6【L】今のところ特に異常はないの
「私、夢を見たの。森の奥で、デジタル家畜というものになって働く夢なの」とアイサは不安げに言った。ちなみにこの小さな修道院で一番勉強熱心な女の子だ。話し方も要を得ている。
「デジタル家畜っていったい何?」と、当然のごとくリリィは尋ねる。
「よくわからないの。でも毎日機械のように労働する人のことなの」
「あなたはどんな仕事をしていたの?」、リリィがまた尋ねる。
「田畑の管理なの」とアイサは答える。「四方を森で囲まれた小さな街——そこはただ〈街〉としか名前がないの——で、その日は黙々と雑草を鎌で刈っていたの」
「それだけかな?」
「ううん、実はこのあと奇妙なことが起こったの」
「どんな?」
アイサは息をついて話し始めた。
「田んぼの世話をしていると、どこからともなく黒い瘴気のようなものが飛来して、私の体内に入りこんだの。すると『コロセ、コロセ。隣人をコロセ』と耳鳴りがして、私の精神は錯乱してしまったの。私は奇声を発し、近くにいた人たちに襲いかかるの。皆逃げ惑いながら田んぼのあいだの道を駆け出すの。一人の中年の男性が転ぶの。私は中年男性めがけて手の中の鎌を振り上げるの。その瞬間、私の太ももに激痛が走ったの。銃のようなもので撃たれたようなの。気がつけば茶色いポンチョ? 雨具を着た男性に鎌を取り上げられて、あっという間に地面に圧しつけられたの。しばらくすると眠りに落ち、あとはずっとマーガレットのお花畑の映像が視界を占領したの。とてもリアルな夢だったの」
「そう、辛い夢を見たのね」、リリィがそう言う。「大丈夫? 具合は悪くない?」
「今のところ特に異常はないの」とアイサは言った。
「あとで具合が悪くなったらちゃんと言ってね」
「わかったの。でもむしろ爽快な気分なの」、アイサは笑った。
リリィは他の子供たちを眺めまわす。
「あなたたちもあとで気分が悪くなったらちゃんと報告するのよ」
「はーい」と子供たちは大きな声で返事をする。
アイサの話はとても簡潔だったと彼女は思う。そして黒い瘴気とは私が目撃した、子供たちがうなされた時のものと同様のものなのだろうか? もしくは何か別の脅威が働いているのかもしれない。
例に漏れず、リリィはアイリスにアイサの件を相談しにいく。ドアを三度ノックすると「どうぞ」というどなり声が聞こえた。アイリスは相変わらずデスクの前で書類の山と格闘中だった。向かいのテーブルの席につくと、彼女はアイリスにアイサの話を語って聞かせた――なるべく彼女から聞いたとおりに。そのあいだアイリスはうんうんと肯きながら、書類の整理をしている。そして書類に判子を押した。リリィは話し終えるとふっと息を洩らした。
アイリスは言った。「前にも言ったけど、そのあと子供たちに異変がないかが心配ね。アイサは特にね」
「そうなのよ。子供たちをもっと注意して面倒みてあげないといけないわ。私たちが子供たちを守ってあげないと」
「わかった。少しリリィに頼りすぎていたわ。ごめんなさい。あたしもなるべく子供たちのお世話をするわね」
「ありがとう」とリリィは礼を述べた。
「黒い瘴気の正体はなんなのかしらね」
「わからない。でもきっと好ましくないものよ」とリリィは言った。
「どこから発生してんだろう?」
二人はうーんと首をひねった。
「そうそう、話は変わるけれどさ」、アイリスはほくそ笑んだ。「先日のゴキブリ駆除の謝礼が指定の口座に入金されたわよ。きっちり500万円」
「すごい」、リリィは手を合わせて感激した。
「どうやらシャノワールさんは多少信用できる取引相手のようね」
「シャノワールさんは信頼のおけるお方よ」、リリィはムッとして言った。
「なんでムキになんのさ?」、アイリスがきょとんとする。
「べつに」、リリィは顔をそむけた。
その日の夕方リリィはベートヴェンのピアノソナタ第21番ハ長調作品53〈ワルトシュタイン〉をグランドピアノの前に座って弾いていた。32あるベートーヴェンのピアノソナタのうち、〈熱情〉と並んで中期の最高傑作と評されている曲だ。リリィは昔からこの曲が純粋に好きだったし、何度も練習した。リリィは無心に88個ある白と黒の鍵盤の上を巧みに叩き続けていた。とても難解で技巧的な曲だ。このピアノソナタはベートヴェンが難聴に苦しむ中、遺書を残してまで書いた作品である。そんな中ピアノソナタを演奏するリリィの方はもはや瞑想状態に等しい。暗譜しているので頭を垂れて弾きこなす。そして音楽の世界にどっぷりと浸っている。それから軽やかに音の世界に没入する。
演奏が終わると拍手喝采が起きた。礼拝堂の前列の席で子供たちみんなが聴いていたのだ。気晴らしにピアノを弾いているうちに自己陶酔してしまった。リリィはそう思い、顔を赤らめながらも子供たちに向けて堂々とお辞儀をした。
