157 苦しみは夢幻のごとく
「まず、わたくしの力は、魂を操ります」
見映えが悪いと、世界は色めきを与えられた。
ごく平凡な、牧歌的な村の様相を再現されている。
もちろん、再現されているだけなので、獣や虫は一匹とて居ない。そんな命なき自然の中、異質な空気を放つ集団。
彼らは数刻前まで、並んで使徒の話を聞いていた。
だが、今は地面にのたうち回り、呻き声を漏らすだけの存在となっている。
惨憺な有り様を、使徒だけが軽く見下ろす。
「皆様に受けていただけいているのは、『魂の拡張』です。魂とは、生物のエネルギーの源。肉体という殻と、魂という中身が合致し、生物は生物足り得る」
血が出ている訳ではない。
体に異常があるようには思えない。
だが、尋常ではない苦しみようだ。
「肉体は、鍛えれば強くなりましょう。しかし、魂はいかにしてその力を練磨させるか。答えは、存在しない、です」
魂は、存在そのものが神秘に満ちている。
観測すら困難を極め、魔法という技術が確立されたこの世界でも、分かっていないことがほとんどだ。
唯一知られているのは、生物には必要不可欠なものであることくらい。
そんな聖域に、使徒は踏み込み、己の力で踏み荒らしているのだ。
「魂は、今のまま強靭になることはない。肉体、精神の限界を迎え、さらにその先へ辿り着けたのならば、それは強くなったのではなく、変質です」
触れてはいけない聖域だと、そう評価する人間もいる。
魔法について、どうしても解決できない矛盾や問題を、魂によるものと仮定する理論は多くある。それだけ、根源的で美しいと信じられてきた存在だ。
最も難しく、最も尊く、最も純粋。
これを語り尽くせる人間は、妄言を吐く愚か者か、人類が知らない知識を得た怪物か。
「まったく別の存在へ成るのです。つまり貴方たちは、根元から人間を辞めるということ。地獄を見た先に、貴方たちはこれまでにない力を得ます」
己の未知の部分をいじくられ、容赦のない蹂躙を受け入れる。
今、されていることはそういうことだ。
肉体の中の、精神の中の、小さくて脆い、己を形作る基礎となるものを、自然ではない形で変えられることは、耐え難い苦痛である。
自己を押し曲げられる途方もない痛みと、自己を否定される不快感。歪のない強靭な精神すら壊されかねない試練である。
痛む肉体は、どんな苦痛も耐え得るほどに経験してきた。
その絶望に折れないために、精神とて強くなれた。
ただ、経験のない痛みの前には、どうなるか。
「当然、変質に耐えきれず、魂が砕け散る危険があります。その場合は死にますが、わたくしなら、砕けたそばから造り直し、形を保てます」
理性もなく、思考もなく、踠いて苦しむだけの肉となる。
体は変わり果て、精神は磨耗し、魂はその本質から曲がっていく。
いったい、それは元の存在と呼べるのか。
少なくとも、使徒が見てきた実験生物の中では、原型を留めたと呼べる存在すら居なかった。
「三年ほど、じっくり時間をかけて、貴方たちを完全な生物に仕立てる。元の素材が良いので、わたくしを上回るくらい存在にはなるかもしれない。まあ、期待通りにならずとも、今のわたくしにできる最善はしましょう」
幾万の実験の末の今現在、物憂げな瞳に映るのは、そういうくだらない結末を見続けたからだ。
流石に、そんなことは起こらないか、と残念がる。
可能性など無きに等しいが、何度も同じ期待をかける。
そうやって、使徒は身勝手に数多の命を奪ってきた。
「そう、思っていたのですが……」
「あてが、外れた、か……?」
ぼうっと、使徒は隣の人物を見る。
青白い表情で、脂汗を流しながら、苦悶に歪む。クロノは、今にも事切れそうな儚さを隠す余裕もない。
未だ、まともに感覚が働かないほど苦痛があるはずだ。
まさか、座って話ができるなんて、想定していなかった。
全身麻酔で寝かせた患者への手術中に、急に起きて会話を始めたのだ。それは、意味が分からない、理解不能な光景である。
「期待していませんでしたよ。あて、と言われれば、強大になれど、理性が消し飛んだ貴方たちを、わたくしが操ることですかね」
「腹黒、め……」
「なんとでも。これでも、わたくし必死なんです」
一見、事実を話しているだけのようだ。
もしくは、とてもつまらなそうだった。
血の気の引く、血管の隅々が凍りつきそうな苦痛の中にも、その表情だけはくっきり映った。
