2【L】あちら側に送ってほしいのです
天井にほど近い窓からは、ステンドグラスを通して、色鮮やかな光線が差し込まれている。その下では一人の娘が手を組んで祈りを捧げていた。光を受けて、その長い髪は艶めいており、下方に閉じられた睫毛も長く、まるで繊細なガラス細工のようだ。降雪したならば、睫毛の上に雪が積もりそうなくらいに。修道者の誰よりも早く起床し、修道服に身を包んで、礼拝堂で祈りを捧げるのが彼女の日課であった。物心ついた頃から、ずっと修道院で暮らしてきたせいで、他の生き方を彼女は知らない。しかし娘にも信念はある。それは少しでもタフになることだった。私はまだまだ脆弱だ。もっと強くならなくてはいけない。
「シスター・リリィ」
後方で呼びかける声がしてリリィははっとして振り返った。それほど祈祷に集中していたのだ。
「いつも朝から精が出ますね」
「神父様」と彼女は言った。
「民の安寧を願っているのですか?」と神父は尋ねた。黒い司祭服を着て、顔には穏やかな笑みを浮かべている。
「それもあります」と彼女はうつむき加減に答えた。「でも大半は自分のために祈っています」
「大いにけっこうです」、神父は手を広げた。「神はきっとご慈悲をくださることでしょう」
「はい。ありがとうございます」、リリィは頭を下げた。
「ところで後でお話があります。私の部屋に来てください」
彼女は言葉に込められた意味を察した。「ゴキブリ駆除ですか?」
「ハハ、ただのお茶会ですよ」
神父はにたりと笑って、満足そうに去って行った。
神父と入れ替わりに今度はシスター・アイリスが礼拝堂にやってきた。彼女は神父とすれ違う際に頭を垂れると、その後すぐにリリーの側に擦り寄ってきて、声のトーンを下げた。
「あんたも神父様のお茶会に呼ばれたみたいね。ゴキブリ駆除、いつまで続くんだろう?」
「ゴキブリが全滅するまでよ」と彼女はきっぱりと答えた。
「あんた、それ本気で言ってんの?」、アイリスは眉をしかめた。「ゴキブリはいなくならない。しぶとく増え続けるだけ」
「そうだとしても為す術もなく、ただ漫然と見ているだけなんて嫌よ、私。そのために使徒になったんだもの。ここにはもっと年若い女の子たちだっている。私たちが守ってあげないと駄目よ」、その眼差しには決意が込められていた。
「オーケー」、アイリスは諦めたような顔をした。「とにかくお茶会に呼ばれに行くわよ、シスター」
リリィは口を真一文字に結んで頷いた。
神父の部屋の扉をノックすると「お入りなさい」と返事がした。中に入ると紅茶の香りがした。部屋は二十畳くらいで什器はすべて古く、使い込まれている。その奥のテーブル席に神父は座って穏やかに微笑んでいた。
「本日はお招きに預かりありがとうございます」、アイリスはかしこまって言った。
「お呼ばれに来ました」、リリィは一礼した。
「どうぞ、お座りなさい」と神父は笑みを絶やさずに言った。「カップは温めてあります。紅茶を入れましょう」
神父はティーポットから三つのティーカップに紅茶を注いだ。芳しい匂いが部屋の中に立ち込める。そして紅茶は三人の席の前に置かれた。ありがとうございますと彼女たちはお礼を言った。
「熱いから気をつけてください」
リリィは一口紅茶を飲んだ。相変わらず美味しい紅茶だ。爽やかな香りが鼻から抜ける。いったいどこで茶葉を仕入れているのだろう? 修道院は寄付も受けているが、基本的には自給自足なのだ。紅茶の葉を育てている余裕などない。きっと神父様しか知らない裏のルートがあるのであろう。
「紅茶を飲みながら聞いてください」と神父は言った。「二人ともお察しのとおり、またゴキブリの駆除をお願いしたいのです。ターゲットは強姦魔の若い男です。こちらで把握しているだけでも、もうすでに七回も罪を犯していますが、親が大物政治家のため、警察はそちらの顔色をうかがうばかりで、手をこまねいています。正直に申し上げて、あてにはなりません。そこであなたたちの力でターゲットを『あちら側』に送ってほしいのです」
神父はにこやかにシスターたちの真剣な顔をうかがってから話を続けた。
「追って指示を記載した資料を渡します。その中にターゲットの個人情報も記載されておりますので、目を通したならば、すぐにシュレッダーにかけて処分するようにお願いします」
二人のシスターはティーカップとソーサーを手に、揃って頷いた。
