10【L】リズムは何ものにおいても重要なのだ
〈システム・サクラメント〉をログアウトすると、リリィは噛みしめるように高難度ミッションをクリアした余韻に浸った。しばらく椅子の背にもたれて天井を見上げる。シャノワールさん、やっぱり素敵な人だったなあ。頼りがいがあるし、銃なんて百発百中でかっこよかったなあ。そんなことを思いながら彼女は洗面所で歯を磨いて、鏡に映る自分を眺める。その顔は生き生きとしていて、きらめいて見えた。気分のいいうちにうがいをしてベッドに入るも、浮かれていたので中々寝つけない。でも、彼女はかまわなかった。眠りが訪れるまで、シャノワールのことを考えればいいのだから。
翌朝の朝食はロールパンにクラムチャウダーとゆで卵だった。リリィは4歳の女の子のために、ゆで卵の殻を剥いてやっていた。
「やっと念願のゆで卵ね」とアイリスが隣で囁いた。「もっと子供たちに栄養つけさせないと」
「みんな育ち盛りだもんね」とリリィも言う。「ひもじい思いだけはさせたくないわ。みんなお腹いっぱいになってほしい」、そう言って横に座っているイチカに殻を剥いたゆで卵を渡す。「はい、きれいに剥けたよ」
「ありがとう」、イチカはやや舌足らずに愛嬌を振りまいて、それを受け取る。
「よく噛んでね。喉に詰まらせちゃ駄目よ」
「あい」、イチカはゆで卵に夢中だ。
「どう? 美味しい?」、リリィが訊く。
イチカは顔を上げてにっこりとした。「うん」
リリィは口の端の卵の黄身をハンカチでふいてやった。
「ところで、例のゲームはどう?」とアイリスが尋ねた。
「だいぶん進んだわ」とリリィが答える。「でもとくにこれといっておかしな兆候はなさそうね」
「そう。ならいいけど」
「アイリス」とリリィは呼びかける。
「何?」
「ミナとアイサがピアノを習いたいっていうの。楽譜を買うお金、なんとかならないかしら?」
「ああ、それだったら経費で落とすわよ」とアイリスが言う。あっけらかんとした調子だ。
「ほんとに?」、リリィの顔がぱあっと明るくなる。「ありがとう」
「どういたしまして」、アイリスは微笑した。「買い物に行くんならお土産よろしく」
半日暇をもらい、リリィはさっそく電車に揺られて池袋に行った。白いVネックのカットソーにダークブラウンのワイドパンツ、黒いアンクルブーツといった恰好だ。胸もとのチャームがさりげなく、白いバッグも携帯していた。ほとんど全部安物や、もらいものだが、彼女はものを大切にする質なのでどれもしみひとつなく綺麗だ。途中、人の視線を感じて、それが鬱陶しくてバッグから緑のサングラスを取り出して顔にかけた。以前に山手線で痴漢にあった際、その手首を摑んで取り押さえたところ、駅事務所で警察に事情を聞かれて面倒だったから。素性は隠せたとしても、時間は戻ってこない。
池袋に着くと、まっすぐ大型書店に向かった。見上げるほど大きなビルディング——丸まる一棟が本屋なのだ。エスカレーターを使い上層を目指すと、目的の場所にたどりついた。ピアノの楽譜のコーナーである。ピアノの教本「バイエル」を手に取って眺めると、彼女は懐かしい気持ちになった。初めて自分が楽譜を手にしたのも——当時、師事していたシスターがくれた——バイエルだった。あのシスター——名前なんだったっけなあ? 頭の裏側がちくちくする。でもどうしても思い出せなかった。そうしてリリィはバイエルを2冊持ってレジカンターの列に並んだ。
どうせならメトロノームもあと二つほしいところだが、そこは子供たちの成長を見てから考えよう。決して安い買い物ではないし、私の物がひとつある。それに子供たちが途中で練習を投げ出さない保証もない。でもリズムは何ものにおいても重要なのだ。リズムがなくては規則性も生まれない。
そのあとコーヒーショップに入り、ブレンドコーヒーのホットにベーコンとほうれん草のキッシュを注文した。それから1階のテラス席に腰を下ろし、街行く人々を眺めながら食事をした。驚くほど大勢の人が、驚くことに何かしらの目的を持って歩いている。ほとんど誰もが列を乱したりもしない。それは彼女にとって不思議な、どこか異国に迷い込んだかのような感覚だった。ただ人並みが入れ替わっていくも、そこには彼女が求めるものは何も読み取れなかった。しばらくそんな光景を呆然と眺めたあと、息をつき、席を立った。