「必死、ね?」
「必死です。千載一遇、あと万年待とうと、この機会はない。『神の子』だけでなく、英雄を越える資質を持つ天才たちまで、この手で操れるかもしれない」
あらゆる機能が働かない。
何を想い、何を感じ、何を隠しているのか、検討もつかない。
静かに燃える炎は、力強く、熱が籠る。
焼き尽くす熱は外には漏らさず、蓄え、抱えた身も焦がす。
この危うさは、感じ入るところがある。
「わたくしは、教主たちを止めなければならないのです。貴方たちは、そのための都合の良い駒です」
「止めなければ、ね?」
「わたくし、ずっとそう言っているはずですが?」
「……なら、使徒の、立場で、何故人を殺してきた?」
苦痛が一層増して、身を悶える。
魂の破壊と再生の速度が上がる。
話を遮るようなタイミングだが、作為であるとは思わない。
疑うことより先に、気になることがある。
「貴女は、止めたいという人たちと、戦わず、むしろ、積極的に、使徒として活動していたんじゃないか……? 教団がもたらした、被害、最も大きく、悪質なのは、貴女と聞いた」
「そうですね。わたくしは他の使徒に比べ、人類への利敵の期間も長く、とりわけ冒涜的な技を使います。その評価も間違っていない」
息が詰まって、胸が苦しい。
全身が絶えることなく痛い。
あらゆる部位が焼け落ちそうだ。
死からは遠く、しかし、地獄に近い。
汗を拭っても拭いきれない。
クロノは、自分が今、正しい判断ができるかどうか、分かっていない。
朦朧とした意識の中で、彼は本能に従って使徒へ求める。
そう、求めずにはいられない。
「確かに、気にくわなければ戦えばいいでしょう。騎士団なりなんなりに味方をすればいい。そうでなくとも、スパイにでもなればいい。それが正しいのでしょうが、そうはいかない。教主と第一使徒が強すぎたのです」
「…………?」
「教主か、第一使徒。そのどちらかが一方相手として、仮にわたくしが千人居ても、何万回挑んでも負ける。アレらは、怪物です。平服する他にはなかった」
人の奥底の、美しいものを、求めずにはいられない。
「わたくしは、あの二人に呪いをかけられた。強さゆえに逆らえず、使徒として全力を尽くさざるを得ないのです」
「その割に、生みの親を、恨んで、ないんだな……」
美しいものを、見たい。
その心に、歯止めはかけられない。
投げ掛けた疑問は、核心をついていたらしい。
言葉を詰まらせ、視線が鋭くなる。
「普通、殺す、とか、そういう言葉を使う、だろ?」
「…………」
「脅されてる、訳じゃない。苦しんでも、いない。むしろ、ソイツらのために、なりたいって、思ってる」
とても凪いだ、静かな空間。
だが、その水面下では、力が膨張し、張り詰めている。
一切を表に出さず、術の活性化でのみ、その荒ぶりを感じ取れる。
図星をつかれて動揺することに、少なからずの安堵を覚えた。底知れない怪物かと思えば、想いを胸に足掻く人間らしさがある。
「理想に、殉じる奴の、目は、綺麗だよ」
「……ええ。わたくしは、理想に殉じるために、貴方たちを使っているのです」
クロノは、笑っていた。
激痛の中でも、知りたいことを知り、得たいものを得られた。
死中には、美しき夢が宿ると知る。
だから、クロノはいくらでも手を伸ばす。
「止める。止め、る?」
「……なにか?」
「本当は、できる、とも、思っていないんじゃ、ないか?」
怪しく嗤う。
見いだすことの楽しさを、彼は知っている。
暴く形になったとして、それが認めて口に出すのなら、言葉に代えてくれるなら、心は震える。
感動に、嘘は吐けない。
「何を、目指して、いるか、知らない。けど、止めたい、も、無理も、本音な気がする」
「……状態、能力が『神』に近付いていますね。具体的ではないにせよ、このわたくしを見抜くとは」
クロノの頭と瞳が、熱くなる。
巡る血が沸騰し、爆発する寸前だ。
しかし、既に苦しみ抜いている現状で、多少痛みが増しても大差はない。
暴走を暴走と気付けぬまま、使徒を見抜こうと覗き込む。
「ですが、わたくしから教えるならまだしも、見抜かれるのは癪に障ります」
「!?」
クロノの意識を奪うのは、容易かった。
多生の腹立たしさを覚えた。
その上で、この想定外を歓迎する。
この後に何が起きるか知っているから、想定外でも気が楽だった。