「すごいすごい」、ミナが叫んだ。「本物のプロみたい」
「馬鹿ね。れっきとしたアマチュアよ」とリリィは返す。
子供たちは笑った。
「さ、夕食の準備をしなさい」
子供たちは元気よく返事をした。
夕食はバゲットにポタージュスープ、そして小海老のグラタンだった。気前よくアイリスがまた奮発したのだ。お祈りをしたあと、子供たちは夢中になって食べ始めた。
「熱いから火傷しないようにするのよ」とパンジーが声を張った。
リリィの両隣にはミナとアイサが陣取った。何やら相談事があるらしい。ちょっと照れ笑いを顔に浮かべている。話の先陣を切ったのは12歳のアイサだった。
「ねえ、シスター・リリィ、私にも、その、ピアノを教えてほしいの」
「はいはい! 私もそれ言おうと思った」、14歳のミナも負けじと元気にそう言う。
リリィは考える。「私でいいの?」
「シスター・リリィだからいいんだよ」と二人して答えた。
「私の指導はスパルタよ?」、リリィは微笑んだ。
「ウソだ、ぜったい優しいに決まってる」とミナは首を振って否定した。
「私は厳しくてもかまわないの」、アイサは神妙に言った。「その方が上達できそうなの」
「じゃあまずは音階の練習からね」とリリィは顎に手をかけて言った。「今度簡単な楽譜を二人にあげるわね」
「やったー」、ミナとアイサは両手を上げて歓喜した。
「ところでミナ。この前は辛く当たってごめんなさいね。その、シスターになりたいって話」、リリィは申し訳なさそうにする。
「ぜんぜん平気だよ」、ミナはにっこり笑った。「シスター・リリィは私のお姉ちゃんみたいなものだから。寝たら喧嘩はおしまい」、そしてスプーンで掬った小海老のグラタンをふーふーする。
「ありがとう」
今度はアイサの方を向く。
「アイサは具合どうかしら? あれから疲れたりしてない?」
アイサが手を差し出して答える。「心配しすぎなの、シスター・リリィ。私は、ほら、このとおり元気なの」
「ありがとう」、リリィはアイサの心遣いに嬉しくなって顔に笑みを浮かべて彼女の頭を撫でる。
「アイサだけずるい。私も撫でて」と途端にミナが抗議する。
ミナの頭も撫でてやると、猫のような甘えた声を彼女は発した。
その夜、トレーニングルームで吸汗速乾素材のシャツとパンツに着替えて、ランニングマシンを時速10キロメートルのペースで走りながら、その脇の手すりにもたれているビオラの話に耳を傾けていた。
「アイリスのやつ、最近子供たちに贅沢させすぎじゃないの?」
「あらいいじゃない。たまのご褒美なんだもの」、リリィは前を向きながら言葉を返す。ランニングマシンで早く走るときは前を見ていないと危険なのだ。
「それはわかるけどさ、でもさあアイリスのやつ——たとえば今日も調理師のおばさんたちにチップ弾んだりとかさ——どんどん羽振りがよくなってない?」、別に本当はアイリスに不満なんて端からないが、ただ誰かに愚痴をこぼしたい気分なのだ。
「アイリスは誰よりも倹約家よ。それにしっかりしてる」、身体が温まって額から汗が噴き出してくる。額の汗をリストバンドでぬぐう。
「でもさあ、アイリスのやつ。鈍感すぎやしないか? いつも能天気にケラケラ笑ってさあ」
その言葉はリリィの癇に障った。
「逆よ。アイリスがどれだけ機微に聡く、繊細か。人一倍、いや人三倍努力してるのに、あなたにはそれがわからないの?」
リリィの態度にビオラは縮み上がった。「ごめんごめん。わかってるって。アイリスの存在なくして今のあたしたちはないから。ね、機嫌直してよ」
「さっきのビオラの言葉、全部しっかり記憶したから、後でアイリスに告げ口してやる」
「やめて」
リリィは何も言わなかった。でももう怒ってはいない。ビオラの反応を楽しんでいただけだ。ビオラは溜息をつくと「それじゃあ子供たちの様子を見てくるわ」と言ってその部屋を退出した。リリィは「ええ、お願い」と言ってバランスボールを用いて体幹を鍛え始めた。
「ああ、やっぱり、何度挑戦しても駄目だわ」
その日の深夜、リリィは自室で〈システム・サクラメント〉の高難度ミッションにトライしていた。しかし暗殺者の数が多すぎて上手くさばききれない。しまいには暗殺者の銃弾に倒れて、セーブした街に戻されてしまう。何か切り抜ける手段はないものか。
ふと他のプレイヤーと共闘すればいいのではないかと閃く。でも他のプレイヤーかあ。みんな知らない人だからなあ。そう思いながらフレンドリストを眺める。そして唯一接触したことのあるプレイヤーに目が留まる。それから彼女は顔を赤く染めて戸惑った。
いったいどのようにお誘いしたらいいんだろう、シャノワールさん?
ビオラ「リリィ、怒らすとまじで恐い」
リリィ「聞こえてるわよ(背後で)」




