か黒か」
「何それ、どうせまたアイリスのわがままでしょ?」とビオラが言う。
「アイリスは悪くないわ」とリリィは口を開く。「ずっと私を励ましてくれていたの」
「むう」
「まあ今度はビオラとパンジーでお出かけしてきなさいな」とアイリスが言う。「子供たちの面倒はあたしたちが見るからさ」
「え、いいの?」、ビオラのしかめっ面が一瞬にして晴れやかになる。「どこ行こうかパンジー?」
「そんな、急に言われても」、パンジーはおろおろしていた。
その夜もリリィはいつものように、自室で〈システム・サクラメント〉にログインしていた。シャノワールの履歴を見ると、1日以上ログインしていない様子だ。たまたま仕事が忙しいのかもしれない。チャットは24時間で消えるが、メールは一週間削除されない。彼女はただ何もせず、ワールドチャットの会話を覗いては、椅子の上に両膝を立て、意識もどこか遠くに行っていた。
何もする気にならないし、もう寝ようと思った矢先に彼女のメールボックスにDMが届いた。シャノワールさん?
送り主は〈ツクヨミ〉という人物だった。フレンド登録もしていない。つまり知らない人だ。そしてメールの内容はこうだ。
〈空がひび割れて落ちてきました。そちらはいかがですか?〉
ビオラ「やりい、お出かけだ。つまり休みだ」
アイリス(やっぱりチョロいな)