自室に戻ると資料が届けられた。ターゲットの名前はタカハシノボル。年齢は二十二歳。S大学の経済学部に通っている。カレーを作るのが趣味らしく、毎週SNSに投稿までしている。そのために火曜日の夜は決まってマンションの部屋で過ごすらしい。今日がその火曜日だ。
リリィはクローゼットを開け、慎重に衣類を眺めまわす。そして濃紺のニットにやや丈の短いクリーム色のスカートに着替えた。姿見の中の自分を確かめる。どこからどう見ても清楚だ。ふくよかな胸もほどよく強調されている。できれば胸元にワンポイント、ネックレスでもつけたいところだが、さすがに仕事には不要だし、特段こういう恰好が好きなわけでもないのだと感じて断念した。大体これからデートに出掛けるわけではないのだ。
扉を三回ノックする音がした。細く鋭い音だ。
「どうぞ!」と彼女は姿見の前でどなった。
アイリスが部屋に入ってきた。宅配便の業者の恰好をしている。宅配便の業者の恰好をしていればどこの建物に入っても、まず怪しまれない。配達員には意外と女性が多いこともあって、変装するには都合がいいところだ。彼女は帽子のつばがそこにあるのを確かめるように何度も触って位置を正した。
彼女はリリィを一目見ると、腰に手を当てて感想を述べた。
「へえ、様になってるじゃない。やりすぎず、でも地味でもない。いいとこのお嬢さんみたいよ」
「資料には目を通した?」、リリィが尋ねた。
「バッチリよ。もうシュレッダーによって細切れだわ。あたし、記憶力はいいんだからね」
リリィも資料をシュレッダーにかけた。「それじゃあ、行きましょうか。ゴキブリ駆除に」
「ゴキブリ駆除に」、まるで乾杯の合図のように、アイリスは口の端を持ち上げて頷いた。
日はすっかり暮れていた。金網に並んでとまっているカラスたちはしきりに啼いている。空には月が見えず、代わりに分厚い雲がひしめいていた。
アイリスの運転する黒いセダンの助手席でリリィはずっと過ぎゆく景色を眺めていた。車中にはFMが流れている。曲目はチャイコフスキーの〈ピアノ協奏曲第一番〉だ。仕事中に聴くにはかなり荘厳な曲である。でも、彼女はその音色に、ひととき身を委ねた。
ターゲットの住む十階建てのマンションの前に黒いセダンが到着すると、アイリスは近くのコインパーキングに車を停めた。そして二人でトランクから鈍重なグレーのキャリーケースを引っ張り出した。
立派なマンションだ。親が大物政治家なだけはある。まずは確実に中に侵入しなくてはならない。取引があるので失敗は許されない。チャンスは一度切りだ。エントランスにはオートロックの自動ドアが立ち塞がっていて、アイリスは傍のインターホンに適当な――目的の部屋は避けて――部屋番号を入力した。二軒目で応答があった。
「はい、どちら様で?」
「宅配便です。お届けにあがりました」、アイリスはカメラに向けて愛想よく笑った。
「ああ、どうぞ」
自動ドアが開くと、すかさず二人は中に入った。
505号室がタカハシノボルの住まいだった。想定通り、部屋の明かりはついている。リリィとアイリスはターゲットの部屋の前に着くと辺りを見回した。夜が辺りをすっかり蝕んでいる。闇に紛れるなら最適な頃合いだ。ましてやゴキブリ駆除となると――
「あたしが周囲を警戒して見張っとくから、次は任せたわよ」とアイリスは言った。
「わかった」、リリィは覚悟を決めて頷いた。
深呼吸して玄関前のインターホンを鳴らす。しばらくすると反応があった。
「なんだ?」
「<クラブ・アラベスク>から来ました」と彼女は答えた。
少しばかり沈黙があった。
「女なんか頼んじゃいねえよ!」とタカハシノボルはどなった。
「おかしいですね。こちらの住所だとうかがったのですが……」
「ううん、ちょっと待て。今そっちに行く」
玄関扉が開き、タカハシノボルが出てきた。痩せていて、四角いフレームの眼鏡をかけている。その奥の目つきは鋭い。彼はリリィを頭の上から足先までねめるように眺め回し、しまいには生唾を飲み込んだ。
「いいだろう」と彼は言った。「いくらだ?」
「一時間一万八千円です」とリリィは落ち着いて答えた。「延長やオプションは追加料金も発生しますが」
「入れ」、タカハシノボルは彼女を部屋に招き入れた。
「失礼します」、リリィは周囲を警戒しながら玄関でパンプスを脱いだ。
リリィ「こんな服装、恥ずかしい」
アイリス「堂々となさいな」