古本屋に寄る。これといってほしい物はないのだが、せっかく池袋にまで来たのだから、本やCDを見分してまわる。まずは小説のコーナーを丹念に、ゆっくりと見て歩いた。やがて一冊の本に目が留まる。ディケンズの「クリスマス・カロル」だ。人間嫌いのスクルージ老人は最後、どうなったんだっけな? 読んだのが遥か遠くに感じられて思い出せない。それとヘミングウェイの「日はまた昇る」もカゴに入れた。いいタイトルだ。リリィは基本的には本やCDは古本屋でしか買わない。新品だと値段が高すぎて、買うのがもったいなく感じるし、その上購入したものが自身の気に入らない、あるいは趣味じゃないものだとがっかりするからだ。中古品だと仕方ないかと思える。あとアイリスにお土産も買って行こうと思う。それはすぐに決まった。アイリスの好きなスタン・ゲッツの「ベストコレクション」のCDだ。アイリス曰く、スタン・ゲッツこそジャズらしい。ジャズこそスタン・ゲッツだとも。振り切っているようでいて、シンプルで要を得た見解だ。
次に子供たちにもお土産を買ってあげなくちゃと思い、百貨店の地下に向かった。お菓子売り場に着くと、店舗をかまえる店員が皆制服に身を包みキラキラして見えた。フィナンシェやタルトを眺めながら、子供たちみんなで食べられるものがいいよね、と彼女は思い、色々と見てまわる。そして缶入りのクッキーに目を留める。量もあるし、ちょうどいい。それはアーモンドパウダーを練り込んだクッキーだった。
「包装はどうされますか?」、会計の際、店員にそう訊かれた。
「お願いします」とせっかくだからリリィはお願いした。
そして渡された紙袋を受け取ると、礼を言ってその場を後にした。
辺りには夕暮れが差し迫っていて、西日が燃えるように激しく街を照らしていた。ビルディングの隙間は翳り、街行く人々の影は長く——長く伸びていた。目の前を女性向けの高収入求人サイトの広告宣伝車が、大音量を響かせながら走り去っていく。目まぐるしい光景に彼女はしばし立ち尽くした。
そうやって人波は絶え間なく通りすぎていき、彼女は自分が何者でもない「何か」——まるで透明になったかのような感覚を覚える。やがて彼女は思った。私には帰るべき場所がある。帰ろう、修道院に——
紙袋を両手に提げて修道院に戻るとみんなが出迎えてくれた。缶に入ったクッキーを子供たちに渡すと歓声が起きた。小さい子供は包装をはがし、さらに缶のテープをはがすのに夢中だ。アイリスにスタン・ゲッツのCDを渡すと、彼女は「わかってんじゃない。ありがと。大事にするわね」と言って微笑んだ。ビオラとパンジーにはそれぞれ雑貨屋で買った発色のいいポーチをプレゼントした。彼女たちもまた嬉しそうに礼を言った。
次にミナとアイサを呼び寄せる。リリィは二人それぞれに本屋で購入したピアノ教本のバイエルを渡した。
ミナは目を輝かせる。「もらっていいの?」
「もちろん」、リリィは首肯する。
「ぜったい大切にするの」、アイサはバイエルを胸に抱えた。
「明日から練習するから、軽くでいいから目を通しておいてね」
「わかった」、二人は元気よく頷いた。
翌日の夕方、リリィはミナとアイサにピアノを教えた。まずは右手の練習だ、力を入れすぎず鍵盤を打った瞬間に指を上げるように、焦らずゆっくりと指導する。指の運動は平均していなくてはならない。ミナとアイサを交互に教えるがどちらの方も呑み込みは悪くなかった。ただミナはリズムが少し走りがちだ。
「メトロノームの音をよく聴いて」
「うん」
ミナはメトロノームの音に身を任せて鍵盤を叩いた。
「できた」とミナは歓喜した。
「ええ、その調子よ。あとは自分でリズムが取れればいうことなしね」
「やったあ」
「筋がいいわよ。きちんと段階を踏めばきっと上手くなれると思う」
「シスター・リリィ」とミナは言う。「私『きらきら星』が弾きたい」
アイサも言う。「私は『猫踏んじゃった』が弾きたいの」
「いいわね」とリリィは言う。「弾きたい曲があるのはいいことよ。基礎ができたら練習しましょう」
「うん」、二人は嬉しそうに頷いた。
その夜、リリィは自室で〈システム・サクラメント〉にログインした。メールボックスは空だ。シャノワールからのDMもない。今度はこちらからもお誘いするっていったし、DMを送ってもいいよね? そう思いシャノワールのメールボックスにDMを送信する。
〈シャノワールさん、こんばんは。よろしければ高難度ミッションの続きを一緒にやりませんか? もし、都合がよければですが、こちらも夜は大抵ログインしていますので、いかがでしょうか?〉
シャノワールはログインしていなかったので、リリィはデスクの前に座り、子供たちの手袋を編みながら、返事を待った。しかし、次の日も、その次の日も、シャノワールからの返信はなかった。いつしかリリィは椅子の上で、パソコンのモニターを見つめながら膝を抱えて放心していた。
イチカ「おねえちゃん、おめかししてデート?」
リリィ「ち、違うわよ」




